第21話 残された選択肢 Part1 次の三年
八時二十三分。
悠真が自席に着くと、岸本がすぐに顔を上げた。
「今日、遅かったですね」
「遅くない。始業前だろ」
「いつもより十一分遅い」
「数えるなよ」
悠真は鞄を置いた。
「違う道でも通ったんですか?」
「いつもの道」
「じゃあ何で?」
「コーヒー飲んでた」
岸本の手が止まった。
「朝から?」
「ああ」
「家でじゃなくて?」
「店で」
「珍しい」
「お前まで言うのか」
「どこの店です?」
悠真は一瞬考えた。
店名を見ていない。
看板にも、
《珈琲》
としか書かれていなかった。
「知らない」
「知らない店で飲んだんですか?」
「ああ」
岸本が少し笑う。
「陽菜ちゃん喜びそう」
「何で知ってるんだよ」
「前に知らない店の話してたじゃないですか」
悠真は端末を起動した。
「コーヒー飲んだだけだ」
「美味しかった?」
「普通」
「じゃあまた行く?」
「分からない」
「店名も?」
「知らない」
「何も分かってないですね」
「コーヒーは飲んだ」
岸本は笑い、自分の画面へ戻った。
悠真も業務一覧を開く。
《九時 部門定例》
《十時三十分 設備更新条件確認》
《十三時 需要予測月次整理》
《十五時 相川市工事経路最終確認》
通常の予定。
その上に、一件だけ別枠の通知があった。
《人事支援室》
《中長期職務提案があります》
悠真は指を止めた。
岸本の時と同じ表示だった。
ただし、自分の画面に出るのは初めてだった。
「何か来ました?」
岸本が訊く。
悠真は通知を開いた。
《中長期職務提案》
《対象期間》
《2038年度下期から2041年度》
《現在の業務実績と本人適性をもとに、今後の職務候補を整理しました》
その下に、
三つの枠が並んでいた。
一番上。
《候補A》
《設備計画課 主任職》
《現在所属を基本として担当範囲を拡張》
《主な変更》
《自治体案件統括》
《設備需要計画承認補助》
《後続担当育成》
右側には、
《組織貢献見込み 高》
《職務適合見込み 高》
《報酬条件 上昇》
《勤務地変更 なし》
と並んでいる。
「昇格?」
岸本が訊いた。
「みたいだな」
「おめでとうございます」
「まだ提案だよ」
「でも一番上」
悠真は次を開いた。
《候補B》
《基盤運用統括室》
《設備・生活条件照合担当》
《主な変更》
《外部検証資料確認》
《地域横断需要分析》
《確認手順整備》
《自治体・関連部門照会》
《組織貢献見込み 高》
《職務適合見込み 非常に高》
《専門性向上見込み 高》
《勤務地変更 なし》
岸本が横から画面を見る。
「統括室」
「ああ」
「最近よく行ってましたもんね」
「応援でな」
「でも、適合はこっちの方が高い」
確かに、
《非常に高》
となっている。
悠真は詳細を開いた。
《適合要因》
《設備需要予測経験》
《自治体調整経験》
《原文・分類・要約の照合経験》
《異なる情報条件下での確認実績》
《手順改善提案実績》
最後の一行で、悠真の指が止まった。
《手順改善提案実績》
先週追加した、
《生活条件対照確認》
のことだろう。
特別な実績だとは思っていなかった。
旧担当者のメモを、
設備側で使える形にしただけだ。
「早いですね」
岸本が言った。
「何が?」
「もう人事に入ってる」
「業務実績なんだから入るだろ」
「まあ、そうですけど」
悠真は候補Bを閉じた。
三つ目。
《候補C》
《専門研修を利用し、現所属を継続》
《研修期間 六か月》
《主な内容》
《生活行動予測と地域設備需要》
《自治体意思決定支援》
《説明条件設計》
《研修後》
《設備計画課または関連部署で再提案》
《組織貢献見込み 中》
《専門性向上見込み 非常に高》
《現職継続 可能》
《研修期間中の担当調整 必要》
「研修もあるんだ」
岸本が言った。
「ああ」
「全部、今やってることの延長ですね」
悠真もそう思った。
昇格。
統括室。
研修。
どれも突然の方向転換ではない。
これまでやってきた仕事から、
少し先へ進んだ場所にある。
画面の一番下に、
《その他の選択肢》
があった。
悠真は開く。
《現在職務を継続》
《設備計画課》
《現在の担当範囲を基本として継続》
その下。
《現在の条件》
《勤務地変更 なし》
《担当業務変更 なし》
《報酬条件 現行》
《今後三年間の職務拡張見込み 低》
それだけだった。
岸本が黙る。
悠真も画面を見る。
候補Aには、
《組織貢献見込み 高》
候補Bには、
《職務適合見込み 非常に高》
候補Cには、
《専門性向上見込み 非常に高》
現在職務を続ける案には、
《今後三年間の職務拡張見込み 低》
選べないわけではない。
小さくもない。
画面の一番下に隠されてもいない。
普通に押せる。
ただ、書いてある内容が少なかった。
「残れるじゃないですか」
岸本が言った。
「ああ」
「私の時と似てますね」
悠真は彼女を見る。
「お前のは残る方が上だっただろ」
「今回は逆ですね」
「俺が残りたいって言ってないからだろ」
「そうか」
岸本は少し考える。
「じゃあ、佐伯さんが前に残るって選んでたら、これが一番上になった?」
「知らない」
《提案理由》
を開く。
《候補順に反映した情報》
《現在職務における実績》
《本人が受諾した業務》
《過去の配置・職務選択》
《業務確認方法》
《手順改善への参加》
《本人の職務継続希望》
最後だけ、
《明確な希望記録なし》
となっている。
「ない」
岸本が言った。
「何が?」
「残りたいって記録」
「入力したことないからな」
「異動したいも?」
「ない」
《配置変更希望》
《明確な希望記録なし》
こちらも同じだった。
「じゃあ何でこの順番なんでしょうね」
岸本が訊いた。
悠真は画面を送る。
《候補順の主な要因》
《現在の実務実績を活用できる範囲》
《本人適性》
《組織内需要》
《職務負荷の継続可能性》
《勤務地・家族予定への影響》
《過去の本人選択》
理由は出ている。
「実績じゃないか」
「たぶん」
「統括室の適合が高いんだから、上に来てもおかしくない」
「でも一番上は昇格」
「今の部署だからだろ」
「なるほど」
岸本は納得したようだった。
悠真も、特に変なところはないと思った。
会社は、
今の仕事を続けることも認めている。
そのうえで、
経験を活かせる次の仕事を出している。
人事支援としては自然だった。
画面の下に、
《各候補を比較》
がある。
悠真は押した。
四列が並ぶ。
《主任職》
《基盤運用統括室》
《専門研修》
《現在職務継続》
項目。
《年収見込み》
A 上昇
B 上昇
C 研修期間中変更なし・研修後再算定
現職 変更なし
《通勤時間》
A 変更なし
B 平均+八分
C 研修日に平均+二十一分
現職 変更なし
《時間外勤務予測》
A 月平均+三・八時間
B 月平均+一・二時間
C 研修期間中+二・六時間
現職 現状同等
《家族予定への影響》
A 低
B 低
C 中
現職 極低
悠真はそこを見る。
現在職務にも、
利点はある。
勤務地は同じ。
仕事内容も同じ。
家庭への影響は最も小さい。
ただ、その下。
《三年後の職務選択幅》
A 高
B 非常に高
C 非常に高
現職 中
《専門性評価》
A 高
B 非常に高
C 非常に高
現職 現状維持
さらに、
《将来報酬見込み》
A 上昇
B 上昇
C 上昇可能性あり
現職 緩やか
岸本が横で言った。
「残ると、悪くはない」
「ああ」
「良くもならない感じ」
悠真は返事をしなかった。
悪いとは書いていない。
不適とも書いていない。
現在職務を続けても、
評価が下がるわけではない。
ただ、
他の三つには、
その先が書かれている。
現在職務の欄だけ、
今と同じだった。
*
九時の定例が始まった。
人事提案の話は出なかった。
相川市。
設備更新。
施工時期。
需要条件。
いつもの仕事が進む。
悠真も資料を確認する。
昨日試験した工事車両経路は、
《候補B》
で正式決定されていた。
《相川市責任者 承認済み》
《施工会社責任者 承認済み》
《東央商事設備条件 確認済み》
問題なく次工程へ進んでいる。
二十分ほどで定例は終わった。
席へ戻る。
人事支援室の通知は、
まだ残っていた。
《中長期職務提案》
《回答期限 七月二十三日》
二週間以上ある。
《今すぐ回答する必要はありません》
《家族・上司・人事支援室との相談を利用できます》
《今回はすべて見送る》
という選択肢もある。
悠真はそこを開いた。
《現在職務を継続し、今回の提案をすべて見送ります》
《不利益 なし》
《次回提案時期 未定》
《本人希望および職務状況の変化に応じて再提案される場合があります》
「断れる」
悠真が言った。
岸本が振り向く。
「全部?」
「ああ」
「じゃあいいじゃないですか」
「何が?」
「別に今決めなくても」
悠真は画面を見る。
回答期限。
七月二十三日。
二週間。
急ぐ理由はない。
《後で確認》
を押そうとした。
その直前、
画面の下に小さな案内が出る。
《検討を保留する場合》
《現在の判断に近い理由を記録すると、次回表示内容の調整に使用できます》
《理由を記録》
《記録せず保留》
悠真の指が止まった。
岸本が訊く。
「どうしました?」
「いや」
悠真は、
《記録せず保留》
を押した。
《提案を保留しました》
《回答期限まで、いつでも変更できます》
四つの候補が閉じる。
通知だけが残った。
《中長期職務提案》
《保留中》
悠真は端末を閉じた。
十時三十分から、
設備更新条件確認がある。
今考える必要はなかった。




