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【第二章完結】追放された宮廷女医は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito
第1章:ブライテン編

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18/50

18話:来た

朝から嫌な話が続いた。


市場で仕入れに来ていた行商人が、シュテルンから逃げてきたと言っていた。腹を壊すどころの話じゃない、水みたいなものを吐き続けて止まらない。朝まで元気だった男が昼には動けなくなった。


「大袈裟じゃないですか?」


リーナが首を傾げた。


「かもしれない。噂は膨らむから」


そう答えたが、引っかかっていた。水様性の下痢。急激な脱水。朝から昼で動けなくなる速度。


(似ている。——前世で読んだ症例に)


確信はない。噂の断片だけで病名をつけるのは危険だ。


午前の患者を診ながら、頭の隅で考え続けていた。


***


昼過ぎ。


扉が乱暴に開いた。


グスタフが立っていた。


背中に少年を背負っている。少年の腕がだらりと垂れていた。


「……頼む」


声が掠れていた。


リーナが固まった。グスタフの顔を見て、背中の少年を見て、動けなくなっている。


「リーナ。寝台」


「は——はい!」


少年を寝台に寝かせた。十五歳くらい。顔が灰色だった。唇がひび割れている。目が落ちくぼんでいる。


脈を取った。速い。弱い。皮膚をつまんだ。戻らない。


(脱水。かなり進んでいる)


「いつからですか」


「昨晩から。下痢が止まらん。水のような——」


グスタフの声が途切れた。言葉にするのが辛いのだと分かった。


「吐きましたか」


「明け方に二度」


少年の腹に触れた。注視した。


【腸管——激しい水分喪失。電解質の均衡が崩壊】


(——やっぱりか)


前世の教科書の頁が開いた。この水様性の下痢。この脱水の速度。


(コレラだ)


確信した瞬間、別のことが頭をよぎった。シュテルン。ダールハイム。東と西で同時に流行った。水系感染なら水源は一つのはずだ。二つの方角から同時に——。


少年が呻いた。身体が震えている。


(今はいい。今は目の前だ)


「リーナ。お湯を沸かして。大きい鍋で」


「はい!」


リーナが台所に走った。手順は分かっていなくても、お湯を沸かすことはできる。


グスタフは立ったまま、孫の顔を見ていた。拳を握っている。


「何をするつもりだ」


「水分を補います。塩と糖分を混ぜた水を、少しずつ飲ませ続けます」


「……水を飲ませるだけか」


「はい」


「ふざけるな」


グスタフの声が低くなった。


「三十年医者をやっとる。腹の病に水を飲ませるなんぞ、聞いたことがない。薬は。薬湯は」


「この病には薬湯は効きません。身体から失われていく水分を、入れ続けるしかない。それが一番確実な——」


「確実だと? 孫が死にかけとるのに、水を飲ませるだけで確実だと?」


声が震えていた。怒りだけではない。


(この人は怖いんだ。三十年の知識が通用しない病気が来て、孫が死ぬかもしれなくて、目の前の若い医者の言うことを信じるしかない。その怖さだ)


「グスタフ先生」


「……何だ」


「この処置をしっかり続ければ、助かる確率は高いです。十五歳で、体力がある」


「もしこれで助からなかったら——」


「助けます」


グスタフの目がこちらを射た。長い沈黙だった。


それから、壁際に下がった。座らなかった。壁に背をつけて、孫を見ていた。


リーナが戻ってきた。


「お湯、沸きます。あと何をすればいいですか」


「沸いたら少し冷まして。そこに塩をひとつまみと蜂蜜をひとさじ入れる。私がやるから見てて」


「はい」


リーナの手が震えていた。気づいていないふりをした。


塩水を作った。さじで一口ずつ、少年の口に運んだ。少年が顔をしかめた。飲み込めない。口の端から零れた。


「もう一口。ゆっくりでいい」


二口目。飲んだ。三口目で吐きそうになった。背中をさすった。四口目。


「吐いても続ける。止めたら負ける」


リーナが横で見ていた。さじの量、口に運ぶ間隔、少年の呼吸を見てから次を入れるタイミング。目が動いている。覚えようとしている。


(今は私がやる。でも、この子にも覚えてもらわないと。一人じゃ回せなくなる)


***


一時間が過ぎた。少年は目を閉じている。脈はまだ速いが、さっきよりは飲めるようになっている。


「リーナ。このまま続けて。同じ量で。同じ間隔で」


「はい。——エリカさんはどこに」


「少し出る。すぐ戻る」


グスタフがこちらを見た。


「出る? 今か」


「準備をしに行きます。この病気は、広がります。この子だけで終わらない」


グスタフの顔が強張った。


「リーナが見ています。飲ませ方は今見た通りです。グスタフ先生も手伝ってください。さじで、一口ずつ。止めないで」


グスタフが何か言いかけた。飲み込んだ。孫の枕元に寄って、さじを取った。


***


走った。クラウスの屋敷まで。


息を切らして居間に入った。フリッツが立ち上がった。


「先生。どう——」


「クラウスさん。来ました。近くの町で流行っていた病が、ブライテンに」


クラウスが椅子から立ち上がった。


「……来たか」


「水を介して広がります。感染したら、下痢と嘔吐で身体の水分が急激に失われる。処置が遅れれば死にます」


「それで」


「あなたは外に出ないでください」


「理由を言え」


「あなたの身体は普通の人より抵抗力が落ちています。感染したら——耐えられない可能性が高い」


クラウスは窓の外を見た。長い沈黙だった。


「……分かった」


「それと、相談があります」


椅子に座った。息が整わない。フリッツが水を出してくれた。


「患者を隔離したい。感染した人間を一箇所に集めて、そこだけで治療する。人の移動を減らして、感染の広がりを遅くするしかない」


「場所は」


「南の裏通りが広さはある。でも——」


言葉を探した。


「隔離した場所で患者が出すもの——吐いたもの、下痢。これが一番危険なんです。これに触れた水を飲んだら感染する。だから汚物を患者のいる場所から離す仕組みがないと、隔離区画自体が感染源になる」


クラウスが黙って聞いていた。フリッツも。


「井戸の水を守るだけじゃなく、汚物を一方向に流して、井戸から遠ざける必要がある。でも今からそんな設備を——」


「南の排水溝は使えないか」


クラウスが言った。


「……排水溝」


「裏通りから長屋街まで通っている。傾斜がついていて、水が一方向に流れる。汚水を井戸の反対側に流す構造になっている」


あの溝だ。三ヶ月前から見ていた工事。誰がやっているか分からなかった。完成して、綺麗に水が流れていた。


「あれは——あなたがやったんですか」


クラウスは答えなかった。フリッツがこちらを見た。


「クラウス様のご指示で、私が手配しました」


「フリッツ」


「事実ですので」


クラウスが鼻を鳴らした。


「あんたが役所で跳ね返された後、排水くらいなら金で片がつくと思っただけだ。疫病のためじゃない」


「でも使えます。あの溝があれば隔離区画が成立する」


「……結果論だ」


「結果が出てるんです」


クラウスがこちらを見た。何か言いかけて、やめた。


「好きにしろ」


「ありがとうございます」


「礼を言われることはしてない」


(この人は——)


「もう一つ。隔離区画に必要なものがあります。清潔な布。煮沸用の大きい鍋。塩と蜂蜜。できるだけ多く」


「フリッツ」


「承知いたしました」


「あと——甘草。しばらく届けに来られないかもしれません」


「飲み方は分かっている」


「必ず飲んでください。今は特に」


「あんたこそ無理をするな」


「しません」


クラウスの目が細くなった。信じていない顔だった。


***


診療所に戻った。


リーナとグスタフが少年の傍にいた。グスタフがさじで塩水を飲ませている。不器用だった。手が震えている。でも、止めていなかった。


「どう?」


「飲めてます。少しずつ。吐かなくなりました」


少年の脈を取った。まだ速い。でもさっきよりは力がある。


(今日中に安定はしない。二日か三日かかる。でも飲めている。今は、それでいい)


机の上に封書が置いてあった。王都から。レナートの字。四通目。


手に取った。封の厚さで分かる。詳しく書いてくれている。


開けようとして——やめた。鞄に入れた。


(今は読めない。読んだら、そっちに頭が行く。目の前のことが先だ)


窓の外が暗くなっている。


「リーナ」


「はい」


「今夜から交代で看る。二時間ずつ。私が先にやるから、あなたは寝て」


「……私が先でもいいですよ」


「あなたには明日、もっと大事な仕事がある」


「大事な仕事?」


「明日から患者が増える。たぶん、この子だけじゃ済まない。そうなったら、あなたにこの治療をやってもらう」


リーナの顔が変わった。


「……私がですか」


「さっき見てたでしょう。さじの量。間隔。呼吸を見るタイミング」


「見てました。でも——」


「明日もう一度教える。今夜は寝て」


リーナが頷いた。顔は強張っていた。でも逃げる目ではなかった。


グスタフが壁際に座っていた。目を閉じている。眠ったのではない。孫の呼吸の音を聞いている。


少年の枕元に座った。さじを取った。一口。また一口。


長い夜が始まった。

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