第1話 今日も、いい国だ。Part1 朝の最適化
佐伯悠真が目を覚ます三分前、寝室のカーテンがゆっくりと開き始めた。
閉じていた瞼の向こう側が、薄い橙色に染まる。
人工的な光ではない。
窓の外から差し込む朝日を、室内の照度に合わせてカーテンが少しずつ取り込んでいるのだ。
『おはようございます、悠真さん』
枕元の端末から、落ち着いた声が聞こえた。
『現在時刻は六時十二分です。昨夜の睡眠時間は六時間四十八分。深い睡眠は前日より十一分長く、心拍数にも異常はありません』
「……おはよう」
『本日の起床推奨時刻は六時十五分ですが、覚醒状態が安定しているため、予定より三分早く照明を調整しました』
悠真は返事の代わりに、布団の中で右腕を伸ばした。
指先が何もない場所を探り、やがて妻の肩に触れた。
「起きてる?」
「起きてない」
美咲は目を閉じたまま答えた。
「返事しただろ」
「これは寝言」
「最近の寝言は会話が成立するんだな」
「技術の進歩ね」
美咲が布団を鼻先まで引き上げた。
それ以上起こすのは諦め、悠真は静かに身体を起こした。足を床へ下ろすと、足元だけが淡く光る。家族の睡眠を妨げない明るさに、自動で抑えられていた。
寝室を出る前に振り返る。
美咲は再び眠りへ戻ったらしい。
穏やかな寝息を立てている。
『本日は九時三十分から社内会議、十三時から相川市エネルギー基盤更新事業の事前協議があります』
廊下を歩く悠真の耳元で、生活端末の音声が続いた。
『移動時間を考慮した推奨出発時刻は七時三十八分です。通常より四分早く出発すると、混雑率を十三パーセント低減できます』
「四分か」
『はい』
「それなら早く出よう」
『予定へ反映しました』
階段を下りる途中、子ども部屋の前で足を止めた。
三つある扉のうち、一番奥だけが少し開いている。
中を覗くと、蓮が布団を蹴飛ばし、身体を横向きにして眠っていた。頭は枕から落ち、右足だけが布団の上に残っている。
昨夜、美咲がきれいに掛け直したはずだった。
悠真は部屋へ入り、床に落ちた薄い掛け布団を拾った。
蓮の身体へ掛ける。
すると蓮が眉間に皺を寄せ、目を閉じたまま布団を掴んだ。
「まだ、いかないで」
かすれた声だった。
「どこにも行かないよ」
「おしごと」
「もう少ししたらな」
「きょう、おやすみじゃないの?」
「今日は月曜日」
「じゃあ、あした?」
「明日も水曜日」
蓮はしばらく黙った。
眠ったのかと思った頃、小さな声で言った。
「おやすみ、すくないね」
悠真は笑いそうになったが、どう返せばいいか迷った。
「日曜日は、みんなで公園に行こう」
「おおきいほう?」
「大きいほう」
「ボールも?」
「持っていこう」
それで納得したらしい。
蓮の手から力が抜けた。
悠真は布団を肩まで掛け直し、部屋を出た。
廊下へ戻ると、端末が控えめな音量で告げた。
『日曜日の天候は晴れ、降水確率は十二パーセントです。近隣の中央防災公園は、十時から十二時までの混雑率が低い見込みです』
「もう調べたのか」
『会話内容から外出候補として仮登録しました。予約は行っていません』
「そこまでしなくていいよ」
『承知しました。候補のみ保持します』
便利だ。
悠真はいつもそう思う。
忘れそうなことを代わりに覚え、面倒なことを先回りして整えてくれる。だが、必要のないところまで勝手に決めることはない。
提案はする。
選ぶのは人間だ。
それがこの国のAIの基本だった。
キッチンへ入ると、コーヒーメーカーが低い音を立てていた。
昨日補充した豆が挽かれ、湯気とともに香りが広がる。
冷蔵庫の前面には、今日使う予定の食材が表示されていた。
卵。
豆腐。
鮭。
昨夜の残りのきんぴら。
賞味期限の近いヨーグルト。
『朝食案を表示します』
「表示だけでいい」
『承知しました』
悠真は鮭を取り出しかけ、時計を見て戻した。
朝から焼けば、匂いで美咲が起きてくる。
代わりに卵を三つ取り出した。
フライパンへ油を引いていると、背後から足音がした。
「パパ、今日早い?」
振り返ると、陽菜が立っていた。
髪の片側だけが大きく跳ねている。薄い寝間着の上からカーディガンを羽織り、目を細めながらキッチンの明かりを見ていた。
「いつもと同じくらい」
「卵、私も食べたい」
「起きたばかりなのに食欲あるな」
「目玉焼き?」
「その予定」
「半熟?」
「その予定」
「二個?」
「それは予定にない」
陽菜は椅子へ座ると、テーブルの上へ頬を乗せた。
「今日ね、学校で将来相談があるの」
「もう?」
「全員あるよ。進路を決めるんじゃなくて、向いてることを一緒に考えるやつ」
「先生と?」
「先生と、学校のアシスタント」
「何になりたいって言うんだ?」
「まだ決めてない」
「絵を描く仕事は?」
「好きなことを仕事にしたら、嫌いになるかもしれないでしょ」
思ったより大人びた答えが返ってきた。
悠真が卵を割る手を止めると、陽菜は顔を上げた。
「なに?」
「いや。誰かに言われたのかと思って」
「学校のアシスタント」
「もう相談したのか?」
「先に質問に答えたら、そういう可能性もありますって」
「なるほどな」
「だから、今日は好きなことと向いてることを分けて考えるんだって」
陽菜はそう言って、テーブルの端に置かれた生活端末へ手を伸ばした。
画面には、学校から届いた予定が表示されている。
午前十時二十分。
個別適性対話。
所要時間、十八分。
結果は本人と保護者へ共有。
悠真が子どもの頃、進路指導といえば、中学生になってから初めて受けるものだった。
それも、成績と本人の希望を照らし合わせ、進学先を考える程度のものだ。
今はもっと早い。
得意なこと。
苦手なこと。
興味の移り変わり。
集団の中での役割。
体調。
集中できる時間帯。
本人が負担に感じない範囲で蓄積された情報をもとに、その子に合った選択肢を一緒に探してくれる。
昔より、ずっと丁寧だと思う。
「結果が出たら見せてくれよ」
「パパとママにも自動で届くよ」
「そうじゃなくて、陽菜がどう思ったか聞きたいんだ」
陽菜は少し考えてから、笑った。
「うん。いいよ」
フライパンの縁で白身が固まり始める。
悠真は火を弱め、蓋をした。
「おはよう」
今度は蒼が入ってきた。
制服のシャツを着ているが、第一ボタンは開いたままだった。髪も整えていない。片手で端末を操作しながら、冷蔵庫を開ける。
「歩きながら見るな」
「見てない。聞いてる」
「目も画面に向いてるだろ」
「字幕が出るから」
「それを見てるって言うんだよ」
蒼は返事をせず、牛乳を取り出した。
年齢のわりに背が伸びるのが早く、最近では美咲とほとんど変わらなくなった。それでも冷蔵庫から直接飲もうとする癖だけは、なかなか直らない。
「コップ」
悠真が言う。
蒼は牛乳パックを口元へ運びかけた姿勢のまま止まり、無言で棚からコップを取った。
「今日、職業連携の授業なんだ」
「企業の人が来るやつか」
「うん。都市設備の運用会社」
「面白そうだな」
「父さんの仕事と近い?」
「近いところもある。うちは作る側と使う側を繋ぐ方だけどな」
「調整する人?」
「雑に言えば」
「じゃあ、何も作ってないの?」
「朝から厳しいな」
陽菜が笑った。
「パパは人と人をくっつける仕事でしょ」
「それ、前にパパが言ってた」
「よく覚えてるな」
「陽菜はパパのこと好きだから」
「蒼だって好きじゃん」
「嫌いとは言ってない」
「朝から人気者ね」
いつの間にか美咲がキッチンの入口に立っていた。
髪を一つに束ね、まだ少し眠そうな顔で欠伸を噛み殺している。
「起きてないんじゃなかったのか」
「卵の匂いで起きた」
「鮭にしなくて正解だったな」
「朝から鮭を焼こうとしてたの?」
「一瞬だけ」
「平日に?」
「一瞬だけだって」
美咲は笑いながら悠真の横へ来ると、フライパンの蓋を少し持ち上げた。
「これ、もう火を止めていいよ」
「まだ白身が」
「余熱でいける」
「本当か?」
「結婚して何年目?」
「料理の技量と結婚年数は関係ないだろ」
「いいから止めて」
悠真が火を消す。
美咲はそのまま食器棚から皿を取り出し、人数分をテーブルへ並べ始めた。
こういう朝が、悠真は好きだった。
特別なことは何もない。
誰かの誕生日でもない。
旅行へ出掛ける日でもない。
子どもたちが順番に起きてきて、眠そうな顔で椅子に座り、どうでもいい話をする。
それだけの時間だ。
けれど、仕事で何日も家を空けた後には、この騒がしさが妙にありがたく感じられる。
以前は出張のたびに、家のことを美咲へ任せきりにしているという後ろめたさがあった。
今は行政の育児支援も、学校との連絡も、病院の予約も、一つの生活基盤へまとまっている。
子どもが熱を出せば、受診先も移動手段も、仕事を休むための手続きまで整う。
助けられている。
少なくとも、佐伯家は間違いなく助けられていた。
「蓮は?」
美咲が訊いた。
「まだ寝てる。一度起きたけど、日曜日に公園へ行く約束をしたらまた寝た」
「約束したの?」
「ああ」
「今週、自治会の清掃あるけど」
悠真は手を止めた。
「何時から?」
「九時から十時半」
「公園はその後でいいだろ」
「蓮、大きいほうの公園って言った?」
「言った」
「中央防災公園、日曜の午後は混むよ」
『日曜日の中央防災公園は、十三時以降の混雑率が通常より二十一パーセント高くなる見込みです』
端末が会話へ加わった。
美咲が笑う。
「ほら」
「さっき候補だけ保持するように言ったんだけどな」
『予約操作は行っていません。関連情報のみ提示しました』
「分かってるよ」
『九時からの自治会清掃へ参加した場合、佐伯家の推奨外出時刻は十一時十二分です。公共交通機関を利用すると、十一時四十一分に到着します』
「そこまで決めなくても大丈夫」
『承知しました』
音声が止まった。
蒼が牛乳を飲みながら言った。
「便利じゃん。教えてもらえば」
「自分で決める余地も残しておきたいんだよ」
「提案されてるだけでしょ。決めるのは父さんじゃん」
「まあ、そうだけど」
「だったら同じじゃない?」
蒼は不思議そうな顔をした。
悠真は反論しようとして、やめた。
確かにその通りだった。
提示された時間を選んでも、別の時間を選んでもいい。
行かないという選択もある。
「蒼の言う通りね」
美咲が味噌汁を運びながら言った。
「あなた、たまに便利なものへ意地を張るから」
「意地じゃないよ」
「じゃあ何?」
「……勘を鈍らせたくない」
少し考えてから答えると、美咲は鍋を持ったまま笑った。
「公園へ行く時間を決める勘?」
「そういう小さいところから鈍るんだよ」
「設備の仕事をしてる人は大変ね」
陽菜が声を立てて笑い、蒼も口元だけを緩めた。
悠真もつられて笑った。
自分でも、少し面倒なことを言ったと思う。
しかし、こうして軽く笑われる程度がちょうどよかった。
誰も本気で対立していない。
誰も傷つかない。
それぞれ違うことを言いながら、最後には同じ食卓へ戻ってくる。
悠真にとって家庭とは、たぶんそういう場所だった。
食事を終えた頃、二階から大きな音がした。
続いて、蓮の泣き声が聞こえる。
「起きたな」
悠真が立ち上がるより先に、階段を駆け下りる足音がした。
蓮は寝間着姿のままキッチンへ飛び込んでくると、真っ直ぐ悠真へ向かってきた。
「パパ、いなくなった!」
「いるだろ」
「おへやにいなかった!」
「下に来ただけだよ」
蓮は悠真の腰へ抱きつき、しばらく離れなかった。
寝癖だらけの頭から、洗剤と汗の混じった子どもの匂いがする。
悠真はその頭を撫でた。
「今日は仕事に行くけど、夜には帰るから」
「なんじ?」
「七時くらい」
『本日の帰宅予測時刻は十九時十八分です』
「七時十八分だって」
「おそい」
「頑張って早く帰るよ」
『現在の予定では、最短帰宅予測時刻は十八時五十二分』
「じゃあ、それより早く帰れたら勝ちだな」
「かつ」
蓮はようやく悠真の腰から離れた。
予定どおりなら、今日は早く帰れる。
この国では、たいていのことが予定どおりに進む。
お読みいただき、ありがとうございます。
次話もよろしくお願いいたします。




