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【第二章完結】追放された宮廷女医は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito
第1章:ブライテン編

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17話:見えてた

南の裏通りから、腹痛の患者が減った。


先月は週に五人来ていた。今週は一人。しかもその一人は、ジャムを配っていない区画の住人だった。


「エリカさん。裏通り、本当に減りましたね」


「うん。もう少し様子を見る」


「もうちょっと喜んでもいいと思うんですけど」


「一ヶ月続いたら喜ぶ」


「えー」


リーナが午前の患者を送り出しながら、配布先の話を始めた。東寄りの区画にまだ届いていない家があること。煮沸を始めた家が増えていること。グスタフの蜂蜜がそろそろ次の壺に入ること。


聞きながら、棚のジャムの瓶を数えた。足りている。今のところは。


***


午後。ベッカーの家。


玄関を開けた。


ベッカーが立っていた。台所の入口。壁に手をついて。片足に体重を偏らせているが、立っている。


「先生」


「……来たか」


「立ってるじゃないですか」


「壁がなければ倒れる。立ってるとは言わん」


「壁があれば立てるってことです」


ベッカーが鼻を鳴らした。壁から手を離さなかった。離せないのではなく、離さない。慎重な人だ。


リハビリを始めた。座った状態で足を上げる運動。左足が前より高く上がる。


「庭のハーゲブッテ、随分持っていったな」


「おかげさまで。裏通りの患者が減りました」


「あの実にそんな力があるとは」


「実の力というより、食べてもらえた力です。リーナが上手くやってます」


「あの子が」


「先生の弟子ですから」


ベッカーは何も言わなかった。窓の方を見ていた。


***


クラウスの屋敷に向かった。


居間に入った時、フリッツが机の上の書類を手早くまとめるのが見えた。封蝋のついた書簡。一瞬だけ目に入って、フリッツの手の中に消えた。


クラウスは窓際にいた。振り向いた。


脈を取った。安定。甘草の水を渡した。飲んだ。顔をしかめた。


足を診た。浮腫が消えている。顔色もいい。


(——早いな)


手を離した。アジソン病だと思って甘草を始めた。効いている。それは間違いない。ただ、アジソン病の経過として見ると、この戻り方は少し——。


「どうした」


「いえ。順調です」


フリッツが茶を出してくれた。三人で座った。


しばらく、何の話でもない話をした。秋の空気が変わったこと。市場に栗が出始めたこと。フリッツが栗の渋皮煮を作れるという意外な話。


「フリッツさん、料理するんですか」


「殿——クラウス様がお召し上がりにならないので、腕が鈍りますが」


「栗は食う」


「それだけですが」


こういう時間が増えた。甘草を届けて、脈を取って、帰る。それだけだった日課に、座って茶を飲む時間が挟まるようになった。


「あんたは一人で抱えすぎだ」


「急にどうしました」


「リーナに任せられることは任せろ。あんたが全部やる必要はない」


「任せてますよ。配布も煮沸も——」


「医療の話じゃない」


黙った。何の話をしているのか分からなかった。分からなかったが、この人が意味なく言うことはない。


「……考えておきます」


「考えるな。やれ」


***


診療所に戻ると、手紙が届いていた。


レナートの字。三通目。封が厚い。


開いた。便箋三枚。十日分の記録がびっしり書かれていた。毎日。食事。薬を渡した人の名前。体調。一日も抜けていない。


(全部書いてくれた。本当に)


机に広げた。記録帳を開いて、一覧にした。


十日間。悪化した日を赤で囲む。二日。調子のいい日を青。八日。


赤い日。薬を持ってきた名前。どちらもハインツ。


ペンが止まった。


(ハインツ——)


顔が浮かんだ。宮廷にいた頃に何度か顔を合わせている。物静かな侍医だった。目立たない。悪い印象はなかった。


(あの人が?)


青い日。ロルフ。マティアス。カール。名前がばらけている。赤い日だけが同じ名前。


(二回。まだ二回だ。十日で二回では何も言えない)


便箋を出した。



『レナートへ


記録ありがとう。一日も抜かさず書いてくれたの、分かった。


もう少し続けてほしい。同じように、毎日。できれば一ヶ月分。


理由はまだ言えない。でもあなたの記録はとても大事だ。


ブライテンは元気です。ジャムが評判になった。


エリカ』



封をした。


「エリカさん。また手紙ですか?」


リーナが横に立っていた。


「うん。記録を続けてほしいって」


「レナートさん、真面目ですよね。毎日書くの」


「あの子は真面目だから」


「エリカさんに頼まれたから、でしょ」


「……どういう意味」


「別にー」


***


夕方に近い時間。もう今日は終わりかと思った頃に、扉が開いた。


四十がらみの女性。右手を庇っている。


「先生。手を切っちまって」


リーナが立ち上がった。


「見せてください。——あ、結構深いですね。布を持ってきます」


リーナが布と水を用意している間に、女性が椅子に座った。顔色が妙に白い。手の傷は確かに深いが、出血はもう止まりかけている。顔色の悪さは出血だけでは説明がつかない。


リーナが戻ってきて、傷口を洗い始めた。手際は悪くない。


「ちょっとしみますよ。……はい、綺麗になりました。包帯巻きますね」


巻きながら、リーナの手が一瞬止まった。


女性の爪を見ている。


(気づいた)


リーナは気づいている。爪の色が薄い。爪床が白い。貧血の兆候だ。手の傷とは関係ない。


リーナがこちらをちらっと見た。


目が合った。言いたいことがあるのが分かった。でもリーナは視線を戻して、包帯を巻き終えた。


「はい、できました。二日後にまた見せてくださいね」


女性が帰った後。


「リーナ」


「はい」


「見えてたでしょう」


リーナが固まった。


「……爪の色ですか」


「うん」


「白かったです。出血のせいかなと思ったんですけど、傷はもう止まりかけてたし。それで、前にエリカさんが別の患者さんに言ってたのを思い出して。爪が白いのは血が足りてないって——」


「合ってる。なんで言わなかったの」


リーナが黙った。しばらく口を開かなかった。


「……間違ってたらって思って」


「間違ってたら?」


「手の傷で来た人に、いきなり血が足りてないですって言って。もし違ったら。怖がらせるだけかもしれないし。エリカさんが何も言わなかったから、やっぱり私の見間違いかなって——」


「私が何も言わなかったのは、あなたが言うか見てたからだよ」


リーナの目が揺れた。


「……ずっと教わってるのに。エリカさんの隣にいて、ずっと見てるのに。肝心なところで口が動かないんです。ダメですよね」


椅子に座った。リーナの向かいに。


「ダメじゃない」


「でも——」


「それは正しい成長をしてるってことだよ」


リーナが顔を上げた。


「最初の頃のあなたは、何も見えてなかった。見えないから怖くもなかった。今は見えてる。見えてるから、間違えることが怖い。——それは正しい順番」


リーナが黙って聞いている。


「見えてない人間は間違えても気づかない。見えている人間は、間違えたら患者が困ると分かっている。だから止まる。それは臆病じゃない。医者として当然の感覚だよ」


(前世で自分もそうだった。研修医の頃。目の前の患者に所見が見えている。でも口に出して、間違っていたら。指導医が何も言わない。自分の見立てが正しいのか分からない。あの頃の自分は——)


「私も同じだった」


「え」


「王宮で医者を始めた頃。ずっとそうだった。先輩の医師の顔を見てばかりで、自分の口から診断を出せなかった」


嘘ではない。前世の記憶を王宮に置き換えただけだ。


「エリカさんが? そんな時があったんですか」


「あった。長かったよ。でも、あるとき気づいた。見えているのに言わないのは、間違えるより悪いって」


「……」


「間違えたら訂正すればいい。でも見えていたのに黙っていたら、訂正する機会すら来ない」


リーナが自分の手を見た。さっき包帯を巻いた手。


「……次は、言います」


「うん」


「間違えるかもしれないけど」


「間違えたら私が直す。まだ隣にいるから」


リーナの目が少し潤んだ。すぐに袖で拭いた。


「……はい」


「さっきの患者さん、次来た時に血の検査をするから。あなたの目は合ってた。自信持って」


リーナがぐっと拳を握った。


「分かりました! 次は絶対言います! 見えたら全部言います! 何でも!」


「何でもは言わなくていい。見えたことだけ」


「見えたこと全部言います!」


(急にスイッチが入った。——まあ、この子はこういう振れ方をする)


「あと、大声で言わないでね。患者さんの前では落ち着いて」


「はい! 落ち着いて言います!」


全然落ち着いていない。


「エリカさん。私、ちゃんとした医者になれますかね」


「なれるよ」


「本当ですか」


「知識は足りない。判断も甘い。でも、目があるし、患者を怖がる感覚がある。それは教えて身につくものじゃない」


リーナの顔がぱっと明るくなった。


「やります! もっと勉強します! 明日から——いえ、今日から!」


「まず片付けてからね」


「はい!」


リーナが棚に向かった。鼻歌が始まった。さっきまで落ち込んでいたのが嘘みたいだ。


(前世の研修医にも、こういう子がいた。落ち込むのが早くて、立ち直るのも早い。大体そういう子が、いい医者になった)


棚を片付けているリーナの背中を見た時、扉が開いた。


ジャムのお礼に来た長屋のおかみさんだった。籠に芋を入れて持ってきてくれた。


「先生、いつもありがとうね。——あ、それと聞いた? シュテルンで腹の病が流行ってるって。うちの亭主の商売仲間が来なくなっちゃって」


「シュテルン?」


「ダールハイムもだって。ひどい下痢で何人か死んだとか。怖いねえ」


芋を受け取って、おかみさんを見送った。


リーナがこちらを見ていた。鼻歌が止まっている。


「エリカさん。シュテルンとダールハイムって——」


「近い。どっちも馬車で二日くらい」


「こっちにも来ますか」


「分からない。何の病気かも分からないし。でも——来てもいいように、できることはやっておこう」


「ジャムですか」


「ジャムと、煮沸。まだ届いていない家にも広げる。身体が丈夫な方が、何が来ても耐えやすい」


「はい。明日から東の区画も行きます」


「お願い」


窓の外が暗くなっていた。


記録帳を開いた。今日の日付の横に書いた。


近隣で流行病の噂あり。対策を拡大する。

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