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気配、一瞬


翌日。


フンペチの席は空だった。


椅子が引かれた形のまま、そこに残っている。

まるで、そこだけ時間が抜け落ちたみたいに。


教室の空気は重く、湿っていた。


誰も何も言わない。

だが視線だけが、細い針のように田野へ向けられている。


田野は机に突っ伏す。


(寝ているふり)


それは防御であり、逃避であり、

そして誰にも気づかれたくないという祈りだった。


世界から切り離されたような暗闇の中で、

時間だけが粘つくように流れていく。


「田野」


声が落ちる。


担任――大井史だった。


「放課後、職員室に来なさい」


その声は、予想以上に大きかった。


水面に石が投げ込まれたように、

教室の空気が一斉に揺れる。


視線が集まる。

ざわめきが広がる。


「……はい」


小さな返事は、

誰にも届かなかった。



放課後。


廊下は昼間よりも明るく感じられた。

逃げ場がないからだ。


歩くたびに、声が落ちてくる。


「来た来た」

「例のやつ」

「職員室呼び出しとか草」


笑い声。

軽いはずのそれが、重く胸に沈む。


(……早く、終われ)


心臓が内側から拳で叩かれているようだった。


田野は顔を上げない。


ただ、床だけを見て歩く。

自分の影だけを追うように。


階段へ辿り着く。


一段、降りる。


その先に――

与志野がいた。


手すりに軽く寄りかかり、

何もしていないようで、どこか立ち尽くしている。


目が合う。


ほんの一瞬。


だがその間に、

言葉にできないものがいくつも行き交った。


謝罪。

怒り。

後悔。

軽蔑。


どれも形にならず、

ただ空気の中に滞る。


そこには確かに“壁”があった。


透明で、触れられないのに、

決して越えられないもの。


「……」


与志野が口を開きかける。

だが、閉じる。


代わりに、短く息を吐いた。


それだけで、十分だった。


田野も何も言わない。

言えなかった。


もし言葉を選べば、

すべてが崩れてしまいそうだった。


二人はすれ違う。


肩が触れそうで、触れない距離。


それはかつての距離より、ずっと遠かった。



職員室の前に立つ。


扉は閉ざされている。


ノックをする前に、

田野は一瞬だけ目を閉じた。


(……まだ、戻れるか?)


問いは、すぐに沈んだ。


答えを出すには、

遅すぎた。


静かな廊下に、ノックの音が響く。


コン、コン。


それはまるで、

自分自身に下された判決の音のようだった。


「入れ」


中から、大井史の声。


田野は扉を開ける。


その先にあるのが、

救いか、終わりかは――まだ分からない。



窓の外では、夕日が沈みかけていた。


光はあるのに、

もう温度は残っていない。


それでも世界は、何事もなかったように続いていく。


田野だけを、置き去りにして。


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