パン
朝の空気は透明だった。
それなのに、田野には息がしづらかった。
校門をくぐるたび、世界が少しずつ狭くなる気がする。
視線が刺さる。
言葉にならない音が背中にまとわりつく。
――その時だった。
「おい。」
背後から声。
振り返るより早く、複数の影が覆いかぶさった。
笑い声。
靴音。
乱れた空気。
それは嵐というより、遊びの延長のように軽かった。
だからこそ残酷だった。
「ネットのスターじゃんw」
「有名人は登校大変だな?」
誰かが言うたび、周囲が笑う。
田野の世界はぐらりと傾き、やがて床の冷たさだけが現実になった。
視界の端で、与志野が立っていた。
しばらく黙って見下ろし、そして小さく息を吐く。
「……馬鹿だからな、お前」
田野は顔を上げる。
与志野の目には、もう迷いはなかった。
「俺さ、フンペチのこと好きだったんだよ」
その言葉は静かで、だから重かった。
「なのにお前、全部壊したじゃん」
間。
「マジでさ――終わってるよ」
吐き捨てるように言い、背を向ける。
陽キャたちが笑いながら続く。
「じゃあな、主人公(笑)」
笑い声だけが廊下に残った。
⸻
しばらくして、田野は立ち上がった。
膝が震えているのか、床が揺れているのか分からない。
教室の扉を開く。
途端に、音が生まれた。
ヒソヒソ。
クスクス。
止まりかけて、また始まる囁き。
「来た……」
「動画のやつだろ?」
「やばくね?」
言葉は直接向けられない。
けれど矢のように正確に届く。
田野は自分の席を見る。
机いっぱいに走る黒い線。
『暴力男』
『きも』
『消えろ』
『封印しとけよ(笑)』
油性ペンの文字は、乾いた傷跡のようだった。
椅子を引く音がやけに大きく響く。
座った瞬間、何かが胸の奥で崩れた。
(……違う)
(こんなはずじゃ)
言い訳が浮かぶ前に、涙が落ちた。
止まらない。
肩が震える。
教室のざわめきは止まらない。
むしろ、雨音のように心地よさすら帯びて続いていく。
世界は、自分が壊れても進むらしい。
田野は机に額を押しつけた。
冷たい木の感触が唯一の救いだった。
誰も声をかけない。
誰も止めない。
春の光だけが窓から差し込み、
無関係そうに床を照らしている。
まるで、この教室に悲劇など存在しないかのように。
涙はやがて嗚咽に変わり、
嗚咽は音になり、
音はただの雑音として教室に溶けていった。
その日、田野は初めて知る。
孤独とは一人でいることではない。
大勢の中で、誰にも存在を必要とされないことだと。
窓の外では風が吹いていた。
だが彼の季節だけが、まだ冬のままだった。
――物語は、静かに沈んでいく。




