田野は歌う、愛すべきもの全てに
朝の教室は、水面のように静まり返っていた。
田野は机に伏し、ラノベの頁をめくる。文字の海へ潜っている間だけ、現実は遠ざかる。
「おーい、朝から主人公気取り?」
突然、肩に腕が回された。
田野はびくりと震え、振り返る。
「……誰だよ」
そこにいたのは、あの陽キャだった。
かつて自分が“仲間”だと思い込んでいた存在。
「なに読んでんの? またそれ? 飽きねーな」
周囲から笑いがこぼれる。
冗談の形をした言葉は、柔らかく聞こえて、芯だけが鋭かった。
与志野も輪の中にいた。
「田野、それ前も読んでなかった?」
その声音は昔と変わらない。
ただ、もう自分へ向けられる温度は残っていなかった。
「……別にいいだろ」
「怒んなってw」
笑い声。
教室という檻の中で、それはやけに響いた。
胸の奥に、細いひびが走る。
「お前さ、マジでそういうとこ陰キャだよな」
誰かが言う。
軽口のはずなのに言葉は静かに沈み、抜けなくなる。
田野の視界が滲んだ。
「……泣いてんの?」
「いや、違……」
言い終える前に、涙が落ちた。
その時、教室の扉が開く。
「おはよー」
フンペチだった。
状況を見渡し、少しだけ眉を寄せる。
「ちょっとやめなよ……朝からさ」
半分笑ったままの注意。
嵐を止めるには、あまりに軽い声。
「えー、いじってただけじゃん」
「ねー?」
陽キャたちは笑う。
田野の胸の奥で、何かが冷たく崩れた。
(……それだけ?)
(本気で怒ってくれないのかよ)
期待が、音もなく砕け散る。
「……なんで」
田野は立ち上がった。
「なんで、笑ってんだよ」
フンペチが少し驚いた顔をする。
「え? 田野君、落ち着いて——」
言葉は最後まで届かなかった。
教室の空気が一瞬で濁る。
誰かがやば、と呟き、スマホを構える。
現実はいつだって観客を必要とする。
「ちょ、撮ってるってw」
「これ絶対バズるやつ」
笑い声が遠ざかる。
田野の耳には、自分の呼吸だけが響いていた。
——気づいた頃には、すべてが遅かった。
フンペチの顔は──
雨に打たれて原型が分からなくなった犬のフンのようで、地下鉄の駅の床に飛び散っている人間の吐瀉物のような"見るも無惨な姿"になっていた。
画面の向こう側で、知らない誰かたちが言葉を投げ始める。
『最低』
『怖すぎ』
『引くわ』
『前からキモかった』
石の代わりに文字が降る時代だった。
夜。
スマホの光だけが部屋を照らす。
「……なんでだよ」
呟きは誰にも届かない。
世界は変わっていない。
ただ、自分の居場所だけが消えていた。
窓の外、朝と同じ空。
けれど田野の中では、もう季節が終わっていた。
頁は戻らない。
物語は、取り消せない一行を書き終えていた。
――そして、静かに次の章へ。




