第三十三話 令嬢、売り飛ばされる
ヘイムスカー男爵は、かつて普通の青少年だった。
男爵家の長男として生を受け、位は低くとも国の貴族として役目を果たすべく精進した。お世辞にも才ある人間とは言えなかったが、それでも両親と妹に囲まれた生活に不満はなかった。小さな領地をいつか父から受け継ぎ、親子で大きくしていく。いずれ他の家に嫁いでしまう妹が胸を張って出ていけるようにしてやりたい。口には出さなかったが、兄としてそんな些細な願いも胸に秘めていた。
そんな男爵の人生が道を逸れたのは、彼が成人して間もなくの頃だった。
母と妹が隣領での茶会に招かれ、帰ってくる予定日。屋敷で二人を出迎えようと準備をしている所に、一人の男が駆け込んできた。
体の至る所から血を流し、息も絶え絶えに倒れ込んだ男。何事かと見れば、それは見知った護衛の一人だった。母と妹を守るために出ていった者が一人、尋常ではない様子で駆け込んでくる。何も言われずとも、嫌な予感しかしなかった。
帰路にて襲撃を受け防戦中。至急応援を。
気力を振り絞り、何とかそれだけを言い残して男は息絶えた。辿り着けたことが不思議な程の怪我にも関わらず、男は最期まで役割を果たしてくれた。しかし、その死を嘆き悲しむ時間はない。その時はただ、彼の最期の言葉を無駄にしないことだけを考えた。
当時の当主であった男爵の父と、現在の当主である男爵は即座に集められるだけの戦力を持って全速力で馬を駆けた。途中で脱落してしまう者がいても、待っている余裕はない。休みなく走り続け、そしてようやく見慣れた馬車の姿を見つけた。
馬車の周囲に散らばるのは戦闘の痕跡。敵味方入り乱れての戦闘に発展したようで、見知った顔が既に物言わぬ躯になっているのが視界に入る。既に動いている者はおらず呻き声すら聞こえない。間に合わなかった自責の念が、まだ若かった男爵の心を押し潰した。
そして、母と妹の姿が見えない。ひょっとしたら逃げ出すことができたのか。それとも、連れ去られたのか。だとしたら、直ぐにでも捜索して救出しなくては。
感情の渦に朦朧とする頭を働かせて指示を出そうとした時。父の叫び声が聞こえた。見ると、馬車の横で膝立ちになって頭を抱えて喚き声を上げている。その視線の先は僅かに開かれた馬車の扉の中。そこで、ようやく思い至る。
母と妹は馬車に乗っていたはずだ。何故、自分は最初にそこを確認しなかったのか。慌てすぎて簡単な事を忘れていた。父は流石だ。自分と違って冷静に行動している。
だが、何故父は声を上げたのか。自分はそれほど離れた場所にいるわけではない。普通に呼び掛けられれば聞こえる距離だ。冷静さが欠けていた自分が言えた義理ではないが、あれでは貴族としての品位が損なわれてしまう。あと数年で成人して嫁いでいくであろう妹に笑われてしまう。もちろん、母も同じように父を窘めるだろう。仕方ない。その時は自分も父と共に二人に謝るとしよう。二人が心配だったのだ、と。無事で良かった、と。
喚き声を上げ続けている父親に近寄り、そしてヘイムスカーは馬車の扉を大きく開け開いた。
この日、この瞬間。一人の男が壊れ、とある男爵家の運命が音を立てて崩れていった。
◆
ヘイムスカー男爵家は他の貴族同様に領地と王都の両方に屋敷を構えている。しかし、力のない男爵家故に領地の屋敷は他貴族よりも質素である。また、滅多に使うことがない王都の屋敷ともなれば、ある程度の商人家の方が良い住居だった。
そんな王都にある屋敷の執務室にて、ヘイムスカーは商人が連れてきた幼い二人の少女を見下ろしていた。商人の話では二人は姉妹で、とある村人が借金の形で奉仕に出したそうだ。親元を離れて見知らぬ屋敷に連れてこられた姉妹は、互いを守るように抱きしめ合って震えている。
齢四十を超えた男を、十にも満たない子供が涙目で見上げている。その姿に、ヘイムスカーは今も何処かにいる妹の姿を重ねた。
前触れなく一家に降り掛かった突然の悲劇。顔見知りが多く死に、結局相手の目的も正体も分からず仕舞いだった。
母と妹は、あの日から行方不明だ。ヘイムスカーの調査によれば似た人物が各方面で目撃されており、今もどこかで生きているようだが、その足取りは疎らで掴めない。ある時は北、ある時は南。母だけだったり、母と妹が一緒だったり。ヘイムスカーとしては二人が元気なので言うこと無いのだが、たまには顔を見せて欲しいと思っている。
妹のお気に入りだった馬車は父が焼いてしまった。本当は残しておきたかったのだが、至る所に血痕がある馬車なので流石に見てくれが悪い。妹が帰ってきた時、怒らなければ良いが。怒られたら誠心誠意頭を下げるしかない。
そして、父は酒の量が増えて体を壊し、あっけなく逝ってしまった。本当に急な事で母と妹への連絡も間に合わなかった。そのため、必然的にヘイムスカーが爵位を継ぐこととなった。父が死んだことは悲しいが、母に伝えなくてはならない。妹もきっと泣いてしまうだろう。早く連絡を取らなければならない。
「お前達、名前は?」
平坦な声の問い掛け。しかし、姉妹に答える様子はない。
これまで、幾人もの少女を迎え入れてきたが、最初から素直に名乗る者は皆無だった。今の二人はまだマシな方で、中には泣き叫んで商人に頬を叩かれる者もいた。
妹と同年代の少女を屋敷に置くようになったのはいつからだったか。妹が帰って来た時のため、話し相手を雇うようになったが、直ぐに成長してしまう。妹を差し置いて育っていくのは憤りを感じるが、成長を止めることは不可能だ。仕方なく、女性といえる年齢まで成長した者は商人に払い下げて、新しい者を雇い入れていた。
商人が連れてくるのは一人の時もあれば、今回のように姉妹の時もある。時折、見知らぬ者同士が来ることもあるが、ヘイムスカーにとっては妹と同世代で、ある程度顔立ちが整っている者ならば誰でも良かった。
少女たちも最初は悲観していても、やがてどうしようもないと悟れば無駄な抵抗を止める。ある者は無気力にその日を生き、またある者は生活レベルが上がったことに喜ぶ。贅沢とはいえないが、それまでの質素な暮らしと比べれば、屋敷での生活は天と地の差だ。中には自分が偉くなったと勘違いする娘もいた。
しかし、それも長くは続かない。妹が帰って来た時を考えれば、平民の言動が悪影響を与えないとも限らない。そのため、最低限の躾を施すことになる。最低限とはいえども、それまで勉強らしい勉強をしてこなかった少女には苦難の連続だ。中でも、有事の際に体を張って妹を守る手段の学習は群を抜いて苦行らしい。例の事件後、二度と同じ過ちを繰り返さないために、その筋の者を雇い入れた時に提案されたものだが、時折聞こえて来る泣き声と男たちの荒々しい言動は不快だが慣れた。妹のためならば、仕方がないことなのだ。
目の前の二人も遠くない未来に同じ道を辿るだろうと考えながら、ヘイムスカーは続けた。
「いくら幼くとも名前位は言えるだろう? 妹が帰ってきた時にそんな様子じゃ、また代わりを見つける必要があるな」
代わり、の言葉に言い知れぬ恐怖を感じた姉妹が、ようやく言葉を発した。それは気を付けなければ聞き逃してしまう程の小さな声。姉が言い、そして次に妹がしゃくりを上げながら告げた。
揉み手でヘイムスカーの顔色を伺っていた商人が頃合いと見たのか、口を挟んだ。
「二人はお目に適ったでしょうか?」
「ああ、これで良い。支払いはいつも通りだ」
「有難うございます」
商人は幾度も頭を下げ、姉妹にしっかりと働くようにと言いつけると足早に立ち去った。その後姿は、この場に一時でも留まりたくないと言っていた。
「さて、お前達。取り敢えず汚いな」
ヘイムスカーは姉妹の砂埃で汚れている姿を眺め指摘する。このままでは妹に相応しくない。
誰か、と声を上げると、少しして老年の女従者が現れた。他家ならばとっくに現役を退いている年齢だが、彼女は未だに働き続けている。今後の進退を聞いても共に地獄までお付き合いします、と言うので好きにさせていた。
思えば、家族が揃っていた時と比べると屋敷で働く人間は激減した。父の代から仕えている者も彼女を含めて数える程度で、皆同じようなことを言って留まっている。
怯える姉妹は女従者に優しく促されると弱々しく立ち上がり、彼女の後を付いて行った。これで少しはマシな格好になるだろう。
「これで、いつでも迎える事ができる」
以前まで屋敷にいた少女は既に商人に売り払っていた。成長して妹との年齢が釣り合わなくなったので不要となったのだ。商人が買い取る際、残っている借金のために、次は淫婦として売ると言っていた。生まれは平民でも、この屋敷で過ごす数年間で多少は嗜みを覚えるので、その方面に需要があるらしい。ヘイムスカーにとっては、後継の少女が届けばどうでも良いことなので特に言うことはなかった。
数少ないが、仕事の区切りがついて母と妹が今何処にいるのか考えを巡らせていると、部屋のドアが叩かれた。
「入れ」
「失礼致します」
入ってきたのは先程の商人とは別の商会に属する男だった。この男もまた、先程の商人と同様に屋敷に何度か売り込みに来た事がある。そんな彼らが此処を訪れたのだ。用事など聞かなくても分かった。
「本日はヘイムスカー様に年頃の少女を雇っていただきたく参上した次第です」
「ほう、珍しい日もあるものだ」
「はい?」
ヘイムスカーが商人に提示している条件に合致する人間が連れてこられるのは稀だ。そのため、何人かの商人に渡りをつけているが、それでも長い時は数ヶ月もの時間が掛かる場合もある。しかし、今回に限って同じ日に、別々の商人が連れてきたのだ。このような事は初めてだった。
「取り敢えず、見せてみろ」
「承知致しました」
商人は疑問を無視されたが、特段気にした様子もなく扉の外に出て、すぐに戻ってきた。
連れてこられたのは二人の女。片方は確かに見た目は美しく、普通は畏怖する貴族の目前に連れられても怯えのない態度だ。しかし、明らかに成人は過ぎており条件から外れている。だが、もう片方は条件に見事に当てはまった。小さな体と、可愛らしい顔立ち。歳も妹と同じ位だろう。怯えて成人女性の後ろに隠れる姿は、記憶にある妹によく似ていた。
「片方はいらんな。もう片方は雇うことにする」
即決したヘイムスカーに、商人が慌てたように告げ足した。
「実はこの二人は姉妹でして。姉の歳は少々アレですが、従者として働いた経験があるので、そちらで雇っては如何でしょうか?」
ヘイムスカーは商人の提案を吟味する。
確かに従者は数が減り、しかも高齢な者ばかりだ。それを考えると、若い従者を雇うのも悪くはない。ある日突然、働けなくなる可能性もあり、そんな状況で妹や母が帰ってきたとなれば悔やんでも悔やみきれない。そして、最初の姉妹のように独りではない状況のほうが精神的に安定して手間もない。
「よし、ならば二人共雇うこととする」
「有難うございます」
「二人をいつもの部屋に入れておけ。先程、別の商人が連れてきた姉妹がいるから、同様に身なりを整えるように伝えておけ」
「承知致しました。しかし、今回は人数が多いですな。直ぐに交換となっても、他を探し出すまで猶予があるのは良いことです」
「お前達商人にとっては頻繁に入れ替わったほうが潤うのではないか?」
「いえいえ、これでも結構仕入れには苦労しておりまして」
「毎度、お前達の働きには感謝している。妹もきっと喜ぶことだろう」
「……では、私はこれにて失礼致します」
商人は二人を連れて部屋を出る。その表情は理解できぬ存在を前にした時の戸惑いが貼り付けられていたが、それをヘイムスカーが気付くことはなかった。そして、退出する際に片方の年上の女が鋭い視線を巡らせている事にもまた、気付いていなかった。
◆
「取り敢えず、私を売り飛ばして下さい」
タリアの口から飛び出した時間稼ぎの方法。そして、売り飛ばす等と物騒な言葉を言い放つタリアに閉口する一同。
そんな一行を傍目にタリアは続ける。
「自分で言うのも恥ずかしいですが、私なら興味を持たれると思うのです」
そう言い、その場でクルリと回って笑うタリア。青い髪とスカートがなびき、まるで花畑で優雅に遊ぶ子女の一場面を思わせる姿だ。カルナはもちろんの事、普段接しているアティですら息を呑んで見惚れた。
確かに幼くも可愛らしく、時折垣間見せるイリスのような色香は男の興味を引くのは間違いない。黙って大人しくしているという条件があるが。
そして、カルナの姉妹に目をつけた男爵ならば、タリアを雇い入れる事は想像に難くない。
「無事に入り込めればカルナさんの姉妹を確認して、可能なら共に脱出します。それが無理なら時間を稼ぎますので、行方不明になった公爵令嬢の捜索という大義名分で兵士と共に乗り込んでください。スレインはヘイムスカーに取り次いでも怪しまれない商人は知りませんか?」
「それは……おります」
「なら、直ぐに連絡を取って手筈を整えてください。どうせ後ろめたい事がある商人なのでしょう? ゴネるようでしたら、拘束する旨を匂わせて構いません」
タリアが考えた時間稼ぎの方法。それは単純に自身を囮にして乗り込み調査をするもの。カルナの姉妹に接触し、確実に身柄を保護するための手段。無害な幼子を装って入り込み、内から食い荒らす。まるでトロイの木馬だ。
だが、入り込むのは物理的な力は皆無な令嬢。ミイラ取りがミイラになる可能性も当然ある。そのため、スレインとアティは反対した。
「それは危険すぎます。本宅の管理を任されている身として、賛同いたしかねます」
「同感ですタリア様。いくらカルナさんの姉妹を助けるためとはいえ、無謀です」
罪のない姉妹を助けるためとはいえ、あまりにもリスクが高すぎる。失敗でもしようものならば、グランドール家に降りかかる不利益は計り知れない。その不利益によって、グランドール領の民の生活が一変する可能性すらあるのだ。
タリアは二人の懸念を分かっていると言いつつも諦めない。
「しかし、理由もなく男爵家を家捜しするわけにはいきません。姉妹が見つからなければ我が家を糾弾する材料を与えてしまいますし、仮に見つかったとしても目的が姉妹だと分かれば、将来的に二人が他の貴族に狙われる可能性が出てしまいます。あくまでも私の探索をしていたら、平民の姉妹が見つかったという形を崩すわけにはいきません」
「でしたら……」
やはり、手を引くべきではないか。アティは咄嗟に言葉にしようとしたが、それは叶わなかった。
タリアがアティの表情から言わんとすることを読み取り、先に行動を起こして抱きついたのだ。
「お願いします、お姉さま。リタのわがままを許して欲しいです」
「タリア様……」
市場に出向いた時に使った偽りの姉妹関係で懇願するタリア。いつもの主従としてのお願いではなく、まるで本物の姉に頼み込むような姿勢に、アティに迷いが生じた。従者として正しい対応はタリアの願いを却下し、イリスが戻ってから相談することだ。おそらく、高確率でカルナの姉妹から手を引くことになるが、それが最もリスクが少ない流れだ。カルナからは恨みを買うかもしれないが、完全に逆恨みだ。そもそも、平民の魔法使い一人でどうにかなる力関係ではない。
だが、確実にタリアは気落ちするだろう。言えば貴族としての立場と割り切るだろうが、心から納得は難しいかもしれない。アネッサの件が解決したばかりで、タリアの中では姉妹というキーワードがネックとなっているのかもしれない。
「でしたら、せめて私をお連れください。姉妹として共に行き、万が一の時は全力でお守りしますので」
アティの言葉にタリアとカルナは表情を明るくし、スレインは信じられないものを見たと言いたげに目を見開いた。
「アティ。それは正しい判断とは思えません」
「はい、わかっています。しかし、私はタリア様の従者であり、本日はリタの姉でもあります。妹の願いを極力叶えてあげるのが姉としての私の役割です」
「それは言葉遊びでしょう。万が一、タリア様に何かあれば、私達二人の首だけでは済みませんよ?」
「当然です」
スレインの言葉にアティの雰囲気が変わる。室内にも関わらず風が生まれて空気が重くなる。意図的にか、無意識にか。アティの風魔法が漏れ出し、まるで彼女の心情を示しているかのようだった。
「その時はタリア様に襲いかかる全ての脅威を排除することに致しましょう。私の全身全霊で相手に後悔という後悔を魂に刻み付けて差し上げます」
その雰囲気が、声が、視線が語っている。相手が誰であれ、タリアに害なす存在は自分が粉砕すると。むろん、その言葉はどう言い繕ってもタリアの無謀な案を受け入れる事には変わりない。
スレインは処置無しと頭を振った。
「できる限り無茶はしないように。商人は私の方で話をつけておきます。それと、イリス様にもできる限り早く戻っていただけるよう計らいます。……タリア様を止められなかった私はもちろん、提案に乗ったあなたも当然処罰されるかもしれません」
「覚悟の上です」
「私は覚悟していないのですが」
断言するアティに、大きく肩を落とすスレイン。そして、そんな二人を励ます元凶の令嬢。
「二人とも、もしクビになったら私が直接雇用しますね。大丈夫です、お小遣いは結構ありますので」
実際、お小遣いで二人どころか護衛集団を継続的に雇い続ける事が簡単なほどの収入を得ているタリアに、二人は苦笑した。
そんな二人を満足気に確認してから、タリアはそれまでのやり取りを見守っていたカルナを見る。
「では、カルナさん。姉妹の名前と特徴を教えてもらえますか?」
◆
商人はタリアとアティを一つの部屋の前に連れて行くと、まるで執事のように扉を開けて二人をエスコートする。悪人顔の商人の慣れない仕草には違和感を覚えるが、必死にタリアとアティの機嫌を取ろうとしている意思が見て取れた。手配したスレインが上手いこと言い含めたのだろう。二人が部屋の中に入ると、これ幸いとまるで逃げ出すようにして去っていった。
中に入ると、そこには三人の人物がいた。一人はこの屋敷の従者と思われる年配の女性。そして、あとの二人はタリアよりも幼い二人の少女。小奇麗な格好をしているが、怯えた表情と垢抜けていない雰囲気から彼女たちの心情と境遇が良く分かった。
女従者は入ってきたタリアとアティを見て僅かに驚いたが、直ぐに元の表情に戻った。
「新しく雇われた子ね。あなたは少し年齢が高いわね。どういった経緯で――」
アティは訝しむ女従者を無視して近づくと、自然な動作で隠し持っていたナイフを取り出して喉元に当てた。まさか、自分がそんな目に合うとは思っていなかった女従者は、最初何が起こったのか理解できずに呆然とし、ようやく事態を理解して顔から血の気が引いた。恐怖で膝が震え、叫び声も上げることはできない。もっとも、叫ぼうとした瞬間にアティの何らかの対応が行われるだろうが。
アティが無難に女従者を無力化した事を確認すると、タリアは突然の事に怯えている二人の姉妹に近寄った。
「あなた達がアルシャとメイシャですか?」
出来る限り優しく問いかける。腰を落とし、視線を同じ高さにして聞いたタリアに、姉妹が恐る恐る頷いた。
「カルナさんに頼まれて、助けにきましたよ」
「お姉ちゃん?」
「はい、二人のお姉さんです」
「わたしたち、ここで働きなさいって言われたよ?」
「もう大丈夫です」
「でも、貴族さまに逆らっちゃいけないってお母さんが」
「大丈夫です。私も貴族なんです。しかも、とってもとっても偉い貴族なんですよ?」
「あなたも?」
小首を傾げてタリアを凝視する姉妹。あまりタリアの言葉を信じていない様子だ。
取り敢えず、当初の目的である姉妹の確保はできたので、次はこっそりと脱出経路を探そうかと腰を上げたタリアに、アティが未だに刃を向けている女従者が弱々しい声で話し掛けてきた。
「お願いです、貴族様。旦那様を楽にして差し上げてください」
声を発したことで、アティのナイフがより近づいたが、それでも女従者は言葉を止めようとはしなかった。
「旦那様を止める事ができなかった私めも同罪です。そんな私がどの口でと思われるかもしれませんが、お願い致します。旦那様を――死なせてあげてください」
従者が仕える主の死を望むという、反逆的な言葉にタリアとアティはどう反応すべきか迷う。同情を買おうとしているようでも、主に全ての責任を追わせようとしているのでもない。
一体、どういうことなのか。問おうとしたタリアだが、それよりも早く遠くで炸裂音が響いた。
「まさか、突入ですかっ!?」
アティが驚くのも無理はなかった。当初の予定よりも早すぎる。
何かを打ち破る音と、怒号。そして、大勢の足音が聞こえた。
それらが、タリアを保護する者達だとすれば、スレインが心配して予定を早めたのか。それとも、別の何かが起こったのか。
「とにかく、向かいましょう。出口もアチラの方だったはずです」
姉妹の手を取り、優しく立ち上がらせる。女従者はアティに任せる。
扉をソっと開けるが付近には誰もいない。しかし、遠くから聞こえてくる喧騒は続いている。
「大丈夫、怖くないよ」
姉妹を落ち着かせるようにして、タリアは言葉を掛け、そして音のする方へと歩き出した。
◆
騒乱の元となった場所は、この屋敷の中央に位置する最も見栄えが良い正面玄関部分だった。
開けるのに苦労しそうな大きな扉は破壊され、見るも無残な木製の廃材と化している。
そして、扉を破壊したと思わしき人物たち。冒険者風の者から、街の治安を守る自警団の鎧を着た者、動かすには国王の許可が必要な王軍の兵士たちまでもがいる。誰も彼もが入り乱れ、まるで農作物を荒らすバッタのように屋敷の隅々までひっくり返している。
取り敢えず、無事を報告しよう。慌てて駆け寄ろうとしたタリアだが、
「さて、うちの娘はここかしら?」
静かだが、タリアの耳にハッキリと聞こえてきた声。他の者ならば只の問い掛けに聞こえただろう。しかし、知る者にとっては。特に家族であるタリアには、声の主の心情が穏やかではないことを確信していた。
「まずいよ、どうしようアティ。私も恐怖で震えてきた。泣きそうだよ。二人は私が助けるから、誰か私を助けてくれないかな」
「現実を直視して下さいタリア様。イリス様がお迎えのようです」
アネッサと共に学園にいるはずの母イリスが、扉の残骸に足を乗せ、威嚇する百獣の王のような視線で周囲を見渡していた。




