誰かがやらないといけない
職員室の空気は、どこか乾いていた。
紙の匂いと、古い時間が沈殿している。
大井史は書類から顔を上げる。
「座れ」
短い言葉。
逃げ道のない命令。
田野は椅子に腰を下ろす。
背もたれがやけに遠い。
しばらくの沈黙。
それから、大石が言った。
「――停学だ」
その一言は、重くはなかった。
むしろ軽く、机の上に置かれた紙片のようだった。
「退学じゃないだけ有難いと思え」
淡々と続く声。
「俺もな、お前を退学にさせないために、かなり動いた」
恩着せがましい言葉がゆっくりと降りてくる。
田野は黙って聞いていた。
(……それで?)
心のどこかが冷めている。
現実が、少し遠い。
(結局、俺は切り捨てられてないってことだろ)
半ば呆れにも似た静けさ。
だが、それは――
嵐の前の、水面だった。
大井史の手が止まる。
ペン先が、紙に触れたまま動かない。
次の瞬間。
「――お前、自分が何したか分かってんのか!!」
声が、空間を裂いた。
職員室の空気が震える。
周囲の教師たちが一斉に顔を上げる。
その声は、もはや会話ではなかった。
断罪に近い、響き。
「ふざけるなよ!!
人一人の人生、どれだけ踏みにじったと思ってる!!」
言葉が飛ぶ。
一つ一つが鋭く、逃げ場を許さない。
「ネットにまで広がってるんだぞ!?
お前一人の問題じゃねえんだ!!」
それは正論だった。
否定の余地がないほど、正しい。
だからこそ、残酷だった。
田野は黙る。
口を開けば、自分が崩れる気がした。
(……うるさいな)
心の奥で、かすかな声。
(分かってるよ)
(分かってるけど――)
それでも、どこかで思っている。
(でも、俺の方が上だろ)
根拠のない高さ。
崩れかけているのに、まだそこにある錯覚。
大井史は続ける。
「お前がどんな理由を並べようがな、
やったことは消えないんだよ!!」
ナイフのような言葉。
静かに、確実に、深く刺さる。
「逃げんな!!自分のやったことから目逸らすな!!」
沈黙。
重たい空気が、部屋を満たす。
田野は視線を落とす。
床の模様が、妙に鮮明に見える。
(……反論、できるか?)
できない。
言葉は浮かばない。
いや、浮かばせない。
認めた瞬間、何かが終わる気がした。
だから――黙る。
沈黙で、自分を守る。
大井史はしばらく田野を見つめ、
やがて深く息を吐いた。
「……停学中、ちゃんと考えろ」
その声は先ほどより低く、重かった。
「逃げるな、いいな」
返事は、なかった。
ただ小さく頷いたかどうかも、
誰にも分からない。
⸻
職員室を出る。
廊下の空気が、やけに軽い。
けれど胸の奥には、
見えない重石が置かれていた。
歩きながら、田野は思う。
(……終わってない)
何が終わっていないのか、分からない。
だが確かに、何かがまだ残っている。
それは希望ではない。
後悔でもない。
もっと曖昧で、濁った何か。
窓の外では、夕日が沈みかけていた。
光は柔らかいのに、
影だけがやけに濃い。
田野の影もまた、
足元で歪に伸びていた。
それはまるで、
本体よりも正直な何かのようだった。
――言葉は消えない。
刺さったまま、時間とともに沈んでいく。
そしていつか、
自分の中で、もう一度疼き出す。




