4
視線が、離れない。
神代は自分でも理由が分からないまま、目の前の相手を見つめていた。
雨に濡れた空気の中で、その人だけが、妙に輪郭を持って見える。
初めて見る顔のはずだ。
記憶を辿っても、引っかかるものは何もない。
それなのに。
胸の奥が、静かに騒いでいる。
――知っている。
そんなはず、ないのに。
視線を逸らそうとする。
けれど、うまくいかない。
無理やり外したとしても、すぐにまた戻ってしまいそうな予感があった。
相手もまた、こちらを見ていた。
けれどその視線は、神代とは少し違っていた。
驚きでも、戸惑いでもない。
もっと、深いところで揺れているような――そんな目。
ほんのわずかに、表情が動く。
何かを言いかけて、飲み込むように。
唇がかすかに開いて、すぐに閉じられる。
その一瞬。
言葉にならなかった“何か”が、確かにそこにあった。
神代の胸が、強く鳴る。
理由は、やっぱり分からない。
でも。
どうしても、無視できない。
「……あの」
気づけば、声が出ていた。
自分でも驚くくらい、自然に。
呼び止める理由なんてないのに。
それでも、呼び止めずにはいられなかった。
相手の肩が、わずかに揺れる。
ゆっくりと、こちらを見返す。
その動きは落ち着いていて、どこか覚悟を含んでいるようにも見えた。
「……はい」
返ってきた声は、静かで。
けれど、ほんの少しだけ――
震えていた。
雨音が、また強くなる。
二人の間に落ちる沈黙は、決して気まずいものではなかった。
むしろ。
言葉にしてしまえば壊れてしまいそうな何かが、そこにあった。
神代は、言葉を探す。
けれど見つからない。
名前も、理由も、きっかけも。
何一つ分からないのに。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
――このまま、終わらせたくない。
そんな感覚。
一方で。
目の前の彼女は、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
その仕草は、ごく小さなものだったけれど。
どこかで。
“全部を知っている人間”の、それに見えた。
すぐに顔を上げる。
いつもの誰かを装うように、静かに整えられた表情。
けれど。
その奥にあるものまでは、隠しきれていなかった。
懐かしさ。
安堵。
そして――ほんの少しの、寂しさ。
彼女は、何も言わない。
言わないまま、そこにいる。
まるで。
言葉を選んでいるのではなく。
“言わないことを選んでいる”みたいに。
神代の胸が、もう一度だけ強く鳴った。
やっぱり分からない。
それでも。
確かに感じてしまっている。
これは、初対面なんかじゃない。
そう思ってしまう理由だけが――
どうしても、見つからなかった。




