第1話 今日も、いい国だ。Part3 最も無理の少ない答え
第三会議室には、楕円形の机が一つ置かれていた。
席順は決められていない。
参加者の所属や役職ではなく、今日扱う論点に応じて座席が割り当てられている。
悠真の席は、設計部門と事業管理部門の間だった。
正面には野々村。
右隣に岸本。
ほかに法務、財務、設備設計、施工管理から一人ずつ参加している。
全員が席に着くと、壁面の表示が切り替わった。
《参加者 八名》
《必要情報の共有率 九八・七パーセント》
《未確認資料 一件》
財務担当の三枝が手元の端末に触れた。
「すみません。今、確認しました」
《必要情報の共有率 一〇〇パーセント》
続いて、会議の目的が表示される。
《相川市エネルギー基盤更新事業》
《事前協議に向けた社内方針の確認》
《主要論点 三件》
一、北部第二蓄電施設の配置変更。
二、施工期間中の交通誘導計画。
三、住民説明会における提示情報の範囲。
画面の隅では、予定終了時刻の十時十二分が静かに点灯していた。
「始めよう」
野々村が言った。
司会者はいない。
議事進行は会議支援システムが行う。
発言内容を記録し、論点が逸れれば知らせ、必要な資料を表示する。だが、結論を出すのは参加者だった。
『第一の論点、北部第二蓄電施設の配置変更について協議します』
室内の照明がわずかに落ち、壁面へ地図が広がった。
現在案の設備位置が青。
代替案Bが緑で示されている。
『提案者、佐伯悠真さん。提案理由を説明してください』
悠真は立たなかった。
この会社では、会議中に立って説明する習慣がなくなって久しい。資料は全員の端末へ共有され、必要な箇所がそれぞれの視界へ表示される。
「現行案では、北部第二蓄電施設が近隣十二世帯の主要な眺望範囲に入ります」
地図が切り替わる。
住宅の二階窓から見た完成予測。
低い山並みと、その手前に建つ灰色の施設。
設備そのものは巨大ではない。
騒音も基準値以下。
日照への影響もない。
生活に直接的な被害を与える計画ではなかった。
「代替案Bへ変更した場合、設備を約百八十メートル東へ移動します。住居からは既存の防風林に隠れ、眺望への影響をほぼ解消できます」
三枝が尋ねた。
「増額分は?」
「全体事業費の〇・八パーセントです」
「金額で」
「一億四千二百万円」
数字だけを聞けば、小さくはない。
誰も表情を変えなかった。
三枝は手元の資料を確認する。
「増額の大半は地盤改良と接続線の延長ですね」
「はい」
「相川市側の予算枠には入らない」
「現状では」
「予備費を使えば入るが、自治体側は残したがるだろうな」
野々村が言った。
「当然です」
悠真は答えた。
「災害対応事業で予備費を使い切るわけにはいきません」
「なら、うちが持つのか?」
「全額ではありません。ほかの仕様を調整します」
設備設計を担当する藤崎が、資料を開いた。
「昨日、佐伯さんから依頼を受けて確認しました。南部管理棟の外装仕様と、監視設備の予備系統を見直せば、九千万円程度は吸収できます」
「性能に影響は?」
野々村が訊く。
「外装はありません。景観指針へ合わせて高耐候材を指定していますが、設置場所は工業区域内です。標準材へ戻しても耐用年数は変わりません」
「予備系統は?」
「現在案は三重化です。国の基準は二重化。相川市内のほかの設備も二重化で統一されています」
施工管理の男が口を挟んだ。
「ただし、将来的な保守性は三重化の方がいい」
「停止させずに部品交換できますからね」
藤崎が頷く。
「二重化でも計画停止で対応できますが、運用側の負担は増えます」
壁面に比較表が表示される。
眺望への影響。
建設費。
保守性。
故障時の復旧時間。
住民受容性。
将来の追加費用。
どの案にも長所と短所があった。
一つを改善すれば、別の何かがわずかに悪くなる。
すべてが良くなる答えはない。
『現在の発言に基づき、検討案を三件へ整理しました』
《案一 現行配置を維持》
《案二 代替配置B、管理棟外装を標準化》
《案三 代替配置B、監視設備を二重化》
続けて、それぞれの総合評価が表示された。
数字はどれも九十点を超えている。
一番高いのは案二だった。
「外装変更だけでは、まだ五千万円ほど足りません」
三枝が言った。
「当社利益から吸収した場合、目標利益率を〇・三ポイント下回ります」
「許容範囲は?」
悠真が訊く。
「規定上は許容範囲です。ただ、下回る理由は必要になります」
「住民影響の回避では不足ですか」
「理由にはなる。でも、十二世帯から要望が出ていない段階で先に負担するとなると、事業判断として弱い」
言っていることは分かった。
企業が利益を考えるのは悪ではない。
利益がなければ雇用も、技術開発も、次の事業も続かない。
負担できるから負担する、では会社は成り立たない。
「住民説明会で現行案と代替案を両方示すのはどうでしょう」
岸本が言った。
全員の視線が集まる。
岸本は一瞬だけ姿勢を正したが、そのまま続けた。
「選択による影響と費用を説明して、住民側の意向を確認する。現行案で問題がないという意見が多数なら変更しない。景観を優先するなら、その時点で費用負担を再協議する」
法務担当が手を上げた。
「手続きとしては可能です。ただし、住民投票のような形にはできません。事業責任を住民へ移すことになるので」
「投票ではなく、意見収集です」
「それなら問題ありません」
野々村は悠真を見た。
「どう思う?」
「合理的だと思います」
「お前は最初から変えたいんじゃなかったのか」
「変えた方がいいとは思っています。でも、暮らす人たちが気にしていないものを、こちらの価値観だけで問題にするのも違います」
「十二世帯にだけ先行して確認する方法もあります」
法務担当が言った。
「個別説明として扱えば、全体説明会の前でも実施できます」
壁面の表示が更新される。
《新規案四》
《対象世帯への事前説明後、配置案を確定》
《総合適合率 九五・三パーセント》
これまでで最も高い数字だった。
同時に、予測される追加日数が表示される。
《工程への影響 プラス三日》
「三日か」
施工管理の男が呟いた。
「現時点なら吸収できます。ただ、回答が遅れれば設計工程に影響します」
「事前説明はいつできる?」
野々村が悠真へ訊いた。
「市側の了承が取れれば、来週の全体説明会より前に実施できます。十二世帯なら、二日あれば回れます」
「誰が回る」
「私が行きます」
「来週は別件もあっただろ」
「調整します」
『佐伯悠真さんの来週の予定を確認しました』
壁面に予定表が現れかける。
「表示しなくていい」
悠真が言うと、予定表は途中で消えた。
岸本が小さく笑った。
「勘を鈍らせたくないんですか?」
「今は関係ないだろ」
野々村が二人を見る。
「何の話だ」
「家庭の話です」
岸本が答えた。
「会議へ持ち込むな」
「すみません」
野々村は真顔だったが、声は少しだけ柔らかかった。
「佐伯一人で回る必要はない。市の担当と、岸本も同行しろ」
「私もですか」
「提案した人間だからな」
「分かりました」
「では、案四を今日の協議案にします」
悠真が言うと、室内に反対の声はなかった。
『案四を社内推奨方針として仮確定します』
《異議確認》
《異議なし 八名》
《第一論点 合意形成完了》
壁面の地図が消える。
時刻は九時四十三分だった。
十四分。
悠真が若手だった頃なら、同じ話を一時間近く続けていたかもしれない。
資料の数字が違う。
聞いていない。
誰が責任を持つ。
前例がない。
そうした言葉の応酬で、肝心の話が進まなくなる会議は珍しくなかった。
今は、必要な情報が最初から揃っている。
発言は論点ごとに整理され、誤解があればその場で確認される。
誰かの声の大きさで結論が変わることもない。
いい時代になった。
悠真は素直にそう思った。
*
第二の論点は、施工期間中の交通誘導だった。
工事車両が小学校の通学時間と重ならないよう、搬入時間を変更する。変更による施工効率の低下は一・二パーセント。
代わりに夜間搬入を増やす案もあったが、沿道の騒音評価が悪化するため採用されなかった。
第三の論点は、住民説明会でどこまで情報を示すか。
設備の安全性。
工事日程。
費用。
災害時の効果。
環境への影響。
検討過程で不採用になった案も含めるべきかが議題となった。
「全部見せればいい、というものでもない」
野々村が言った。
「検討初期の案には、現実性の低いものもある。情報が多すぎると、かえって判断を難しくする」
「でも、都合のいい案だけを比較したと思われる可能性があります」
岸本が返す。
「不採用理由を整理して示せばいいでしょう」
悠真は言った。
「全資料をそのまま出す必要はありません。ただ、何を検討して、なぜ外したのかは分かるようにする」
「理解負荷が上がります」
会議支援システムが告げた。
『全検討案の概要を追加した場合、説明資料の推定読了時間は十一分増加します』
「十一分なら許容範囲だろう」
悠真は言った。
『参加予定者の過去の資料閲覧傾向に基づくと、読了率は七・八ポイント低下すると予測されます』
「短くできないか?」
野々村が訊く。
『不採用案を三分類し、代表例のみを掲載することで、追加読了時間を四分以内に抑えられます』
「それでいきましょう」
法務担当が資料を確認する。
「詳細を知りたい方が、個別に確認できる導線も必要です」
「追加資料として公開します」
「閲覧者ごとに内容を変えるのは避けてください」
「理解支援の表示調整は?」
「表現を変えるだけなら問題ありません。元情報は同一にする必要があります」
それもすぐに合意された。
最後に、会議支援システムが決定事項を読み上げる。
一、対象十二世帯へ事前説明を行い、北部第二蓄電施設の配置を確定する。
二、工事車両の搬入は通学時間を避ける。
三、住民説明資料には不採用案の概要と、その理由を記載する。
四、詳細資料は希望者が閲覧できる状態にする。
『全議題の合意形成が完了しました』
《未解決事項 二件》
《担当者および期限を割り当てました》
《予測終了時刻 十時十二分》
悠真は壁の時計を見た。
十時八分。
予定より四分早い。
「何かありますか」
野々村が参加者を見回す。
誰も口を開かなかった。
「では、終わろう」
『会議を終了します』
《参加者の皆様、お疲れさまでした》
照明が元の明るさへ戻った。
社員たちは端末を持ち、静かに席を立つ。
悠真も立ち上がりかけたところで、壁面に個人通知が表示された。
《佐伯悠真さん》
《本会議における発言貢献度 適正》
《他者発言の遮断 〇回》
《合意形成への寄与 高》
すぐ下に、任意の振り返り項目が並んでいる。
《会議に満足しましたか》
一から五までの数字。
悠真は四を選んだ。
《改善点はありましたか》
「特になし」
《記録しました》
表示が消える。
隣にいた岸本は五を選んでいた。
「満点なんだな」
「早く終わりましたから」
「内容じゃなくて?」
「内容もです。でも、早く終わるのは大事ですよ」
「昼飯のことしか考えてないだろ」
「予約されてる店、限定の煮魚定食があるらしいです」
「もう注文候補も見たのか」
「自動で出てきました」
「自分で選ぶ楽しみは?」
「候補から選ぶのも、自分で選ぶうちです」
また同じ話だった。
悠真は笑い、会議室を出た。
自席へ戻る途中、端末が短く振動する。
会議の決定事項はすでに相川市との協議資料へ反映されていた。変更箇所には色が付き、自治体側が確認すべき項目も整理されている。
さらに、十二世帯への事前説明案が仮作成されていた。
訪問候補日。
説明順。
移動経路。
各世帯で想定される質問。
高齢者世帯には紙資料を準備。
聴覚支援が必要な住民には文字表示端末を用意。
共働き世帯には夜間または遠隔説明を提案。
よくできている。
悠真が考えるより先に、必要な配慮がほとんど揃っていた。
それでも、予定の確定はされていない。
すべて《提案》として並んでいるだけだ。
選ぶのは担当者。
承認するのは相川市。
最終的に受け入れるかどうかを決めるのは、住民本人だった。
誰も置き去りにしないための仕組み。
悠真は画面を見ながら、そう思った。
*
十一時二十八分。
悠真と岸本は本社を出た。
当初の推奨時刻より九分早い。
相川市までは、高速鉄道で四十分ほどかかる。
「早く出ても、予約時間は変わりませんよ」
岸本が言った。
「駅で何かあったら困るだろ」
「遅延予測は低水準です」
「予測は予測だ」
「佐伯さんって、意外と心配性ですよね」
「出張で痛い目を見てきたからな」
「今どき、列車って遅れます?」
「たまには遅れる」
「どれくらいですか」
「去年、三分遅れた」
岸本が黙った。
「それ、痛い目に入ります?」
「乗り換えが四分しかなかった」
「接続調整されませんでした?」
「された」
「じゃあ、間に合ったんですよね」
「間に合ったよ」
「それは遅れたうちに入らないのでは」
「列車は三分遅れた」
「でも佐伯さんは遅れてない」
「そういう話じゃない」
岸本は納得していない顔をした。
駅へ向かう歩道には、昼休みに出た社員たちの姿が増えていた。
飲食店の入口には待ち時間が表示され、混雑している店には近隣の代替候補が示されている。
一軒の店先で、年配の夫婦が立ち止まっていた。
夫が表示を見ながら何度か画面へ触れているが、操作がうまくいかないらしい。
悠真は足を緩めた。
「お困りですか」
声を掛けると、夫婦が振り返った。
「予約を確認したいんですが、画面が変わってしまって」
「お名前を言わなくても大丈夫です。ここの利用者表示を押してから、ご自分の端末を近づけてください」
悠真が指で場所を示す。
夫が言われたとおりにすると、予約内容が表示された。
「ああ、出ました」
「十二時からですね。まだ少し早いので、中の待合席を使えるそうです」
「ありがとうございます」
妻の方が深く頭を下げた。
「息子に、分からなければ案内を呼べと言われているんですけどね。人に聞いた方が早くて」
「その方が早いときもありますよ」
悠真は笑った。
夫婦が店へ入るのを見送ってから、岸本と歩き出す。
「佐伯さん、支援案内員みたいでした」
「表示を読んだだけだよ」
「案内を呼べば済んだのに」
「すぐ分かったからな」
「人に聞いた方が早いときもある、ですか」
「何だよ」
「いえ。佐伯さんらしいなと思って」
駅の入口へ着く。
目的地までの経路はすでに端末へ表示されていた。
どの列車へ乗るか。
どの車両が空いているか。
現地の天候。
昼食の予約。
市役所までの徒歩経路。
会議室の場所。
必要なことは、すべて揃っている。
悠真が判断しなければならないのは、表示された案に従うかどうかだけだった。
改札を通る。
『予定どおりの到着が見込まれています』
端末が告げた。
ホームへ下りると、ちょうど列車が入ってくるところだった。
乗車位置の案内光が点灯する。
悠真と岸本は、示された列へ並んだ。
「佐伯さん」
「ん?」
「さっきの十二世帯への説明、私が半分担当してもいいですか」
「もちろん。そのつもりだったけど」
「部長は同行しろとしか言ってなかったので」
「見学だけさせるつもりはないよ」
「よかったです」
「ただし、最初の一軒は一緒に行こう。説明の仕方を合わせたい」
「はい」
「相手の意見を誘導しないこと。現行案でも安全性に問題はない。代替案に変えた場合は費用が増える。どっちも正確に話す」
「分かっています」
「こちらが変更したい雰囲気を出せば、相手は気を遣うかもしれない」
「住民側が、ですか?」
「説明に来た相手が困っているように見えたら、気にしなくていいと言う人もいる」
「自分の家から設備が見えるのに?」
「だからこそだよ。大したことじゃないと思おうとする人もいる」
岸本は少し考えた。
「難しいですね」
「難しいよ」
「でも、事前に反応予測が出ますよね」
「出るだろうな」
「それを見れば、説明方法も最適化できます」
「参考にはする」
「従わないんですか?」
「従うかもしれない」
「曖昧ですね」
「人と話す前から、話し方を一つに決めたくないんだよ」
ホーム扉の向こうで列車が停止する。
降車する人々が整然と出てくる。
案内光はまだ赤い。
「相手の反応を見て変える、ということですか」
「それもある。でも、同じ言葉でも、人によって受け取り方が違うだろ」
「その違いも予測されますよ」
「全部?」
悠真が訊くと、岸本は一瞬だけ答えに詰まった。
「全部ではないと思いますけど」
「なら、残った分は俺たちの仕事だ」
案内光が緑に変わる。
前に並んでいた人から順番に乗車する。
悠真たちも車内へ入った。
座席は二つ並んで空いていた。
端末の案内どおりだった。
岸本が窓側へ座り、悠真は通路側へ腰を下ろす。
扉が閉じる。
列車は、ほとんど揺れを感じさせずに動き出した。
窓の外で、都心の建物が後ろへ流れていく。
岸本は仕事用端末を開き、事前協議の資料へ目を通し始めた。
悠真も同じ資料を開く。
画面上部には、会議の進行予測が表示されている。
《協議成立予測 九七・二パーセント》
《予定終了時刻 十四時二十六分》
《大きな意見対立は予測されていません》
悠真は表示を確認し、そのまま閉じた。
問題はない。
準備もできている。
相川市との関係も良好だ。
住民の生活を守り、災害に強い町を作る。
会社にも利益が残る。
自治体にも無理がない。
誰か一人だけが我慢する計画でもない。
それは、きっと良い仕事だった。
「佐伯さん」
岸本が画面を見たまま言った。
「何だ?」
「この国って、昔より仕事が楽になったと思いますか」
「急にどうした」
「会議の記録に、過去の類似事業が出ていたので。二十年前は調整に一年以上かかった案件が、今は三か月でまとまっています」
「楽になったというより、無駄が減ったんじゃないか」
「同じですか?」
「少し違う。考えることが減ったわけじゃないからな」
「でも、最適な案は先に出てきますよね」
「案は出る。選ぶ理由を考えるのは人間だ」
「理由も出てきますよ」
「それを受け入れる理由は、自分で考えるだろ」
岸本は画面から顔を上げた。
「佐伯さん、そういうことをいつも考えてるんですか?」
「いつもじゃないよ」
「では、今は?」
「昼飯のことを考えてる」
岸本が吹き出した。
「煮魚定食ですね」
「まだそれに決めたわけじゃない」
「注文候補の最上位ですよ」
「候補は候補だ」
「別のものを選ぶ理由はあります?」
「店に着いてから考える」
「非効率ですね」
「昼飯くらい非効率でいいだろ」
窓の外の建物が低くなり、代わりに緑が増えていく。
遠くに山の輪郭が見えた。
列車は定刻どおりに走っている。
車内は静かだった。
仕事をする者。
目を閉じる者。
窓の外を見る者。
それぞれが、自分にとって最も過ごしやすい方法で移動している。
誰も困っていない。
誰も怒っていない。
目的地には、予定どおり着く。
それ以上、何を望む必要があるのだろう。
悠真は座席へ身体を預けた。
端末が小さく振動する。
《疲労蓄積を検知しました》
《目的地まで、十七分間の休息を推奨します》
画面の下には二つの選択肢があった。
《休息する》
《資料確認を続ける》
悠真は少し迷い、《休息する》へ触れた。
仕事用の通知が自動で抑制され、画面が暗くなる。
頭上の照明も、悠真の席の周囲だけわずかに落ちた。
「着いたら起こします」
岸本が言った。
「端末が起こすよ」
「人に起こされた方が早いときもありますよ」
先ほどの言葉を返され、悠真は笑った。
「じゃあ、頼む」
「はい」
目を閉じる。
列車の走行音は低く、一定だった。
余計な振動もない。
到着までの時間も分かっている。
乗り過ごす心配もない。
悠真は、安心して意識を手放した。
その十七分間に何が起きるかを、考える必要はなかった。
何も起きないことが、あらかじめ分かっていたからだ。
---
**第1話 Part4へ続く**




