第2話 選ばなかったもの Part2 配置提案
会社に着いたのは、七時五十六分だった。
始業までにはまだ少し余裕がある。
悠真が入館ゲートを通ると、壁面端末に今日の予定が表示された。
《佐伯悠真》
《本日の業務負荷 適正》
《九時 基盤更新部門定例》
《十一時三十分 担当者面談》
《十三時 相川市案件資料確認》
《十五時 意思決定支援システム運用研修》
昨日の協議が予定より早くまとまったことで、午後の会議が一つ減っていた。
空いた時間には、すでに社内研修が入っている。
予定に空白ができると、必要性の高い業務や研修が自動的に提案される。承認は必要だが、悠真が拒否したことはほとんどなかった。
自席へ向かうと、岸本遥が端末を見つめたまま、片手で頬杖をついていた。
「おはよう」
「おはようございます」
返事はしたが、視線は画面から動かない。
「朝から難しい顔してるな」
「難しい話が来たので」
岸本は端末を少し持ち上げた。
「見ます?」
画面には、人事支援システムからの通知が表示されていた。
《業務適性分析に基づく配置変更提案》
《現所属》
エネルギー基盤事業部 国内計画課
《提案先》
都市生活最適化事業部 利用者調整課
《適合予測 九十二パーセント》
《本人満足度予測 八十七パーセント》
《組織貢献度改善予測 十一・四パーセント》
「異動?」
「まだ、おすすめです」
「利用者調整課か」
「問い合わせ対応と住民説明が中心ですね」
「岸本には合いそうだけどな」
「それ、喜んでいいやつですか?」
「褒めてるよ」
「じゃあ、半分だけ喜びます」
岸本は笑った。
けれど、端末を閉じる様子はなかった。
画面の中央には《提案を受諾》と書かれた青いボタンがあり、その下に小さく《今回は見送る》と表示されている。
「行きたくないのか?」
「嫌というほどではないです」
「じゃあ行けばいい」
「ずいぶん他人事ですね」
「他人事だからな」
「そこは少し悩んでくださいよ」
岸本は呆れたように笑った。
「でも、今の仕事も嫌いじゃないんです。相川の案件もまだ途中ですし」
「それはそうだな」
「ここで抜けたら、佐伯さん困りません?」
「困る」
「ですよね」
「でも、それを理由に残るのも違うだろ」
「分かってます」
岸本は指先で画面の端を何度か撫でた。
「断れるんだろ?」
「できます」
「なら、残りたいなら断ればいい」
「簡単に言いますね」
「簡単なことじゃないのか?」
「押すだけなら簡単です」
岸本は少し黙った。
「押したあとが、簡単かは分かりませんけど」
悠真は画面を見る。
《今回は見送る》という表示は、受諾ボタンより小さい。
だが隠されているわけではない。
選ぶことはできる。
「無理に行く必要はないだろ」
悠真が言うと、岸本は小さく息を吐いた。
「そうですよね」
《今回は見送る》を押す。
画面が切り替わった。
《配置変更提案を見送りますか》
《今後の提案精度向上のため、理由をご選択ください》
《現在の業務を継続したい》
《家庭上の事情》
《健康上の事情》
《能力適合に疑問がある》
《その他》
「今朝、家でも似たようなの見たな」
「家で異動ですか?」
「娘の予定変更」
「ああ」
岸本は《現在の業務を継続したい》を選んだ。
《選択を受け付けました》
《所属長による確認が行われる場合があります》
「終わりです」
「案外あっさりだな」
「人生の分岐を二回押しただけで終えました」
「まだ異動提案を断っただけだろ」
「そういうことにしておきます」
岸本は端末を伏せた。
いつもの表情に戻っていた。
悠真も、それ以上は気にしなかった。
*
午前の定例会議は、予定より十二分早く終わった。
報告事項の大半は事前に共有され、すでに全員が確認した内容は自動的に議題から省かれている。
会議室を出たところで、課長が岸本を呼び止めた。
「岸本さん、少しいいですか」
「はい」
「今朝の配置提案について、確認だけ」
「分かりました」
課長の声音は穏やかだった。
岸本も、特に身構える様子はない。
「十分ほどで済みます」
岸本は悠真の方を見た。
「来ました」
「確認だけだろ」
「十分で済んだら褒めてください」
「誰を?」
「システムを」
岸本は課長の後について、廊下の先にある面談室へ向かった。
岸本は課長の後について、廊下の先にある面談室へ向かった。
悠真はその背中を見送った。
配置提案を断った理由を確認する。
本人の希望を今後の配置へ反映するなら、必要な手続きなのだろう。
悠真はそう考え、自席へ戻った。
*
岸本が戻ってきたのは、二十七分後だった。
「十分じゃなかったな」
「途中から、今後の可能性についての前向きな話になりまして」
「異動することになった?」
「なってません。相川が終わるまでは残りたいって伝えました」
「通ったのか」
「はい。希望を尊重してもらえました」
「じゃあ良かったな」
「そうですね」
岸本は自席に座り、端末を開いた。
次の瞬間、少しだけ眉を寄せた。
「どうした?」
「予定が増えてます」
悠真が画面を覗く。
岸本の午後の予定から、《相川市案件資料確認》が消えていた。
代わりに三つの項目が追加されている。
《業務適性再評価》
《住民対応基礎研修》
《職務負荷調整面談》
「住民対応研修?」
「異動は見送るって話だったんですけどね」
「将来の選択肢を増やすためじゃないか?」
「課長も同じことを言ってました」
「なら、そうなんだろ」
「そうなんでしょうね」
岸本は予定を一つずつ確認していった。
「相川の資料確認は?」
「消えてます」
「誰に移った?」
岸本の指が止まる。
「佐伯さんです」
ほぼ同時に、悠真の端末にも共有通知が届いた。
《相川市案件の業務負荷を再調整しました》
《岸本遥の担当範囲を一部軽減します》
《佐伯悠真の確認業務を追加します》
その下に、再調整の理由が表示されている。
《本人の意思を尊重し、現所属での継続可能性を高めるため》
「負担を減らしたんだな」
悠真が言った。
「私の仕事を佐伯さんに渡して?」
「適性評価とか研修が入ったからだろ」
「まあ、確かに増えましたけど」
「異動しないための調整なんじゃないか」
「そう言われると、すごく親切に見えますね」
「実際、親切なんだろ」
岸本は少し考え、画面を閉じた。
「佐伯さんがそう思うなら、そういうことにしておきます」
「嫌なら、また相談すればいい」
「もう一回、二十七分ですか」
「今度は十分かもしれない」
「賭けます?」
「何を」
「昼のデザート」
「嫌だよ」
「残念」
岸本は笑った。
会話はいつもの調子に戻った。
「相川の追加資料、もう来てますよ」
「早いな」
「高指数自治体は仕事も早いですね」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
二人はそれぞれ端末を開いた。
*
昼休みの直前、悠真の端末に通知が届いた。
《チーム業務効率が更新されました》
《配置変更提案の辞退に伴う再調整を実施》
《予測効率 九十四・二パーセント》
昨日より、〇・六ポイント低い。
その下には、改善候補が並んでいる。
《担当者間の役割再配分》
《追加研修》
《意思決定傾向の再分析》
悠真は通知を閉じた。
九十四・二パーセントなら、十分に高い。
食堂へ向かおうと立ち上がる。
岸本の席は空いていた。
予定表には、
《業務適性再評価》
と表示されている。
終了予定時刻は十二時二十分。
昼休みは十二時からだった。
悠真は少し迷い、メッセージを送った。
《先に食堂行ってる》
すぐに返信が届いた。
《了解です。今日の推奨は魚らしいですよ》
悠真は画面を見て笑った。
《命令じゃないぞ》
数秒後、返事が来る。
《では麺にします》
いつもと変わらない文面だった。
悠真は端末をしまい、食堂へ向かった。




