8
神代の背中が、人の流れに紛れて見えなくなる。
――はずだった。
その直前。
ふと、神代の足が止まる。
「……あれ」
小さな声。
ゆっくりと、振り返る。
さっきまで誰かと話していたような、そんな違和感だけが残っているみたいに。
視線が、分かれ道のあたりを探す。
けれど。
そこにはもう、“誰もいない”。
「……誰だっけ」
ぽつりと、零れる。
思い出そうとして、すぐに諦めたみたいに眉をひそめる。
数秒の沈黙。
それから、神代は小さく首を振った。
「……気のせいか」
そのまま、前を向く。
何事もなかったみたいに。
再び歩き出す。
さっきまでそこにあったはずの“何か”を、完全に置き去りにして。
――その頃。
私は、まだそこに立っている。
立っている、はずなのに。
足元の感覚が、少しだけ曖昧だった。
地面に触れているのに、重さがない。
風が吹く。
制服の裾が揺れる。
……はずなのに、その感触がどこか遠い。
(……ああ)
ぼんやりと、理解する。
始まっている。
ゆっくりと。
でも、確実に。
私が、この世界から“外れていく”。
手を見下ろす。
指先が、少しだけ淡く見えた。
透けているわけじゃない。
でも、“はっきりしない”。
ピントが合っていないみたいに、輪郭がぼやけている。
試しに、ぎゅっと拳を握る。
感触が、遅れてくる。
自分の体なのに、少しだけ他人みたいだった。
「……まだ、いるのに」
声に出す。
ちゃんと、音にはなっている。
でも――
その声が、この世界に届いている気がしない。
さっきまであったはずの温度も、距離も、時間も。
全部が、ゆっくりとほどけていく。
(……消える)
恐怖は、不思議と静かだった。
叫びたくなるようなものじゃない。
ただ、確実に。
“終わっていく”という事実だけが、胸の奥に沈んでいく。
遠くで、誰かの笑い声がする。
車が通る音。
信号が変わる電子音。
全部、いつも通り。
世界は何も変わらない。
変わっているのは――私だけ。
一歩、前に出る。
はずだった。
けれど、足がちゃんと動いたのかどうか、自分でも分からない。
景色が、少しだけ遠のく。
色が、わずかに薄くなる。
(……ああ)
最後に、思い浮かぶのは。
さっきの言葉。
「また明日」
ほんの少しだけ、笑いたくなる。
(……いいよ、それで)
誰にも残らなくていい。
覚えられなくていい。
それでも。
あの一言だけは、確かに“あった”から。
意識が、静かに遠のいていく。
音が消える。
色が消える。
輪郭が、ほどける。
そして――
私は、誰の世界からも、
そっと、いなくなった。




