20話:結果を言いに来た
何日目か、もう数えていなかった。
寝台は足りない。板を床に並べて、布を敷いた。それも足りなくなって、藁を敷いた。
朝。塩水を作る。飲ませる。汚物を溝に流す。布を替える。また作る。また飲ませる。
リーナが隔離区画の奥で子供に塩水を飲ませている。さじの運び方がエリカと同じになっている。呼吸を見て、間を取って、次を入れる。
隣でベッカーが座っていた。
朝、フリッツが物資を届けに来た時、荷馬車の隣に座っていた。杖を持っていた。
「先生。何で——」
「乗せてもらった。来たかったから来た」
フリッツが荷を下ろしながら言った。
「診療所にいらっしゃったので。お連れしました」
ベッカーは壁際に椅子を置いて、座った。それだけだった。それだけだが、そこから目だけが動いた。寝台を一つずつ見て、患者の顔を見て、呼吸を数えている。
三十年間、この町で患者を診てきた目だった。
「リーナ。六番目の男、脈が落ちとる」
リーナが振り向いた。
「え——さっき見た時は」
「今見ろ」
リーナが走った。脈を取った。確かに弱くなっている。塩水の量を増やした。
ベッカーは椅子から動かなかった。動けなかった。でも、リーナが見落としかけたものを拾った。
(先生。あなたが来てくれて——)
考える暇がなかった。奥で咳き込む声がした。走った。
***
フリッツの荷物を確認した。塩。蜂蜜。布。大鍋がもう一つ。
「クラウス様が。足りなくなる前に、と」
「……ありがとうございます。クラウスさんは」
「甘草は飲んでおられます。お加減は安定しております」
頷いた。頷きながら、頭の隅で引っかかった。
(安定。——本当に安定してるのか。あの人の身体は普通じゃない。そろそろ診に行かないと)
「先生」
リーナの声。振り返った。また新しい患者が運ばれてきた。
***
ずっと誰かが呻いている。
この空間に静かな時間はなくなっていた。塩水を飲ませて、吐かれて、作り直して、また飲ませる。
患者たちは、最初の数日はおとなしかった。
エリカの名前はもう裏通りに浸透していた。ジャムを配って腹痛を減らした先生。煮沸を広めた先生。その先生が「ここにいろ、これを飲め」と言うなら、そうするかと。半信半疑ではあっても、従ってはくれた。
でも日が経つにつれて、空気が変わり始めていた。
「なあ先生。いつまでここにいりゃいいんだ」
「下痢が止まって、自分で歩けるようになるまでです」
「もう三日だぞ。水飲んでるだけで何も変わらねえじゃねえか」
「変わってます。最初の日より飲めるようになってるでしょう」
「それが治ってるってことなのか。本当に」
答えた。答え続けた。同じ言葉で。同じ説明で。
分かっていた。彼らが不満なのは治療法ではない。先が見えないことだ。いつ治るのか。本当に治るのか。家族は元気なのか。外で何が起きているのか。
答えられないことが多すぎた。
***
昼過ぎ。
奥の寝台の男が静かになった。
隣の患者が声を上げた。
「おい。こいつ動かねえぞ」
走った。
脈を取った。ない。胸に耳を当てた。音がない。
瞳孔を見た。開いている。
(間に合わなかった)
注視した時には、もう何も読めなかった。
リーナが後ろに立っていた。息を飲んだ音が聞こえた。
ベッカーが椅子から、静かにこちらを見ていた。何も言わなかった。
布を顔にかけた。
隔離区画が静まった。それは安堵の静寂ではなかった。
「……死んだのか」
誰かが言った。
「死んだんだろ。水飲んでたのに」
「意味ねえじゃねえか」
「俺たちもこうなんのか」
声が重なり始めた。
「閉じ込められて、水飲まされて、それで死んだら——」
「先生。本当にこれで合ってんのか。薬もねえ。医者がやることがこれだけなのか」
立ち上がった。全員の方を向いた。
喉が詰まった。この人は飲めなくなっていた。それは分かっていた。塩水を増やした。布で唇を湿らせた。でも足りなかった。身体が限界を超えていた。
何を言えばいい。
「出てやる。家に帰る。こんなとこで死んでたまるか」
一人が立ち上がりかけた。
「出たら家族に感染します」
「知るかよ! ここにいたって死ぬんだろうが!」
空気が割れかけた。
扉が開いた。
グスタフだった。
全員がグスタフを見た。裏通りの住人は、この老医師を知っている。三十年。子供の頃からの付き合いの人間もいる。
「グスタフ先生——」
立ち上がりかけていた男が、グスタフに向かった。
「先生。あんたもこのやり方はおかしいって言ってたよな。水飲ませるだけなんて、そんなもん治療じゃねえって。今こいつが死んだ。やっぱり意味ねえんだろ?」
グスタフが男を見た。それから、布をかけられた寝台を見た。
長い沈黙だった。
「……おい、先生」
「孫が治った」
静かな声だった。
「あの子は隣町でもう手遅れかと思うくらい酷い状態で来た。数日間、この塩水を飲ませ続けた。今朝、粥を食った」
誰も喋らなかった。
「正しいかどうかは分からん。三十年医者をやっとるが、こんな病気は初めてだ。だが孫は間違いなく助かった。それは事実だ」
グスタフがこちらを見なかった。エリカの方を見なかった。患者たちの方を向いたまま言った。
「わしは結果を言いに来ただけだ」
リーナが前に出た。
「グスタフ先生のお孫さん、本当に頑張って飲んでくれたんです。吐いても吐いても、もう一口って。——あの子の勝利ですよ」
グスタフが鼻を鳴らした。
「もちろんだ。治したのはわしでもこの先生でもない。あいつが自分で飲んだから治った」
空気が、少しだけ変わった。怒りが消えたのではない。恐怖も残っている。でも、「助かった人間がいる」という事実が、一つだけ置かれた。
エリカは口を開いた。
「グスタフ先生とリーナの言う通りです。この病気は——悔しいけど、医者がどうにかできる病気じゃない。薬はない。私にできるのは、身体が持ちこたえるための水を作ることだけ」
全員を見た。
「戦うのは皆さんです。飲んで、耐えて、身体の中の悪いものが出ていくまで持ちこたえる。——でも、一人で戦えとは言いません。飲ませるのも、見守るのも、私たちがやる。一緒にやらせてください」
静寂。
立ち上がりかけていた男が、ゆっくり寝台に戻った。
何も言わなかった。でも、戻った。
グスタフがエリカの横に来た。小声で言った。
「……手伝いが要るんだろう」
「はい」
「座ってるだけでいいなら、おる」
ベッカーの方を見た。ベッカーが椅子からグスタフを見ていた。二人の老医師の目が合った。
ベッカーが顎でグスタフの隣を示した。もう一つ椅子を持ってこい、という意味だ。
リーナが椅子を運んだ。
***
夕方。
患者が一人、自分でさじを取って飲み始めた。リーナが横で見ていた。口を出さなかった。ベッカーも何も言わなかった。
グスタフが塩水を作っている。手つきはまだ雑だが、量は合っている。
死んだ男の寝台は片付けた。布を新しくした。明日また誰かが来るだろう。
鞄の中の手紙に、今日も触れなかった。
記録帳を開いた。今日の日付。死亡一名。新規三名。現在患者数、把握できず。
ペンを置いた。
(明日。明日、クラウスさんのところに寄ろう。甘草の残量を確認しないと)
目を閉じた。
身体の奥で、何かが重かった。疲労だと思った。
お読みいただきありがとうございます!
もし「面白そう!」「続きが気になる!」と思っていただけたら、
広告の下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、執筆(投稿)の励みになります!
ブックマークもぜひポチッとお願いします。




