5
「……あの」
声に出した瞬間、自分でも驚いた。
呼び止める理由なんて、何もない。
それなのに、言葉は勝手に形になっていた。
雨音の中で、その一言だけがやけにくっきりと響く。
彼女が、ゆっくりと足を止めた。
振り返る動きは静かで、無駄がない。
まるで、最初からそうなると分かっていたみたいに。
「……はい」
短い返事。
けれどその声は、どこか柔らかくて。
ほんのわずかに、戸惑いが混じっていた。
沈黙が落ちる。
不自然なはずなのに、不思議と居心地は悪くない。
むしろ。
何も話さなくても、このままでいられるような――そんな感覚。
神代は視線をさまよわせて、言葉を探す。
「えっと……」
何を言えばいいのか分からない。
名前も知らない相手に、どう切り出せばいいのかも。
それでも。
このまま何も言わずに終わるのだけは、違う気がした。
「……どこかで、会いましたっけ」
口に出してから、少しだけ後悔する。
ありきたりで、曖昧で。
でも、それ以上に。
自分でも分からない感覚を、そのままなぞっただけの言葉だった。
彼女は、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
すぐに、元に戻る。
けれどその一瞬で、何かが確かに揺れた。
「……どうでしょう」
小さく、曖昧に笑う。
否定でも、肯定でもない答え。
逃げ道を残すような、優しい言い方。
神代は、少しだけ息を吐いた。
「ですよね。すみません、変なこと聞いて」
「いえ……」
彼女は首を振る。
その仕草も、どこか見覚えがある気がして。
また、胸の奥がざわつく。
雨はまだ、降り続いている。
傘越しに落ちる音が、二人の間の沈黙を埋めていく。
でも――
その沈黙は、やっぱり嫌じゃなかった。
むしろ。
少しだけ、安心してしまう。
理由なんて、分からないのに。
彼女もまた、同じ空気の中に立っていた。
何かを言おうとして、やめる。
視線を少しだけ逸らして、また戻す。
その繰り返し。
まるで。
言葉を探しているんじゃなくて。
“言ってはいけない何か”を、抑えているみたいに。
それでも。
完全には離れない距離。
完全には切れない視線。
ぎこちないはずの始まりは――
なぜか、少しだけ懐かしかった。




