最終章:余韻 1
改札を抜けた瞬間、朝の空気が少しだけ冷たく感じられた。
神代は無意識に肩をすくめて、コートの襟を指先で整える。駅前のロータリーには、同じように足早に歩く人たちが溢れていて、その流れに乗るように彼も歩き出した。
見慣れた街だった。
高校の頃に使っていた路線の延長線上にある駅。少し大きくなっただけで、風景の輪郭はあの頃と大きく変わらない。コンビニの位置も、信号の長さも、朝の匂いも――全部、どこか覚えがある。
それなのに。
「……なんだろうな」
小さく呟いて、自分でも理由が分からず苦笑する。
生活は順調だ。
大学にも通っているし、友人関係だって悪くない。バイトもそこそこうまくいっているし、将来に対して不安がないわけじゃないが、特別困っているわけでもない。
――“普通”だ。
むしろ、恵まれている方だとさえ思う。
それでも、胸のどこかに、引っかかるものがあった。
足りない、と言うほど大げさじゃない。
欠けている、と言い切るほど明確でもない。
ただ。
何かを置き忘れてきたような感覚だけが、ずっと残っている。
信号待ちで立ち止まり、ぼんやりと空を見上げる。
薄い雲が流れていた。
風は弱くて、音はやけに静かで――その静けさに、ふと、胸がざわつく。
「……別に、不満なんてないんだけどな」
誰に言うでもなく、言葉がこぼれる。
その通りだった。
今の生活に、不満はない。
足りないものなんて、本当は何もないはずだ。
なのに。
どうしてか、心の奥にぽっかりと空いた場所だけが、埋まらない。
何を入れればいいのかも分からない。
そもそも、最初からそんなものがあったのかどうかさえ曖昧だ。
青に変わった信号に気づいて、神代は歩き出す。
人の流れに紛れながら、前へ進む。
その途中で、ふと――
隣に誰かがいたような気がした。
「……はは」
すぐに首を振る。
そんなはずはない。
今は一人だし、ずっと一人で歩いてきた。
それは分かっている。
分かっている、のに。
なぜか、その“いないはずの誰か”の気配だけが、やけにリアルに残っていた。
思い出そうとしても、何も浮かばない。
顔も、声も、名前すら。
ただ――
一緒に歩いていた、という感覚だけが、妙に鮮明に残っている。
「……気のせい、か」
そう結論づけて、歩調を少しだけ速める。
駅から続く通りを抜けると、角に小さなカフェが見えてきた。
特別おしゃれでも、有名でもない、どこにでもある店。
それなのに、なぜか視線が引き寄せられる。
足が、ほんの少しだけ止まった。
理由は分からない。
ただ――
ここで、何かがあった気がする。
そんな、根拠のない感覚だけが胸に残る。
「……ほんと、なんなんだろうな」
苦笑しながら、結局そのまま通り過ぎる。
分からないものは、分からないままでいい。
そうやって、これまでもやってきた。
きっと、これからも。
それで問題はないはずだ。
なのに。
数歩進んだところで、なぜか一度だけ振り返ってしまう。
さっきのカフェは、もう人の流れの向こうに紛れていた。
当然だ。
そこに特別なものなんてない。
ただの、どこにでもある風景だ。
――そう、思うのに。
胸の奥で、小さく何かが軋む。
名前のない感情が、かすかに揺れる。
「……ま、いいか」
それ以上考えるのをやめて、前を向く。
日常は続く。
何も変わらないまま、今日も一日が始まる。
満たされているはずの生活の中で――
それでも埋まらない“何か”だけを、どこかに残したまま。




