19話:誰を先に
夜明け前に少年が吐いた。
塩水を作り直して、また一口ずつ飲ませた。三口目で少し落ち着いた。脈を取った。速いが、昨日よりは強い。
「飲めてるね。偉い」
少年は目を開けなかった。でも口は動いた。
グスタフが壁際で目を開けた。一睡もしていなかった。
「……どうだ」
「脱水は少し戻ってます。まだ油断できないけど、飲めている間は大丈夫です」
グスタフは何も言わなかった。孫の顔を見ていた。
リーナが起きてきた。二時間寝たはずだが、目の下が暗い。
「交代します。エリカさんこそ少し——」
「先にやることがある」
***
朝。南の裏通り。
フリッツが手配した物資が積まれていた。布の束。大鍋が三つ。塩の袋。蜂蜜の壺。それと、寝台用の板と脚が十人分。
裏通りの奥にある空き家。壁が崩れかけているが、屋根はある。広さは十人寝られる。
排水溝が建物のすぐ横を通っている。傾斜に沿って水が流れていく。汚物をここに流せば、井戸とは反対側に出ていく。
(使える)
リーナと二人で寝台を並べた。布を敷いた。鍋を据えた。水を汲んで沸かした。
「ここが隔離区画になる。患者が出たら、ここに集めて治療する」
リーナが建物を見回した。
「……ここで寝泊まりするんですか。患者さんが」
「そう。家に帰すと家族に感染する。ここに集めて、この水で治療して、治るまで出さない」
「出さない」
「出さない。それが一番大事」
リーナの顔が引き締まった。
***
昼前に二人目が来た。
裏通りの住人。四十代の男。妻が連れてきた。昨晩から水のような下痢が止まらないと言う。
注視した。
【腸管——軽度な水分喪失】
グスタフの孫より軽い。まだ自分で歩ける。
「隔離区画に入ってもらいます」
男が顔をしかめた。
「隔離? 腹を壊しただけだ。家で寝てりゃ治る」
「この病気は家で寝てても治りません。それと、あなたの吐いたものや下痢に触れた水を誰かが飲んだら、同じ病気になります」
「……俺のせいで家族が」
「あなたのせいじゃない。病気のせいです。だからあなたを家族から離す。治るまでここで過ごしてもらう」
妻が不安そうに見ていた。
「奥さん。旦那さんの身体の中に、悪さをするものが入っています。そいつが体内の水を外に出そうとする。下痢と嘔吐はそのせいです」
「治るんですか」
「治ります。出ていく水より多くの水を飲ませ続ければ、身体が持ちこたえる。持ちこたえている間に、悪いものは出ていく。ただし、ただの水では足りません。塩と蜂蜜を混ぜた特別な水を飲んでもらいます」
「……水を飲むだけで」
「それが一番確実な治療です」
妻は納得した顔ではなかった。でも、選択肢がないことは分かったようだった。
男を隔離区画の寝台に寝かせた。塩水を作って、飲ませ始めた。
***
午後。三人目。長屋の老婆。息子が背負ってきた。
「先生。おふくろが昼前から——」
注視した。脱水がかなり進んでいる。グスタフの孫と同じくらい。
寝台に寝かせた。塩水を飲ませようとしたが、飲めない。口に入れても流れ出る。
「横を向かせて。——リーナ、さじじゃなくて布に含ませて唇に当てて」
リーナが動いた。布を絞って、老婆の唇に押し当てた。少しだけ吸った。
「それでいい。少しずつ。焦らないで」
息子が隣で見ていた。
「先生。隔離ってのは、俺はおふくろに会えねえのか」
「会えます。ただし中に入ったら、出る時に手を洗ってもらう。必ず。煮沸した水で」
「……手を洗うだけでいいのか」
「手を洗うだけで全然違います」
***
夕方。四人目。五人目。
どちらも裏通りの住人。ジャムを配った区画の人間だった。
(ジャムで身体を丈夫にしても、菌の量が多ければ感染する。当たり前だ。でも——)
五人目を寝かせた。塩水を飲ませ始めた。
リーナがずっと動いている。塩水を作る。飲ませる。布を替える。汚物を溝に流す。また作る。
手順は覚えた。でも五人を一人で回すのは無理だ。
「リーナ。こっちに来て」
手が空いた隙に、隔離区画の隅で話した。
「明日から、あなたにも患者を診てもらう」
「……はい」
「塩水の作り方と飲ませ方はもう分かってるでしょう。問題はそこじゃなくて、誰を先に診るか」
「先に」
「五人同時に寝てる。全員に同じペースで飲ませる時間はない。だから、一番危ない人を見分けて、そっちを先にやる」
リーナが頷いた。
「脈が速い人。皮膚をつまんで戻りが遅い人。唇の色が悪い人。目が落ちくぼんでいる人。これが揃ってる患者が一番危ない。逆に、自分でさじを持てるくらいの人は後でいい」
「脈と、皮膚と、唇と、目。……はい」
「もう一つ。飲めなくなった人がいたら、すぐ私を呼んで。ただし、寝てるだけなのか意識が落ちてるのかは見分けて。名前を呼んで反応があるなら寝てるだけ。反応がなかったら——」
「呼びます」
「そう。迷ったら呼んでいい。判断がつかなくても、呼んだことは絶対に責めない」
リーナが口を開いた。閉じた。また開いた。
「あの。一つ聞いていいですか」
「何」
「塩水の量って、全員同じでいいんですか。身体の大きさとか、年齢とか——」
手が止まった。
(言っていなかった。当たり前すぎて飛ばした)
「……いい質問。身体が大きい人と小さい人で、失う水の量が違う。子供やお年寄りは少なめに、頻度を上げる。大人はもう少し多く、間隔を空けていい」
「それって、どのくらいの差ですか。さじの数で言うと」
「大人がさじ三杯なら、子供は一杯か二杯で、その分回数を倍にする。——リーナ、ありがとう」
「え?」
「私、今それ言い忘れてた。あなたが聞かなかったら、そのまま全員同じ量でやらせるとこだった」
リーナが目を丸くした。
「エリカさんでも忘れることあるんですね」
「あるよ。疲れてるし。だから聞いて」
「……はい。分からないことは聞きます」
「お願い」
***
夜。
グスタフの孫を診た。二日目。まだ脈は速いが、自分でさじを持って飲もうとした。
「……飲めるようになってきたね」
少年が小さく頷いた。
グスタフが傍にいた。一日中いた。塩水を飲ませる手つきが、昨日より少しだけ安定していた。
「先生」
「はい」
「……あんたのやり方が正しいかどうかは、まだ分からん」
「はい」
「だがこの子が飲めるようになっとる。それは認める」
「ありがとうございます」
グスタフは、それ以上は何も言わなかった。
***
深夜。
隔離区画に五人。全員に塩水を飲ませ終わった。次は一時間後。
リーナを寝かせた。グスタフも壁際で目を閉じている。
椅子に座った。鞄が足元にある。レナートの手紙が入っている。封を切っていない。
(読まなきゃいけない。あの子はずっと書いて送ってくれている)
手を伸ばしかけた。隣の寝台で老婆が咳き込んだ。立ち上がった。水を飲ませた。
鞄はそのまま足元に置いたままだった。
窓がない。外が明るいのか暗いのか、もう分からなくなっていた。
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