18話:来た
朝から嫌な話が続いた。
市場で仕入れに来ていた行商人が、シュテルンから逃げてきたと言っていた。腹を壊すどころの話じゃない、水みたいなものを吐き続けて止まらない。朝まで元気だった男が昼には動けなくなった。
「大袈裟じゃないですか?」
リーナが首を傾げた。
「かもしれない。噂は膨らむから」
そう答えたが、引っかかっていた。水様性の下痢。急激な脱水。朝から昼で動けなくなる速度。
(似ている。——前世で読んだ症例に)
確信はない。噂の断片だけで病名をつけるのは危険だ。
午前の患者を診ながら、頭の隅で考え続けていた。
***
昼過ぎ。
扉が乱暴に開いた。
グスタフが立っていた。
背中に少年を背負っている。少年の腕がだらりと垂れていた。
「……頼む」
声が掠れていた。
リーナが固まった。グスタフの顔を見て、背中の少年を見て、動けなくなっている。
「リーナ。寝台」
「は——はい!」
少年を寝台に寝かせた。十五歳くらい。顔が灰色だった。唇がひび割れている。目が落ちくぼんでいる。
脈を取った。速い。弱い。皮膚をつまんだ。戻らない。
(脱水。かなり進んでいる)
「いつからですか」
「昨晩から。下痢が止まらん。水のような——」
グスタフの声が途切れた。言葉にするのが辛いのだと分かった。
「吐きましたか」
「明け方に二度」
少年の腹に触れた。注視した。
【腸管——激しい水分喪失。電解質の均衡が崩壊】
(——やっぱりか)
前世の教科書の頁が開いた。この水様性の下痢。この脱水の速度。
(コレラだ)
確信した瞬間、別のことが頭をよぎった。シュテルン。ダールハイム。東と西で同時に流行った。水系感染なら水源は一つのはずだ。二つの方角から同時に——。
少年が呻いた。身体が震えている。
(今はいい。今は目の前だ)
「リーナ。お湯を沸かして。大きい鍋で」
「はい!」
リーナが台所に走った。手順は分かっていなくても、お湯を沸かすことはできる。
グスタフは立ったまま、孫の顔を見ていた。拳を握っている。
「何をするつもりだ」
「水分を補います。塩と糖分を混ぜた水を、少しずつ飲ませ続けます」
「……水を飲ませるだけか」
「はい」
「ふざけるな」
グスタフの声が低くなった。
「三十年医者をやっとる。腹の病に水を飲ませるなんぞ、聞いたことがない。薬は。薬湯は」
「この病には薬湯は効きません。身体から失われていく水分を、入れ続けるしかない。それが一番確実な——」
「確実だと? 孫が死にかけとるのに、水を飲ませるだけで確実だと?」
声が震えていた。怒りだけではない。
(この人は怖いんだ。三十年の知識が通用しない病気が来て、孫が死ぬかもしれなくて、目の前の若い医者の言うことを信じるしかない。その怖さだ)
「グスタフ先生」
「……何だ」
「この処置をしっかり続ければ、助かる確率は高いです。十五歳で、体力がある」
「もしこれで助からなかったら——」
「助けます」
グスタフの目がこちらを射た。長い沈黙だった。
それから、壁際に下がった。座らなかった。壁に背をつけて、孫を見ていた。
リーナが戻ってきた。
「お湯、沸きます。あと何をすればいいですか」
「沸いたら少し冷まして。そこに塩をひとつまみと蜂蜜をひとさじ入れる。私がやるから見てて」
「はい」
リーナの手が震えていた。気づいていないふりをした。
塩水を作った。さじで一口ずつ、少年の口に運んだ。少年が顔をしかめた。飲み込めない。口の端から零れた。
「もう一口。ゆっくりでいい」
二口目。飲んだ。三口目で吐きそうになった。背中をさすった。四口目。
「吐いても続ける。止めたら負ける」
リーナが横で見ていた。さじの量、口に運ぶ間隔、少年の呼吸を見てから次を入れるタイミング。目が動いている。覚えようとしている。
(今は私がやる。でも、この子にも覚えてもらわないと。一人じゃ回せなくなる)
***
一時間が過ぎた。少年は目を閉じている。脈はまだ速いが、さっきよりは飲めるようになっている。
「リーナ。このまま続けて。同じ量で。同じ間隔で」
「はい。——エリカさんはどこに」
「少し出る。すぐ戻る」
グスタフがこちらを見た。
「出る? 今か」
「準備をしに行きます。この病気は、広がります。この子だけで終わらない」
グスタフの顔が強張った。
「リーナが見ています。飲ませ方は今見た通りです。グスタフ先生も手伝ってください。さじで、一口ずつ。止めないで」
グスタフが何か言いかけた。飲み込んだ。孫の枕元に寄って、さじを取った。
***
走った。クラウスの屋敷まで。
息を切らして居間に入った。フリッツが立ち上がった。
「先生。どう——」
「クラウスさん。来ました。近くの町で流行っていた病が、ブライテンに」
クラウスが椅子から立ち上がった。
「……来たか」
「水を介して広がります。感染したら、下痢と嘔吐で身体の水分が急激に失われる。処置が遅れれば死にます」
「それで」
「あなたは外に出ないでください」
「理由を言え」
「あなたの身体は普通の人より抵抗力が落ちています。感染したら——耐えられない可能性が高い」
クラウスは窓の外を見た。長い沈黙だった。
「……分かった」
「それと、相談があります」
椅子に座った。息が整わない。フリッツが水を出してくれた。
「患者を隔離したい。感染した人間を一箇所に集めて、そこだけで治療する。人の移動を減らして、感染の広がりを遅くするしかない」
「場所は」
「南の裏通りが広さはある。でも——」
言葉を探した。
「隔離した場所で患者が出すもの——吐いたもの、下痢。これが一番危険なんです。これに触れた水を飲んだら感染する。だから汚物を患者のいる場所から離す仕組みがないと、隔離区画自体が感染源になる」
クラウスが黙って聞いていた。フリッツも。
「井戸の水を守るだけじゃなく、汚物を一方向に流して、井戸から遠ざける必要がある。でも今からそんな設備を——」
「南の排水溝は使えないか」
クラウスが言った。
「……排水溝」
「裏通りから長屋街まで通っている。傾斜がついていて、水が一方向に流れる。汚水を井戸の反対側に流す構造になっている」
あの溝だ。三ヶ月前から見ていた工事。誰がやっているか分からなかった。完成して、綺麗に水が流れていた。
「あれは——あなたがやったんですか」
クラウスは答えなかった。フリッツがこちらを見た。
「クラウス様のご指示で、私が手配しました」
「フリッツ」
「事実ですので」
クラウスが鼻を鳴らした。
「あんたが役所で跳ね返された後、排水くらいなら金で片がつくと思っただけだ。疫病のためじゃない」
「でも使えます。あの溝があれば隔離区画が成立する」
「……結果論だ」
「結果が出てるんです」
クラウスがこちらを見た。何か言いかけて、やめた。
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
「礼を言われることはしてない」
(この人は——)
「もう一つ。隔離区画に必要なものがあります。清潔な布。煮沸用の大きい鍋。塩と蜂蜜。できるだけ多く」
「フリッツ」
「承知いたしました」
「あと——甘草。しばらく届けに来られないかもしれません」
「飲み方は分かっている」
「必ず飲んでください。今は特に」
「あんたこそ無理をするな」
「しません」
クラウスの目が細くなった。信じていない顔だった。
***
診療所に戻った。
リーナとグスタフが少年の傍にいた。グスタフがさじで塩水を飲ませている。不器用だった。手が震えている。でも、止めていなかった。
「どう?」
「飲めてます。少しずつ。吐かなくなりました」
少年の脈を取った。まだ速い。でもさっきよりは力がある。
(今日中に安定はしない。二日か三日かかる。でも飲めている。今は、それでいい)
机の上に封書が置いてあった。王都から。レナートの字。四通目。
手に取った。封の厚さで分かる。詳しく書いてくれている。
開けようとして——やめた。鞄に入れた。
(今は読めない。読んだら、そっちに頭が行く。目の前のことが先だ)
窓の外が暗くなっている。
「リーナ」
「はい」
「今夜から交代で看る。二時間ずつ。私が先にやるから、あなたは寝て」
「……私が先でもいいですよ」
「あなたには明日、もっと大事な仕事がある」
「大事な仕事?」
「明日から患者が増える。たぶん、この子だけじゃ済まない。そうなったら、あなたにこの治療をやってもらう」
リーナの顔が変わった。
「……私がですか」
「さっき見てたでしょう。さじの量。間隔。呼吸を見るタイミング」
「見てました。でも——」
「明日もう一度教える。今夜は寝て」
リーナが頷いた。顔は強張っていた。でも逃げる目ではなかった。
グスタフが壁際に座っていた。目を閉じている。眠ったのではない。孫の呼吸の音を聞いている。
少年の枕元に座った。さじを取った。一口。また一口。
長い夜が始まった。
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