10
長い沈黙のあと。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
もう、迷いはなかった。
――いや。
迷えなくなった、のほうが近いかもしれない。
「……決めました」
自分でも驚くくらい、静かな声だった。
雨宮先生は何も言わず、ただ続きを待っている。
私は一度だけ目を閉じる。
浮かぶのは、やっぱり神代だった。
笑った顔。
どうでもいい会話。
「放っておけない」なんて、理由も分からないまま言った声。
どれも、あたたかくて。
どれも、ちゃんと“そこにあった”時間で。
――だからこそ。
「……残さない」
ぽつりと、言葉を落とす。
「思い出、残すの……やめます」
その選択は、思っていたよりもずっと重かった。
口にした瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
でも、それでも。
私は続ける。
「どうせ……消えるなら」
少しだけ視線を落とす。
言葉を探しながら。
「頑張って残しても、最後は全部なくなるし」
「そのたびに……」
喉が、少しだけ詰まる。
それでも、止めなかった。
「そのたびに、また傷つくの……嫌だから」
それは、本音だった。
何度も繰り返してきた痛み。
期待して、裏切られて。
それでもまた期待してしまう、その繰り返し。
もう、これ以上は。
耐えられそうになかった。
でも。
それだけじゃない。
ゆっくりと、息を吸う。
「……それに」
少しだけ、笑った。
うまく笑えているかは分からないけど。
「神代は、知らないほうがいいと思う」
その名前を口にした瞬間、胸が少しだけ痛む。
けれど、言葉は止まらなかった。
「私のこと、全部忘れるって分かってるのに」
「中途半端に覚えさせるほうが……たぶん、つらい」
思い出しかけて、消えて。
理由も分からないまま、違和感だけが残って。
そんなものを、押し付けるのは――
「……優しくないから」
静かに、言い切る。
それは、諦めだった。
でも同時に。
少しだけ、守りたいと思った気持ちでもあった。
全部消えるなら。
最初から、何もなかったほうがいい。
知らないままのほうが、きっと楽だ。
少なくとも、あの人は。
「なんでか分かんない」なんて悩まずに済む。
「忘れてる気がする」なんて苦しまずに済む。
――私のせいで。
そんな風に思わせたくなかった。
「だから」
顔を上げる。
雨宮先生の目を、まっすぐに見る。
「静かに、消えます」
はっきりと、そう言った。
その言葉は、驚くほど自然に口から出た。
まるで、最初から決まっていたみたいに。
教室で笑った時間も。
帰り道で話したことも。
全部、なかったことになる。
それでも。
それが一番、いい終わり方だと思った。
――優しさと、諦めが混ざった。
そんな選択だった。




