第十五話 令嬢、知らぬ所で頼られる
タリアの父であるハルバートは、いつもの座り慣れた椅子ではなく、街で購入したばかりの硬い椅子に座って職務をこなしていた。
片付けても片付けても終わらない雑務。少しでも休憩を入れれば瞬く間に積み重なる書類。まともに食事をし、睡眠を取ったのが何日前だったのか忘れた。休日など、もはや頭の片隅にすら存在しない。
疲れた目を休めるために視線を上げる。元は豪華な家具類が置かれていたと思われる部屋には、質素な机が運び込まれ、そこにもまた一心不乱に書類と格闘する自分の部下たち。領主と同室で仕事をする光景などグランドール家ではあり得ないのだが、今はそんなことを言っている暇はない。なにせ、ここはグランドール家ではない。さらにいうとグランドール領ですらなかった。
旧ヴックヴェルフェン領の領主屋敷。今、ハルバートがいる場所の名だ。
ハルバートは現実から逃避するように少し過去を思い出した。
グランドール家の現当主であるハルバートが国王より旧ヴックヴェルフェン領の一時的な管理を拝命した時、口が裂けても言えなかったが正直面倒を押し付けられたと思った。
現国王のガルゼ・イーセットとは旧知の仲で、かつて冒険者をやっていた頃に行動を共にしたことがある。自分も公爵家の跡取りの立場ながら、色々無茶をした時代だが、王も王で自分以上に無茶をした人物だ。よく仲間が次期国王と次期公爵家がこんな男達でイーセット王国の将来が心配だと言われた程だ。懐かしくも恥ずかしい過去の話だが、それからお互いに立場が変わっても友人としての思いは変わらない。
そのためだろうか、他の貴族に投げると手間が増える様な事案はこちらに回されることが時折あるのは。当然見返りは受け取るが、仕事が増えることは変わりない。
裏で国家転覆レベルの悪行を企んでいたスタブ・ヴックヴェルフェンが死亡し、後釜の人間が収まるまでの統治。当然、以前から隣領地が不況なのは把握していた。しかし、恐らくは伝え聞く状況よりも悪いと思われる。スタブのように悪い方には努力を惜しまないような人間が、自分の領地の悪評をそのままにしておく筈がない。賄賂や脅迫などで国の査察や有力商人への口止めなど対策を取っていると思われる。
だからこそ、ハルバートはグランドール家にて普段から領地運営に慣れ親しんでいる面子をある程度引き連れて旧ヴックヴェルフェン領に乗り込んだ。そして、思った。ヴックヴェルフェンの糞野郎はあと百回は殺してやりたい、と。
グランドール領から旧ヴックヴェルフェン領に越境後、領主の屋敷がある街までに幾つかある村々。事前に食料など自分たちの分はなるべく持参するようにした。ギリギリの生活をしている村人から徴収するのは印象も悪いだろうし、気も引ける。しかし、村に立ち寄ったハルバート達一行が目にしたのは、食べる物もなく木の根をかじる子供。ボロボロの服で傷だらけの手足を露出させて、ようやく捕まえた野うさぎを家族に与える父親。生きているのか死んでいるのか分からない日陰で横になる老人。飢餓が発生しているわけではないはずなのに、まさにそこは飢餓の真っ只中の光景だった。
憤りを感じつつも、速やかに自分たちの食料を分配する。当然、周囲の村々も同様の状況だろうが、今は目の前の人々が優先だった。手持ちの分では足りるはずもないので、早馬でグランドール領に早急の食糧支援を要求。同時に国王宛にも状況を知らせて王から他の領地にも支援の要請を出してもらうように懇願した。
幸いにも国全体としては食糧難が発生しているわけではない。不幸中の幸いだ。これで何とか餓死に瀕している者が救われる。そう思っていた。
しかし、甘かった。お腹は空いているはずだ。喉も乾いている筈だ。それなのに、村の人々は遠巻きにハルバート達を見るだけで近寄ってこない。幼い子どもが食べ物につられて近寄ろうとすると、両親が抱き上げてしまう。誰一人、食べようとはしないのだ。
ハルバートは問いた。
『なぜ、食べ物を取りに来ないのだ』
代表して村長が力なく言った。
『それは我々への最後の手向けでしょうか、貴族様?』
彼らの目に写るのは貴族への疑惑と諦め。そして、生きることを放棄した虚脱感だった。中には例え毒入りでも最後に腹いっぱい食べたいと話している親子すらもいる。そこまで彼らは貴族への信頼は落ちているのだろう。憎むことも望むこともできない感情は最後には虚無となって心を支配した。
吐き出し様のない重い感情に耐えながらハルバートは黙って用意した食料に近づき、適当につかむ。そして皆が見ている前で乱雑に口に詰め込んだ。マナーもなっていない。口の中を飲み込めば次にまた適当にかぶり付く。食べ物だけではない。常温の只の水をガブガブと飲み、溢れた水が服を濡らした。
やがて、村人が一人恐る恐る近寄り、燻製肉を一欠片手にした。匂いを嗅ぎ、少し舐めて味を確認する。最後に意を決して口に放り込み、確かめるように咀嚼して飲み込んだ。
『……うまい』
短い一言。しかし、小さく笑い、涙を流して呟いたその言葉は小さな波として村人の耳に行き渡り、また一人また一人と食料へと導いた。
競い合うように、それでも子供や体力の落ちた者へ行き渡るようにしながら村人たちがお腹を満たす。その光景を確認したハルバートはようやく一息入れ、村人たちがお礼を言う間もなく直ぐに村を発った。
そうして村々を出来る限り巡り、要請した食糧支援の後発隊とも連携して何とか支援を続けてようやく街へと辿り着いた。街は村々よりも食料の備蓄があったのでマシな部類だったが、それ故に別の問題が発生していた。治安が最悪だったのだ。
既に運営に行き詰まっていた領地事情を悟った商人がほぼいない。給与の支払いが滞って治安兵が不在。領主死亡の噂が既に流れたのか、屋敷の目ぼしい金品は空になっており、従者などの姿は皆無に近かった。まさに世紀末状態である。街民は自分の家に引きこもって静かに事態の収拾を願っているだけだ。
そんな街に心身はボロボロでやつれているが、身なりは良いハルバート一行が訪れたのだ。当然のようにチンピラ崩れに目をつけられた。
『へへ、お前ら金品食料を置いていきな。そうすれば命まではとらないでやるぜ?』
ぞろぞろと数を揃えて立ちはだかる男たち。恐らく逃げられた場合に備えて姿を見せずに様子を伺っている仲間もいるだろう。まともに鬼ごっこをすれば土地勘のある彼らには敵わない。まともに逃げれば、だが。
ここに来るまでに村々の悲惨な光景を見せられ、溜まりに溜まった憤りに流石のハルバートも口調が荒く、投げやりに言った。
『すまないが、消えてくれないかな? 我々は非常に疲れているんだ』
『なんだとっ!? 人がせっかく穏便にすま―』
そして文字通り飛んでいくチンピラたち。アティの風魔法とは異なり、ハルバートの護衛達はその逞しい筋力で物理的にふっ飛ばした。レナの一件で手も足も出なかったため、相当フラストレーションが溜まっていたらしい。むしろ、存分に力を振るえる機会だと喜んでいるようにも見えた。
思わぬ反撃にチンピラたちは総崩れで我先に逃げ出そうとするが、鍛えられた護衛達の足には敵うはずもなく、一人また一人と捕まっていき、凄惨な悲鳴を人の通らぬ街中に響き渡らせた。
以降、チンピラたちは強制的に改心させて護衛達の部下の位置づけとした。いくらでも人手は欲しいし、街を良く知る彼らの情報も欲しかったので丁度良かった。彼らは今日も街中の治安維持のために駆けずり回っている。
それから屋敷を本拠地として街を中心に領地の内情把握をしつつ、同時に支援も行った。王から各領主へと送られた指示で直ぐに追加支援も届いたので物資に関しては問題なかった。問題はそれを捌く人材がいないこと。だからこそ、ハルバート自身もフル稼働で働いているのだ。
「ハルバート様、どうされましたか?」
思った以上に呆けていたのか、いつの間にかガーディーが机横に立っていた。その手にはコーヒのカップ。レナからハルバートを庇って受けた傷は完治しており、今も問題なくコーヒーを手にしている。彼自身にも仕事が多々あるのに、気を利かせてくれたようだ。お礼を言い、受け取って一口飲む。苦味が口に広がり、体の内側から暖かさが広がる。途端に、甘いものが欲しくなったがこの場所にはそんなものはない。普段の自室ならば、と思うが諦める。
「いや、この地に来てからどの位経ったのかなと思ってな」
「およそ一ヶ月と少しです」
「そうか、一ヶ月か。もう何年も家に帰っていないように思えるよ。ああ、妻や娘達に会いたい……」
「そうですか」
「お前も早く家族持てば―」
「それよりも、こちらが追加の確認書類になります。あと、街長が街への移住者の対応について相談したいと面会を求めております。それと、国王から定期連絡の確認要項が。さらに―」
「すまん、そろそろ過労死しそうだ」
ガーディーの言葉にハルバートだけでなく他の者達も項垂れている。どんなに忙しくても終わりが見えていればある程度は頑張れるが、終わり所が見えない現状は精神的にも参ってしまう。いくら優秀な者たちでも限度はあるのだ。
「あと数日で領地全体の村を確認して回った者たちが戻ってきますので、それまでの辛抱です」
今回の派遣メンバーは当初は今いる者たちの倍はいた。しかし、道中の村々の様子から屋敷にある情報の信頼性は低いと判断し、半分を未だ見ていない村を回るように指示を出した。当然人手は減るがどうしても必要な対応だった。その半分のメンバーが帰ってくる。これだけで少なくとも仕事は半分近くまで減る事となる。久々にベットで眠れそうだ。
ようやく聞けた明るい話題に、聞いていた者たちに少しだけ明るさが戻った。ハルバートも残っていたコーヒーを一気に仰いで、仕事の続きに取り掛かった。
それから数日後、期待していた者たちが帰還した。
これで少しは楽になる。そう思っていたハルバートは執務室にて報告を聞く。しかし、彼らは今回の一連で最大の難題を抱えていたのだった。
「疫病が発生しています」
言葉を失った。疲れすぎて耳がどうかしてしまったと思った。しかし、告げた部下たちの表情は暗く、とても疲弊している。聞き間違えでも、冗談でもなかった。
「どういう……ことだ?」
「ある一帯の村々を回っていた時のことです。住居の数に対して住民が少なすぎるのが気になりまして、問い詰めたところ村長が口を割りました。以前から村で原因不明の病が発生しており、子供や老人など体力のないものが次々と倒れているようです。我々が辿り着いた時には起き上がれない程でした」
「……その村以外ではどうなっている?」
「他に二つの村で同様の現象を確認いたしました」
「くそっ!」
思わず机に拳を叩きつけた。衝撃で書類が床に散らばる。
この国で疫病が発生した場合、対処としてその発生地域を完全に封鎖する。周囲に感染を拡大させない為だ。国全体として考えれば当然の対応だが、封鎖される側としては恐怖以外の何物でもない。隣近所で次々と倒れ、最悪命を落としていく者がいる中に取り残されるのだ。その恐怖は筆舌に尽くしがたい。自分だけでも安全な場所へと逃れたいと思っても不思議ではない。そして、その先で感染者を出して被害を拡大する。
過去にそのような悲惨な状況に陥ったため、この国では疫病が発生した場合は王命により国軍での封鎖が行われる。村長から領主貴族へ情報が伝わり、そこから王へと報告が行く。その筈だった。
しかし、村長としては自分の村が、貴族としては自分の領地から疫病が発生したとなると、その運営能力を問われると恐れて発覚が遅れる事もある。そのため、国も商業ギルドや冒険者ギルド経由でも異変が報告されるように管理体制を構築していた。だが、今回はその網も機能しなかった。
領地全体が荒廃し、商人は足が遠のき、冒険者も仕事がないため数が非常に少なかった。村長はスタブが助けてくれるとは思わず、むしろ厄介事と判断されて村が攻め滅ぼされるとすら判断して沈黙を選択した。病が沈静化することを願って。
しかし、実際は沈静化することなく、逆にその影響範囲を広めてしまった。ハルバートが訪れた村々とは真逆の方角に存在した村での発生だったのも気付くのに遅れた原因だ。
「……王に手紙を送る。ガーディーは封書の用意を。複数用意しておけ」
「承知致しました」
「お前たちは病について詳細を報告しろ。過去に同じ病が発生していれば対処法も分かるかもしれん」
「はい」
ハルバートは聞き出した病の症状を王への手紙に記述していく。初期症状として運動機能が低下していくこと。中期として錯乱、記憶障害などが起きること。最期には意識を失い、昏睡後に命を落とす者がいること。出血や斑点などの外的特徴は見られないこと。そのため、感染者の判別が困難なこと。
それらを記述後、足の早い馬を携えた部下に手紙を託す。それぞれが別々のルートで王都を目指すのだ。
「ガーディー。現在までに信頼をおけると判断した者たちにのみ伝えることを許可する。その他の者には盗賊が出たための警戒と伝え、人の出入りをなるべく制限しろ」
「承知いたしました。それで、ハルバート様……」
「どうした?」
「ご家族へはお手紙を送らなくとも宜しいのでしょうか?」
言葉通りならば、万が一の事を考えてハルバートが家族へ宛てた手紙を認めなくても良いのか確認する言葉。しかし、そうではない。数少ない者だけが知っているグランドール家の秘密。愛娘の一人である次女タリアの特異である予知夢。今まさに発生している状況にこれ程心強い力はない。次に何処で病が蔓延するのか分かれば初期対応が効率よく行え、あわよくば病への対処法まで判明できれば万々歳だ。頼ってしまうのも無理はないのだ。
「……」
ガーディーの言わんとしていることを正確に理解したハルバートは考え込む。頼れば間違いなく力を貸してくれるだろう。心優しく、人の痛みを知り、貴族としての責務を理解できる子だ。しかし、だからこそ必要以上に頑張りすぎる可能性もある。
グランドール家の貴族として将来的に見てもタリアの力は大きい。親としても大切な大切な娘だ。隣領民とタリア一人ならば迷わずタリアを選択するだろう。
知らせたくはない。しかし、もしも知らせずにいて疫病の報が遅れてタリアの耳に入れば。ハルバートの予想以上の行動力を発揮する可能性がある。王の元に直接乗り込んだり、ひょっとしたらこちらに乗り込んでくる可能性もある。タリア自身には物理的な力はなくても、その周りを固める者たちは精霊使いや聖女がいるのだ。タリアの暴走を押し留めてくれる保証はない。
「家族にも手紙を書く。用意しろ」
「はい」
ならば、事実を伝えてタリア自身にやってもらいたい事を明確に指示を出す。そうすれば乗り込んでくるようなことはしない筈だ。
ハルバートはやるせない気持ちで家族宛の手紙を書き始めた。
◆
「それで、この手紙は本物なんだろうな?」
男は己のみ座すことが許された玉座に足を組んで座っている。感情を抑えるかのように、顔に当てている掌は大きく、子供の頭なら片手で掴めるほどだ。その指の隙間から覗く鋭い眼光が、その手にある手紙から移された相手は体を震わせて身を縮こませた。
「は、はい。グランドール家当主のハルバート様からで間違えございません。送られてきた手紙の封蝋は本物で、内容の随所に含まれる暗号も一致しております」
遠くの離れた人間に連絡を取りたい場合、その手段は幾つかあるが最も一般的なものは手紙だ。伝えたい内容を明記することで口伝のように情報に過不足が発生しない。尚且つ、代理の者でも手紙を運ぶことが出来る。代理の者は貴族なら使用人に命じるか、信頼できる冒険者に依頼する。平民ならば冒険者ギルドに有料で預けると、冒険者ギルドが依頼元として運搬依頼が出される。ある程度数が溜まってから依頼が張り出されるので、手紙が届くのはいつになるのか分からない。そのため、他の村や街にいる人間と連絡を取るのは非常に時間がかかるので、危篤の知らせを手紙を受け取ってから慌てて相手の元へと赴いても大抵は間に合わない。タリアとアティが精霊に手紙のお使いを頼むような事は、まずやらないし、できない。
手紙でのやり取りは貴族や王族でも手法は同じで、王から領地にいる貴族への命令も基本は手紙で行われる。もちろん、運ぶのは鍛えられ、背後関係のキレイな者が専任で行う。紛失や情報の漏洩など以ての外だからだ。
しかし、それでも不測の事態は発生するので、送付元を確認するのに封蝋を使用し、さらには事前にお互いに決め交わしておく暗号を手紙の随所に含ませて偽造対策としている。貴族が王都へと定期的に赴くことが義務付けられているのは、領地の状況報告だけでなく、この暗号を定期的に更新する作業もあるからだ。
「ならば、本物で手紙の内容も本当なのだろうな」
そう言い、深く長い溜息をつく男の名をガルゼ・イーセットという。タリアの住むイーセット王国の現王で、冒険者をしていた事がある変わり種。性格も猛虎のように豪快で、戦法も一直線に敵陣に突っ込み、その類まれな身体能力と鍛えられた斬撃ですべてをなぎ倒すようなものだ。王に就任した後も、その公務にも性格が反映されており、各国からは牙王と称されている。
冒険者を引退した現在でも、兵士たちの訓練に時折現れては運動不足解消のために剣を振るっている。側近たちから護衛の数を減らして他に予算を回しましょう。王はご自分で身を守れるようですし、と嫌味を言われても豪快に笑って流している。
「さらに、この一通だけでなく他に二通の同様の手紙が送られてきております」
「一通では万が一があるということだろう。昔からあの男はそういう奴だからな」
「どう致しましょう?」
「……」
再び手紙に視線を戻す。
かつての冒険者仲間であり、現在でも友と呼べる数少ない人物。ハルバート・グランドール。お互いに親の跡を継ぎ、結婚して子供が出来ても時折盃を交わすような間柄だ。性格はお互いに正反対で、一直線なガルゼに対して冷静沈着に魔法て対処するようなタイプだった。言葉には出さなかったが、それぞれが持たぬものを相手に感じ取り、それが上手く回っていたと思っていた。
そんなハルバートから送られてきた緊急の手紙。公務を途中で切り上げて内容を確認した。
(疫病か……)
書かれている内容を吟味する。
旧ヴックヴェルフェン領で発生した疫病。その症状と、蔓延する可能性が高いこと。早急な封鎖処理が必要なこと。王としては打てる手を確実に打っていくしかない。
「規則通りに封鎖のための準備に入れ」
「承知いたしました。封鎖対象範囲はいかが致しましょう?」
「旧ヴックヴェルフェン領全てだ」
「はっ?」
王の言葉にも関わらず、男―宰相が聞き返した。
「聞こえなかったか? 宰相。旧ヴックヴェルフェン領全てだ」
過去の疫病発生時の封鎖範囲は、発生地点を中心として精々が周囲の村が十数程。しかし、ハルバートの手紙には領地すべてを対象とするように明記されている。かつてない範囲だ。当然、動かす軍の数もそれを維持するための兵糧も膨大なものとなる。宰相が困惑するのも当然だった。
「ハルバートの奴がそう感じているんだ。なんらかの勘が働いたんだろう」
「そ、そんな曖昧な……」
「昔もそっち関連ではあいつに何度も助けられたからな。今度も可能性は高い。なぁに、無駄だったら俺が責任取ればいい話だ。むろん、責任を追求できる肝の据わった奴がいれば、だがな?」
そんな人間が居るはずがない。宰相はそれ以上疑問を挟むこと無く、ガルゼに一礼して玉座の間を後にする。
残されたガルゼはしばらくすると立ち上がり、大きく背中を伸ばす。いつの間にか体に力が入っていたのか、思った以上に節々が固くなっていた。
「まだ俺との勝負に決着ついてないんだから、勝手に死ぬんじゃねーぞ」
小さく呟いた言葉。王ではなく、親友としてのソレは誰にも聞かれること無く消えていった。
◆
グランドール家にハルバートからの手紙が届けられたのは、王が手紙を受け取ってから数日後の事だった。ほぼ同時に手紙を送ったのだが、それぞれの地理的な差で生じた誤差だった。
早馬に跨った一人の男が屋敷の門前に辿り着き、見張りの者にハルバートの妻であるイリスへの面会を申し立てる。当然、事前の約束もない人間が会えるほど暇ではないイリス。門番は男の要求を断る。男の様子から何か非常に焦っているのは判るが、それで通しているようでは門番の意味がない。
しばらく押し問答が続いたが、それに終止符を打ったのは彼ら二人ではなく、偶然買い物帰りだった一人のメイドだった。まだ屋敷に来てから日が浅く、それ故に先輩たちから日々怒られながら仕事をこなしている娘だ。手に持った沢山の日用品を落とさないようにしながら、門の前で言い争う男二人を見て目を丸くした。
「あれ、あなたは……」
そして、門番ではない方の男の顔に見覚えがあった。思わずつぶやいた言葉に男二人の視線が集まる。
「あんた、彼のことを知っているのか?」
門番が聞いてきた。
「は、はい。以前、ハルバート様が隣領に行かれる際に、お供の中にいたのを見ました」
娘の言葉に門番は考える。恐らくは男は本当にハルバートの付き人だったのだろう。しかし、それを証言しているのは年若いメイドのみ。もし暗殺者ならば、仲間を事前にメイドとして屋敷に忍び込ませる位はするだろう。これが経験豊富でハルバートやイリスの信頼を得ているメイドなら話は異なるのだが。
「仕方ない、イリス様にお伺いを立てるから、少し待っているように」
結局、門番から侍従長へと話を通し、そこからイリスに確認をしてもらった。その結果、僅かながらに会う時間が許可された。
そして何故かメイドの娘がイリスの部屋まで案内をすることになった。持っていた荷物は近くの他のメイドに奪われるように持って行かれてしまった。門番も共にイリスの元へと向かっている。メイド、男、門番の順に進んでいき、奇妙な一行はイリスの部屋の前に辿り着いた。
「奥様……お客人をお連れいたしました」
ノックをして、取り敢えずはお客扱いとした。直ぐ様中から扉が開き、自分と同じ服装をしたメイドが出てきた。
「どうぞ。奥様が中でお待ちです」
導かれ、全員が部屋の中へと入る。最後の門番が入ると、扉が静かに閉められた。
部屋の中は正面に大きな執務机が置いてあり、こちらを見るようにして座っているイリスの姿。いつものように笑みを浮かべているが、何故か妙な重圧が感じられた。そのイリスを守るように左右に二人ずつ、合計四人のメイドが立っていた。彼女たちには表情は無く、鋭い視線が予定外の来訪者に注がれていた。案内したメイドの娘は心の中で怖くて泣いた。
「さて、私に何か御用とか。申し訳ないけど、主人の供と言われても顔を覚えているわけではないの」
困ったように頬に手を当てるイリス。恐らく、男の言い分を全く信用していない。もし、彼女がメイド達に排除を命じれば瞬く間に四人が襲い掛かってくるだろう。屋敷に入る際に徹底的に身体検査をされた男は丸腰で、隣領からひたすら飛ばして体力が落ちている現状では、恐らく直ぐに無力化されてしまうだろう。
「突然の訪問、お許し下さい。ハルバート様より手紙がございます。こちらを」
言いつつ、ゆっくりと胸元に収めていた手紙を取り出す。胸元に手を入れた瞬間、メイド達が臨戦態勢になったのであくまでもゆっくりと手を動かす。そして、取り出した手紙をメイドの一人に手渡した。
メイドは渡された手紙を念入りに確認し、危険がないことを確認してからイリスへと渡した。
「確かに、あの人からの手紙のようね」
「神に誓って」
「なら、なぜ門番にこれを見せなかったの? そうすれば話も早かったでしょうに」
「あっ……」
封蝋も本物。ならば、手紙だけを門番に渡せば直ぐに届けられただろう。男があまりに焦っていたので失念していた。
「まあ、良いわ。彼にお茶を入れてあげて」
ようやく警戒が解けたようで、イリスの言葉で部屋の緊張が消え去った。先程までの能面のような表情が信じられない程の、にこやかなメイドが即座に用意を始めた。男はメイド不信になりそうだった。
イリスはペーパーナイフで丁寧に封を切り、中に入っている便箋を取り出す。優雅で計算されたような動きの指先に思わず見とれた。しばらくの間、イリスが読み進めていく。時折、便箋をめくる音だけが部屋に響く。まるで自分の心臓の音が他の者に聞こえてしまうようだった。
「ふー。なるほどね。また主人が面倒に巻き込まれたようね。一応、確認するけど手紙に書かれている隣領で疫病が発生したということは本当かしら?」
門番とメイド娘がイリスの言葉に息を飲んだ。
「はい、事実のようです。私は直接は患者を見ていないのですが、他の者が確認し、ハルバート様もそれを事実と判断されました」
「そう」
イリスの脳内で手紙の内容が反復される。疫病の症状と、手紙を書いた時点での状況。さらには王に向けて手紙を既に出したということ。グランドール家の方針。そして、娘タリアについての指示。
「取り敢えず、貴方」
イリスにメイド娘が呼ばれた。
「は、はい!」
「タリアの部屋に言って、私の所に来るように言ってちょうだい。今すぐに」
「はい!」
問答無用の言葉に背中を伸ばし、一礼する。そして失礼のないように何とか部屋から退出した。正直、あの空間にこれ以上いると参ってしまう。
メイドとして躾けられた中で、限界の速さでタリアの部屋へと向かう。しかし、その速さもどんどん加速していく。遂には、はしたなく足音を立てて走っていた。イリスの口から語られた内容。隣領で疫病が発生したこと。メイド娘の親族や知人友人が隣領にいるわけではない。が、メイド娘が産まれたから疫病がこんなにも身近で発生したことはなかった。緊急時の中にある非日常の興奮が彼女の気を急がせた。
そして、タリアの部屋に辿り着き、ドアノブに手を掛けた瞬間。突然ドアが開き、勢い良く額から飛び込んでしまった。額が焼けるように痛む。それでも起き上がり、目的の人物を探す。
幸い、すぐ側に見つけることが出来た。部屋の主であるタリアは豪快な登場の仕方をしたメイドを見て、ポカンとしている。
「どうしたのですか?」
タリアの気遣うような優しい問い掛け。先程まで殺伐とした部屋に居たので、余計に心地よく感じる。
呼吸を落ち着け、はっきりと、噛まないように注意しながら言った。
「大変です! 隣領で疫病が発生したと知らせが来ました!」
タリアの瞳が不安に揺れ、しかしすぐに力あるものへと変わる。
「分かりました」
短い台詞。イリスから告げられた際には、タリアよりも大人な自分や門番の男でさえも、もっと動揺したというのに、この令嬢は一瞬で気を持ち直してしまった。メイド娘はこれが噂に名高いグランドール家の令嬢かと感心した。
「それで、イリス様よりタリア様をお部屋にお呼びするよう承りました」
「そうですか。では、アティ。すぐに支度を」
「はい、タリア様」
ここでようやくメイド娘はもう一人の存在に気が付いた。
自分の登場の仕方を思い出し、恐る恐る見る。そこにはタリアの支度を手早く進めながらも、器用にこちらを見る先輩メイドの姿。しかも、ただのメイドではない。タリア専属のメイドだ。階級で言えば二等兵と軍曹位の開きがある。その先輩が厳しい視線を送ってきている。
(お母さん、今日は家に帰ることができないかもしれません)
人間、追い詰められると笑うしかないと、初めて身を持って知ることが出来たメイド娘だった。




