第1話 今日も、いい国だ。Part2 遅れない朝
駅へ続く道は、昨夜の雨で濡れていた。
雲の切れ間から差す朝日が、アスファルトの水たまりを白く光らせている。歩道の端では、清掃車が音もなく落ち葉を吸い上げていた。
悠真は傘を持ってこなかった。
端末が雨は降らないと言っていたからだ。
予報を信じたというより、確認する必要を感じなかった、という方が近い。洗面所の鏡には服装と一緒に天候が表示され、玄関を出る直前にも降水可能性が示されていた。
傘を持つかどうかで迷う余地は、最初からほとんどなかった。
『駅までの所要時間は八分です』
耳元の端末が告げる。
『通常経路上で歩行者の滞留が発生しています。次の交差点を右折すると、到着時刻を一分短縮できます』
悠真は前方を見た。
百メートルほど先の交差点に、黄色い帽子の子どもたちが集まっている。登校班らしい。引率する保護者が一人ずつ横断歩道を渡らせていた。
「急いでないから、このままでいい」
『承知しました』
通勤経路の表示が消える。
すぐ横を、自転車に乗った若い男が通り過ぎた。歩行者との距離が近づく前に電動補助が自動で弱まり、男は軽くペダルを踏み直した。
ベルは鳴らさない。
舌打ちもしない。
子どもたちが渡り終わるまで、交差点の手前で静かに待っている。
「佐伯さん、おはようございます」
横断歩道を見守っていた女性が、悠真に気づいて頭を下げた。
同じ町内に住む村瀬だった。腕に巻いた自治会の識別帯には、今日の通学支援担当であることが表示されている。
「おはようございます。今朝は村瀬さんの番ですか」
「そうなんです。主人が早番なので、今日は私が」
「日曜日の清掃もありますよね」
「ありますねえ。今週は公園側でしたっけ」
「たぶん。妻から今朝聞いたばかりで」
村瀬は笑った。
「参加場所は昨日、調整済みになっていましたよ。佐伯さんのご家庭は南側遊具付近です」
「もう決まってるんですね」
「希望を出していなかった世帯は、移動距離と人数で自動調整されたみたいです。うちは花壇の方でした」
「それなら、あとで確認しておきます」
「お子さんも連れてくると、地域参加の学習記録になるそうですよ」
「そんなものまで記録されるんですか」
「任意ですけどね。参加証明を学校に送るか、あとで選べるみたいです」
村瀬はそう言うと、次に渡る子どもたちへ手を上げた。
信号機の青い時間が、通常より少し長くなっている。子どもの人数と歩く速さを読み取り、横断に必要な秒数が自動で調整されているのだろう。
最後尾の子が渡り終えると、信号は急かすような点滅を挟まず、穏やかに赤へ変わった。
「行ってらっしゃい」
村瀬が子どもたちへ声を掛ける。
揃って返ってきた挨拶を聞きながら、悠真も横断歩道を渡った。
駅前へ近づくにつれて、人の流れは密度を増した。
スーツ姿の会社員、制服の学生、買い物袋を提げた高齢者。
歩く速さは違っても、流れはほとんど乱れない。
床面の光が、混雑に応じて進行方向を示しているからだ。
従わなくても罰はない。ただ、従った方が歩きやすい。
それだけで、人は概ね表示に沿って進んでいた。
駅前の大型画面には、朝の地域情報が流れていた。
《本日の生活推奨》
《気温上昇が予測されています》
《水分補給を意識してください》
《午前中の屋外活動が快適です》
続いて、市内の公共施設利用率が表示される。
図書館、三十二パーセント。
運動施設、二十八パーセント。
地域医療相談窓口、待ち時間なし。
行政手続き支援センター、平均対応時間四分。
悠真が子どもの頃、役所は待つ場所だった。
今では窓口へ行く手続き自体が少なく、必要な場合も時間と書類は先に整理されている。
社会は、人の時間を無駄にしなくなった。
少なくとも悠真は、そう感じていた。
改札へ近づくと、端末が短く振動した。
『七時四十五分発の列車は、乗車位置三番付近が比較的空いています』
悠真は床面に表示された案内を確認し、三番の位置へ向かった。
ホームにはすでに列ができていた。
人々は画面を眺めたり、音声記事を聞いたりしながら、白線の内側で静かに待っている。
列の前に立つ男性が咳をした。
周囲の端末が反応した様子はない。
男性自身の腕輪だけが淡く光り、本人へ何かを知らせた。男は表示を確認してから鞄からマスクを取り出した。
誰かに注意されたわけではない。
周囲も彼を見ていない。
それでも必要なことは、きちんと行われる。
列車が入ってくる。
ホーム扉が開く位置へ正確に停止し、降車する人の流れが途切れるまで、乗車側の案内光は点灯しなかった。
案内光が緑に変わるまで、誰も動かない。
緑になると、前から順に乗り込んでいく。
悠真も流れに続いた。
車内は満員ではなかった。
立っている人同士の肩が触れない程度の混雑で、空調も快適に保たれている。
悠真は扉脇に立ち、鞄から仕事用端末を取り出した。
画面には、相川市との事前協議に向けた確認事項が整理されている。
蓄電設備の配置候補。
既存送電網との接続計画。
避難所への優先供給。
施工期間中の交通影響。
住民説明会で想定される質問。
自治体側から共有された情報に、社内の設計部門と法務部門の見解が重ねられていた。
画面右端には、行政支援AIによる整合性評価が表示されている。
《現行案の総合適合率 九二・四パーセント》
《修正推奨項目 四件》
悠真は四件のうち、一番上を開いた。
《北部第二蓄電施設の建設により、近隣住民十二世帯の眺望快適度が低下する可能性があります》
《代替配置案Bを採用した場合、事業費は〇・八パーセント増加しますが、生活影響評価は改善します》
添付された地図には、住宅の窓から設備が見える角度まで示されていた。
悠真は代替案Bへ印を付けた。
費用は上がる。
だが、二十年以上使う施設だ。
毎朝、窓を開けるたびに大きな設備が目に入る暮らしを、〇・八パーセントのために押しつける必要はない。
会社としても、その程度なら十分吸収できる範囲だった。
『代替配置案Bを協議推奨案へ追加しますか』
「追加して。理由は景観だけじゃなく、住民合意形成の安定性も入れておいて」
『承知しました』
短い処理の後、文案が表示された。
悠真は目を通し、二か所を書き換えた。
文章はよくできている。
意味も正確だ。
だが、そのままでは少しだけ冷たかった。
《生活環境への影響を最小化するため》
という一文を、
《近隣に暮らす方が、完成後もこれまでと同じ日常を送れるよう》
へ変える。
会議資料としては前者の方が端的なのだろう。
それでも、事業は数値だけで作られるものではない。
悠真の仕事は、正しい計画を通すことではなく、計画に関わる人々が納得できる場所を探すことだった。
画面を閉じようとしたところで、家族用の通知が小さく表示された。
《蒼さんの職業連携授業に関する保護者同意確認》
美咲が言っていたものだ。
悠真は内容を開いた。
授業中の行動記録を、将来適性支援へ利用するか。
企業担当者との対話内容を、本人の学習履歴へ保存するか。
授業後、関連する職業体験を自動提案してよいか。
項目ごとに選べるようになっている。
初期設定では、すべて《同意》に印が付いていた。
その下に、推薦理由が添えられている。
《過去の選択傾向に基づき、保護者の同意可能性が高い項目を事前選択しています》
悠真は一番目の項目を見つめた。
授業中の行動記録。
どこまで記録されるのだろう。
説明を開くと、発言回数、質問内容、集中時間、共同作業での役割、課題への接近方法と書かれている。
評価ではない。
優劣を決めるものでもない。
本人が将来を選ぶ際の参考資料としてのみ利用され、第三者への提供もされない。
悪いことは何もなかった。
むしろ、蒼のことを丁寧に見てくれる仕組みだ。
悠真は三項目とも同意した。
確認画面が表示される。
《ご協力ありがとうございます》
《蒼さんの可能性を、共に支援します》
承認に触れた直後、画面が閉じた。
処理に要した時間は、四十一秒だった。
以前なら、紙に名前を書き、子どもへ持たせていたのだろう。
提出忘れもあったかもしれない。
便利になったものだ。
悠真は仕事用の資料へ戻った。
列車は速度を落とすことなく、都心へ向かって走っている。
窓の外には、住宅と商業施設の間を縫うように緑地が続いていた。古い建物の屋上にも植栽が施され、雨水を貯留する設備が朝日を反射している。
景色は整っている。
整いすぎている、と感じることはなかった。
人が暮らしやすいよう、長い時間をかけて改善されてきた結果に見えた。
車内表示が切り替わる。
《現在、全路線は平常どおり運行しています》
《本日の遅延予測は、低水準です》
乗客の誰も画面を見上げなかった。
予定どおりに着くことは、知らせるほど特別なことではない。
悠真も資料へ視線を戻した。
*
東央商事本社の入館口には、改札のようなゲートが並んでいた。
社員証を取り出す必要はない。
悠真が近づくと本人確認が行われ、ゲート上部に所属と本日の予定が表示される。
《佐伯悠真》
《エネルギー・社会インフラ事業本部》
《おはようございます》
続けて、健康状態に関する短い通知が出た。
《疲労蓄積度 軽度》
《十五時以降に十分間の休息を推奨します》
悠真は歩きながら表示を消した。
エントランスには大きな吹き抜けがあり、その中央に植物が植えられている。季節に合わせて配置は変わるが、本物か人工物かを気にする社員は少ない。
見た目がよく、空気も清浄で、手入れに無理がない。
それで十分だった。
「佐伯さん、おはようございます」
背後から呼ばれ、悠真は足を止めた。
同じ部署の後輩、岸本遥が小走りで近づいてくる。片手には飲み物、もう片方には薄型端末を抱えていた。
「おはよう。走らなくていいよ」
「すみません。ゲートで健康確認に引っ掛かりまして」
「大丈夫なのか?」
「睡眠不足です。昨日、配信を見始めたら止まらなくなって」
「それは会社に止めてもらえないな」
「生活端末には三回止められました」
「じゃあ自業自得だ」
「四回目を言わなかった端末にも、少し責任があると思うんです」
「三回無視した人間の台詞じゃないな」
岸本は笑った。
「今日の相川市、私も同行で合ってますよね?」
「合ってる。午前の会議が終わったら、十一時半に出る」
「移動推奨は十一時三十七分でしたけど」
「昼を食べる時間がなくなる」
「現地で推奨店が出てましたよ。駅から市役所へ向かう途中の定食屋」
「知ってる。混むんだよ、あそこ」
「今日は席が確保されてます」
「予約したのか?」
「事業参加者向けの移動計画に含まれていました」
悠真は岸本を見た。
「いつの間に」
「昨日の夕方、相川市から来た行程確認を承認しましたよね?」
「したけど、店まで入ってたか?」
「昼食支援という項目が」
「そこまで読んでなかったな」
「大丈夫です。アレルギー情報と過去の注文履歴から、候補も絞られてます」
「俺の昼飯まで相川市に面倒を見てもらうのか」
「市じゃなくて、出張支援システムです」
「どっちでも似たようなものだろ」
岸本は首を傾げた。
「便利じゃないですか?」
「便利だよ」
「じゃあ、いいじゃないですか」
今朝、蒼にも同じようなことを言われた。
悠真は苦笑した。
「最近の若い人は、みんな同じ返しをするな」
「佐伯さん、まだ三十六ですよね」
「子どもに言われると年齢を感じるんだよ」
「中学生でしたっけ」
「上がな」
「なら、もう仕方ないですね」
「何が仕方ないんだ」
話しながらエレベーターへ乗る。
扉が閉まると、行き先を押す前に二人の予定から目的階が表示された。
《二十七階》
《エネルギー・社会インフラ事業本部》
岸本が表示を確認し、そのまま壁にもたれた。
「午前の会議、修正推奨が一件増えました」
「どこ?」
「北部第二蓄電施設です。景観評価」
「それなら、さっき俺が追加した」
「あ、佐伯さんでしたか」
「代替案Bで話すつもりだ」
「事業費が上がりますよ」
「〇・八パーセントだろ」
「部長は嫌がるかもしれません」
「嫌がるだけなら問題ない」
「通りますかね」
「通すんじゃない。相談するんだよ」
悠真がそう言うと、岸本は一瞬だけ黙った。
「その言い方、前にも聞きました」
「何を?」
「私が配属されたときです。会議は勝つ場所じゃないって」
「そんな格好いい言い方だったか?」
「いえ。もっと長くて分かりにくかったです」
「じゃあ、今のは岸本が整理したんだろ」
「要点抽出は得意なので」
エレベーターが二十七階へ到着する。
扉の先には、すでに仕事を始めている社員たちの姿があった。
固定席は少ない。
その日の業務に応じて席が提案され、端末を置けば必要な資料が自動で呼び出される。
相川市案件、社内連絡、法務確認。
今すぐ見るべきものだけが上に並んでいた。
昔のように、受信箱の上から順番にメールを読む必要はない。
重要な連絡を見落とす心配も、ほとんどなかった。
「佐伯」
背後から低い声がした。
振り返ると、部長の野々村が立っていた。
五十代半ば。肩幅の広い男で、いつも濃い色のスーツを着ている。見た目だけなら厳格だが、怒鳴っているところを悠真は一度も見たことがない。
「北部第二、配置を変えたいらしいな」
「はい。代替案Bを協議に出します」
「費用が増える」
「〇・八パーセントです」
「分かってる」
野々村は悠真の画面へ目を向けた。
「適合率は?」
「代替案Bなら九四・一まで上がります」
「会社収益は〇・三下がる」
「将来の追加対策リスクは減ります。住民説明後に修正するより、今変えた方が安いです」
「住民から要望は出てないだろ」
「まだ計画を見せていませんから」
「見せても、問題にならないかもしれない」
「そうかもしれません」
野々村は返答を待った。
悠真も急いで言葉を継がなかった。
周囲では社員たちが仕事を続けている。
誰かが二人の会話を気にする様子はない。
「それでも変えるのか?」
「問題にならないことと、問題がないことは別です」
野々村は小さく息を吐いた。
怒ったのではない。
考えるときの癖だった。
「相川市が費用増を受け入れなかった場合は?」
「設備仕様の別項目で吸収案を出します。性能を落とさずに削れる部分を設計と確認中です」
「もう動いてるのか」
「昨夜、候補だけ出してもらいました」
「なら、午前の会議で話せ」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは決まってからにしろ」
野々村はそう言い、二歩ほど進んでから足を止めた。
「佐伯」
「はい」
「住民説明会には、お前が出ろ」
「その予定です」
「予定じゃなく、最後まで担当しろという意味だ」
悠真は少しだけ姿勢を正した。
「分かりました」
「会社にとって都合のいい説明だけはするな」
「はい」
「市にとって都合のいい説明もだ」
「承知しました」
野々村は頷き、今度こそ自分の席へ向かった。
隣で聞いていた岸本が、小声で言う。
「部長、結局賛成なんじゃないですか」
「まだ分からないよ」
「でも、反対なら説明会まで任せませんよね」
「反対意見を持ってる人間に説明させた方が、穴が見つかることもある」
「佐伯さん、反対してるんですか?」
「配置には反対してる。事業には賛成してる」
「ややこしいですね」
「仕事なんて、大体そういうものだ」
開始五分前を知らせる表示が、机の端に浮かぶ。
《相川市エネルギー基盤更新事業 社内調整会議》
《参加者は第三会議室へ移動してください》
社員たちが立ち上がり始めた。
悠真も端末を閉じる。
今日の会議で、重大な対立が起きるとは思っていなかった。
必要な情報は揃っている。
意見の違いは事前に整理され、各案の影響も数値化されている。議論が感情的にならないよう、発言時間や論点も調整されていた。
だからこそ、会議は早く終わるだろう。
誰かが折れるのではない。
最も無理の少ない答えを、皆で選ぶ。
今の社会では、それが当たり前だった。
悠真は第三会議室の扉へ手を掛けた。
扉の横に、今日の会議目標が表示されている。
《参加者全員が納得可能な合意点の形成》
その下には、予測終了時刻があった。
《十時十二分》
予定時間は四十二分。
悠真は腕時計を見る。
まだ九時二十九分だった。
会議は、おそらく遅れない。
この国では、たいていのことが遅れなかった。
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**第1話 Part3へ続く**




