第2話 選ばなかったもの Part4 家に帰るまで
午後の業務は、予定より少しだけ長引いた。
岸本から移された資料確認は、それほど難しい内容ではなかった。
ただ、住民意見の分類に一つずつ目を通していると、思ったより時間がかかった。
《入浴時間の変更には対応できない》
《子どもの帰宅時間に合わせて食事を作りたい》
《夜間勤務のため、推奨時間帯を利用できない》
《現在の生活に不便を感じていない》
どれも、特別な理由ではなかった。
制度へ反対しているわけでもない。
新しい設備を拒んでいるわけでもない。
ただ、今の暮らしを変えたくない。
それだけだった。
意見の横には、すでに分類結果が付けられている。
《家庭事情》
《就労事情》
《心理的抵抗》
《情報理解不足》
悠真は最後の項目で指を止めた。
《現在の生活に不便を感じていない》
その意見は、《情報理解不足》へ分類されていた。
悠真は少しだけ目を止めた。
設備更新の利点が十分に伝わっていない、と判断されたのだろう。
新しい設備には明確な利点がある。
悠真は分類を変更せず、確認済みの印を付けた。
《確認を受け付けました》
《対象世帯への追加説明を推奨します》
画面上の処理件数が一つ増える。
間違った判断ではない。
それでも悠真は、次の意見を開く前に一度だけ席を立った。
*
給湯室には誰もいなかった。
悠真は紙コップへコーヒーを注ぎ、窓の外を見る。
向かいの建物の壁面に、公共広告が映っていた。
《あなたに合った選択を》
《より良い明日は、今日の小さな判断から》
見慣れたミライ庁の広報だった。
柔らかな音楽とともに、家族が食卓を囲む映像が流れている。
父親が端末の提案を確認し、母親と子どもが笑う。
最後に、青い文字が浮かぶ。
《選ぶのは、あなたです》
「佐伯さん」
後ろから声を掛けられた。
振り返ると、岸本が立っていた。
「研修は?」
「休憩です」
「住民対応、向いてた?」
「九十二パーセントですから」
岸本は棚からカップを取り出した。
「何してたんですか?」
「相川の意見確認」
「ああ。すみません」
「岸本が謝ることじゃないだろ」
「私の担当だったので」
「再調整されたんだから、今は俺の担当だ」
「そうなんですけど」
岸本は飲み物を選ぶ画面に触れた。
《本日の推奨》
《無糖紅茶》
《疲労軽減に適しています》
岸本は表示を眺めたあと、カフェオレを選んだ。
「また外したな」
「今日はそういう日なので」
「何だ、それ」
「一回外すと、二回目は簡単ですよ」
冗談めいた口調だった。
悠真は笑ったが、岸本はカフェオレが注がれる様子を見たまま、ぽつりと言った。
「朝の異動、受けてたらどうなってたんでしょうね」
「利用者調整課に行ってたんじゃないか?」
「そういう意味じゃなくて」
岸本はカップを取り出した。
「受けた私と、断った私は、同じ私なんですかね」
「同じだろ」
「ですよね」
岸本はすぐに笑った。
「変なこと言いました」
「研修で疲れたんじゃないか?」
「たぶんそうです」
休憩終了を知らせる通知が、岸本の端末に届いた。
《次の研修開始まで三分です》
「戻ります」
「ああ」
「相川、お願いします」
「任せろ」
岸本は給湯室を出ていった。
悠真は窓の外へ視線を戻す。
広告では、先ほどの家族が公園を歩いていた。
子どもが二つの道を見比べ、明るい方を指差す。
家族はそちらへ進んでいく。
《選ぶのは、あなたです》
同じ言葉がもう一度表示された。
*
退勤時刻は十八時七分だった。
《本日の業務は完了しました》
《追加業務時間 四十三分》
《業務負荷 許容範囲内》
《帰宅後の休息を推奨します》
悠真は端末を閉じ、会社を出た。
駅までの経路には、二つの候補が表示されている。
《推奨経路》
《混雑回避・所要時間二十八分》
《通常経路》
《所要時間二十四分・混雑度高》
推奨経路は、いつもとは反対側の出口を使う。
四分長いが、座れる可能性が高い。
悠真は迷わず推奨経路を選んだ。
今日は少し疲れていた。
案内に従って歩くと、確かに人は少なかった。
ホームへ着くと、ちょうど電車が入ってくる。
車内には空席が二つ残っていた。
悠真が座ると、端末が短く振動した。
《経路選択を確認しました》
《疲労軽減予測 十二パーセント》
そのすぐ下に、家庭予定の通知が表示される。
《六月十二日の移動計画を更新しました》
《建築模型教室への推奨経路を再計算しました》
《九時十四分出発》
《通常より混雑が予測されます》
さらに、その下へ新しい提案が続いていた。
《同一内容のオンライン体験を利用できます》
《移動不要》
《満足度予測 八十八パーセント》
悠真は少しだけ画面を見つめた。
陽菜は真央と一緒に行きたいと言っていた。
教室そのものだけが目的ではない。
だからオンラインでは意味がない。
悠真は提案を閉じた。
確認画面で、《対面交流を優先》を選ぶ。
《選択を受け付けました》
《今後の家族向け提案へ反映します》
朝、美咲が選んだ理由と同じだった。
家族・友人との予定を優先。
対面交流を優先。
言葉にすれば、どちらも正しい。
陽菜が真央と一緒に行きたいという気持ちも、きちんと分類できる。
悠真は窓へ視線を移した。
夕暮れの街が、一定の速さで後ろへ流れていく。
端末が、もう一度だけ小さく震えた。
《家族の選択傾向を更新しました》
悠真は通知を開かなかった。
帰宅予測時刻は、十八時五十一分。
美咲には、すでに自動で共有されている。
今日は家へ帰れば、陽菜が秘密の家について少しくらい教えてくれるかもしれない。
そう考えると、少しだけ気持ちが軽くなった。
案内された経路は、やはり正しかった。
玄関を開けると、リビングから陽菜の声が聞こえた。
「パパ、早く来て」
「ただいまが先だろ」
「おかえり。早く」
「はいはい」
靴を脱ぎ、鞄を置く。
蓮が廊下を走ってきて、悠真の脚に抱きついた。
「ぱぱ、おかえり」
「ただいま」
蓮の頭を撫でながらリビングへ入ると、食卓の半分が紙で埋まっていた。
厚紙、色鉛筆、透明な板、小さな木片。
その中央に、箱を組み合わせたような模型が置かれている。
「これ、何だ?」
「秘密の家」
「もう見せていいのか?」
「ちょっとだけ」
陽菜は椅子の上に膝をつき、模型を悠真の方へ向けた。
屋根は左右で高さが違い、正面には大きさの異なる扉が二つある。
片方は玄関らしい。
もう片方は、その半分ほどしかない。
「小さい扉は誰が使うんだ?」
「子ども」
「大人は入れないな」
「入りたいなら、しゃがめばいいの」
「何で扉を分けたんだ?」
「大人と同じじゃなくてもいいから」
陽菜は当然のように言った。
模型の中には、壁で区切られていない広い部屋がある。
その奥から、二本の通路が伸びていた。
「こっちは?」
「外に出る道」
「二つも?」
「近い方と、楽しい方」
「近い方は分かるけど、楽しい方って何だ」
「遠回りするの」
陽菜は模型の横へ、細長く切った紙を置いた。
紙には、木と花と、小さな池が描かれている。
「時間がある日は、こっち」
「急いでる日は?」
「こっち」
陽菜は何も描かれていない短い通路を指した。
「なるほど」
「どっちでもいい家なの」
悠真は模型を眺めた。
「真央ちゃんも同じ家を作るのか?」
「一緒に作るけど、まだ変わるかも」
「オンラインでも作れたんじゃないか?」
何気なく口にすると、陽菜は首を横に振った。
「真央ちゃんがいないと、この道は作れないよ」
「どうして?」
「真央ちゃんが、お花の道にしたいって言ったから」
陽菜は紙に描かれた花を指でなぞった。
「私は池がいいって言ったの。だから両方にした」
「一人なら?」
「どっちかしか思いつかなかった」
悠真は少しだけ黙った。
LifeOSが提示したオンライン体験の満足度予測は、八十八パーセントだった。
模型教室の内容だけを考えれば、それほど悪くない。
移動もなく、混雑もなく、待ち時間もない。
それでも、今目の前にある道は、オンラインでは作られなかったのかもしれない。
「パパはどっちから帰ってくる?」
陽菜が尋ねた。
「今日?」
「この家に住んでたら」
「仕事の日は近い方かな」
「やっぱり」
「休日なら、楽しい方」
「本当?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて、選んで」
悠真は二本の道を見比べた。
片方は短く、何もない。
もう片方には、花と池がある。
「じゃあ、今日は楽しい方」
「今日はもう帰ってきてるよ」
「今度の話だよ」
陽菜は納得したように頷いた。
「じゃあ、今度ね」
*
夕食は、鶏肉と野菜の蒸し煮だった。
蓮は人参だけを器用に避け、蒼はそれを見つけるたびに戻している。
「にんじん、いらない」
「食べた方がいいって」
「いらない」
「LifeOSに聞いてみれば?」
蒼が言うと、蓮は慌てて首を振った。
「きかない」
「何で?」
「にんじんっていうから」
美咲が笑った。
「聞かなくても、お母さんが言うよ」
「やだ」
「一つだけ食べたら?」
悠真が言う。
蓮はしばらく人参を見つめ、小さな一切れを口へ運んだ。
何度か噛み、顔をしかめながら飲み込む。
「食べた」
「偉いな」
「もういい?」
「今日はな」
蓮は安心したように、鶏肉を食べ始めた。
食卓の端では、家庭用端末が静かに今日の記録を更新している。
誰も画面を見ていなかった。
「そういえば、土曜日の経路が変わったよ」
悠真が美咲へ言った。
「通知来てた。九時十四分でしょ」
「ああ。あと、オンライン体験も勧められた」
「そっちの方が楽ではあるんだけどね」
「でも、陽菜は真央ちゃんと行きたいからな」
「うん。今週のままにしよう」
美咲は迷わず答えた。
陽菜が嬉しそうに顔を上げる。
「混むみたいだから、早めに出よう」
「分かった」
「ちゃんと起きる?」
「起こして」
「朝と同じだな」
悠真が言うと、陽菜は笑った。
美咲も笑う。
蒼は呆れたような顔をしながら、それでも少し口元を緩めていた。
推奨より二十八分長く待つかもしれない。
電車も混んでいるかもしれない。
それでも家族の誰も、変更した方が良かったとは言わなかった。
*
子どもたちが寝たあと、悠真はリビングのソファに座った。
美咲は隣で、週末の持ち物を確認している。
「模型教室って、何を持っていくんだ?」
「端末と筆記具だけでいいみたい。材料は向こうにあるって」
「便利だな」
「昔なら、段ボールとか接着剤とか全部持っていったのかな」
「それはそれで楽しそうだけどな」
「帰りが大変そう」
「確かに」
美咲が家庭予定を閉じる。
「今日、会社でも何かあった?」
「同僚に異動の提案が来た」
「異動するの?」
「断った」
「断れるんだ」
「提案だからな」
「そっか」
美咲はそれ以上聞かなかった。
悠真も、岸本の予定が組み替えられたことまでは話さなかった。
隠したわけではない。
説明するほどのことでもないと思っただけだった。
テーブルの上で、生活端末が静かに光った。
《本日の生活記録を保存しました》
悠真が確認を押す。
いつもの画面が開く。
佐伯悠真
N-Index 964
前日比 ±0
推奨一致率 九十一パーセント
その下に、今日の傾向がまとめられている。
《家族との対面交流を優先》
《職場内の調整行動を確認》
《推奨経路を選択》
《家族向け提案を二件見送り》
さらに、小さな文字が続いた。
《選択傾向の精度が向上しました》
《今後は、あなたらしさをより正確に反映した提案を行います》
悠真は画面を見つめた。
「どうしたの?」
美咲が尋ねる。
「いや」
悠真は端末を閉じた。
「何でもない」
今日、自分で選んだものを思い返す。
座れる帰宅経路。
鯖の香草焼き。
オンラインではなく、真央と行く模型教室。
どれも、自分や家族に合った選択だった。
LifeOSは、次からそれを理解してくれる。
選ばなかった理由まで覚えてくれるなら、次はもっと自分たちに合った提案になる。
こちらが説明しなくても、より自分らしい提案をしてくれるようになる。
便利なことだ。
悠真はそう思った。
寝室へ向かう途中、陽菜の模型が目に入った。
二つの出口。
近い道と、楽しい道。
どちらを使ってもいい家。
悠真は照明を消した。
暗くなった部屋の中で、生活端末の画面だけが数秒間残っていた。
《あなたらしさを更新しました》
やがて、それも静かに消えた。




