第2話 選ばなかったもの Part1 今週がいい
目覚ましが鳴るより少し早く、カーテンが音もなく開いた。
まだ青みの残る朝の光が、寝室の床をゆっくりと伸びていく。
《おはようございます》
《睡眠時間 七時間二十九分》
《睡眠効率 九十三パーセント》
《本日の体調は良好です》
枕元の生活端末に、見慣れた文字が並んでいた。
悠真は目を細めたまま、睡眠通知を閉じる。
「おはよう」
隣で美咲が寝返りを打った。
「おはよう」
「ちゃんと眠れた?」
「九十三パーセント」
「じゃあ、ちゃんと眠れたんじゃない?」
「そういうことらしい」
美咲が小さく笑った。
悠真はベッドを出た。
寝室を出ると、足元の照明が廊下の先へ向かって順番に灯った。
リビングから、食器の触れ合う音が聞こえてくる。
蒼はもう制服に着替え、食卓でパンを食べながら端末を見ていた。
陽菜は椅子に座っているものの、まだ眠気が残っているらしく、ヨーグルトを何度も同じ方向へ混ぜている。
蓮だけは朝から元気だった。
「ぱぱ、おはよう」
「おはよう」
「きょう、はやくかえる?」
「昨日は早かっただろ」
「きょうも」
「毎日だと、早いのが普通になっちゃうぞ」
「なっていいよ」
蓮は迷いなく言った。
「それは困るな」
悠真が席に着くと、美咲がコーヒーを置いた。
「困るんだ」
「努力目標にしておく」
「会社の人みたい」
「会社の人だからな」
美咲が笑い、蓮も意味は分かっていないまま一緒に笑った。
そのとき、食卓の中央に置かれた家庭用端末が短く鳴った。
《家族予定に変更提案があります》
「何だろう」
美咲が画面を開く。
今週土曜日の予定が表示された。
区民交流センターで行われる、子ども向け建築模型教室。
陽菜が自分で見つけ、美咲に頼んで申し込んだものだった。
《混雑予測の更新に伴い、参加日時の変更を推奨します》
《現在》
六月十二日 土曜日 十時
《推奨》
六月十九日 土曜日 十時
《変更による待機時間短縮予測 二十八分》
《移動負荷 十五パーセント減》
《参加満足度予測 七十九から九十一へ改善》
「来週に変えた方がいいって」
美咲が言った。
陽菜はスプーンを止めた。
「来週?」
「うん。今週は混むみたい」
「今週がいい」
返事は思ったより早かった。
「何かあるの?」
「真央ちゃんも今週なの」
「同じ回に申し込んだの?」
「学校で一緒にやろうって決めた」
美咲は画面を見た。
「来週なら、ゆっくり作れるみたいだよ。道も空いてるって」
「でも、真央ちゃんはいない」
陽菜はそう言って、またヨーグルトへ視線を落とした。
声を荒らげたわけではない。
不満そうに口を尖らせたわけでもなかった。
ただ、少しだけ残念そうだった。
悠真は画面へ目を向けた。
今週の予定には黄色い印が付いている。
《施設混雑 高》
《公共交通混雑 中》
《推奨到着時刻 九時二十二分》
一方、翌週はすべて緑色だった。
待ち時間は短く、移動も楽で、満足度の予測も高い。
数字だけを見れば、変更した方がいい。
「今週のままでも参加できるんだろ?」
悠真が聞いた。
「できるよ」
美咲が答える。
「変更を勧めてるだけ」
悠真は陽菜を見る。
「真央ちゃんと行きたいんだな」
「うん」
「じゃあ、今週でいいんじゃないか」
陽菜が顔を上げた。
「いいの?」
「せっかく約束したんだろ」
「うん」
「なら、それも大事だ」
美咲は悠真を見て、それから陽菜へ視線を戻した。
「早めに家を出ることになるよ」
「起きる」
「本当に?」
「起こして」
「それは起きるって言わないんじゃない?」
陽菜が少し笑った。
美咲も笑いながら、《現在の予定を維持》を押した。
画面が切り替わった。
《推奨日時を変更せず、現在の予定を維持しますか》
その下に、小さな文字で理由の選択肢が並んでいる。
《家族・友人との予定を優先》
《学校・地域活動との調整》
《健康上の事情》
《その他》
美咲は一番上を選んだ。
《選択を受け付けました》
《当日の状況に合わせ、最適な移動経路を再計算します》
《出発推奨時刻は前日にお知らせします》
「これで大丈夫」
「ありがとう」
陽菜はようやく、いつもの速さでヨーグルトを食べ始めた。
「真央ちゃんと何を作るんだ?」
悠真が尋ねる。
「家」
「普通の?」
「普通じゃないやつ」
「どんな家?」
「まだ秘密」
「一緒に作るのに秘密なのか」
「パパには秘密」
「俺だけ?」
陽菜は笑った。
蒼が横から言った。
「たぶん途中で変わるから、まだ決まってないだけだよ」
「言わないで」
「やっぱりそうなんだ」
「違うもん」
朝の食卓に、子どもたちの声が重なる。
端末には、先ほどの予定変更がすでに反映されていた。
土曜日、九時二十二分出発。
推奨より混雑する一日。
それでも、陽菜は楽しそうだった。
悠真はコーヒーを飲みながら、これで良かったと思った。
*
食事を終え、悠真は玄関で靴を履いた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
蓮が玄関までついてくる。
「きょうはやくね」
「努力します」
「また会社の人」
リビングから美咲の声がした。
悠真が笑いながら扉を開けると、生活端末が振動した。
《出発時刻です》
《通常経路を推奨します》
予定どおり、七時十八分。
廊下へ出て、エレベーターを待つ。
何気なく通知欄を開くと、家族予定の更新が一番上に残っていた。
《六月十二日の予定を維持しました》
《推奨との差異を生活計画へ反映しました》
その下には、
《家族・友人との予定を優先》
と、先ほど美咲が選んだ理由が表示されている。
悠真は通知を閉じた。
混んでいる日に出掛ける。
待ち時間が少し長くなる。
ただそれだけのことだった。
エレベーターが到着する。
扉が開き、中にいた住人と軽く会釈を交わした。
誰も止めてはいない。
陽菜は、自分が行きたい日を選んだ。
その選択に合わせて、今度はシステムの方が予定を組み直してくれる。
便利な仕組みだと、悠真は思った。




