第7話 八千の軍勢と裏切りの影
北西辺境領の朝は、いつもより静かだった。
領都ベルグの街路から人影が消え、商店の扉は固く閉ざされていた。広場には荷馬車が並び、老人や子どもたちが山間部の避難施設へ移動している。領民たちは不安を隠せなかったが、混乱は起きていなかった。
行政監察官レオン・グレイヴが、敵軍の侵攻に備えて避難計画を立てていたからだった。
「西区の住民、避難完了しました!」
「北区の食料備蓄、移送終了!」
「地下避難路の安全確認、完了!」
領主館には次々と報告が届いていた。
エリシア・フェルンは執務室の中央に立ち、地図を見ながら指示を出していた。
「負傷者と高齢者を優先してください。荷物は最小限に。家財道具は後で取り戻せますが、命は取り戻せません」
若い兵士が駆け込んできた。
「副官殿! 南東の監視所から報告です!」
「敵軍ですか」
「はい! 先鋒二千が山岳街道へ進入しました!」
エリシアは頷いた。
「予定どおりですね」
彼女は地図に赤い印をつけた。
王国軍五千。
神聖騎士団三千。
合計八千。
対する北西辺境領の常備兵力は三百四十人。訓練中の民兵を加えても五百人程度だった。
エルフ族から千人以上の援軍が派遣される予定だったが、まだ到着していない。
通常ならば、絶望的な戦力差である。
しかし、エリシアは不思議と落ち着いていた。
彼女はレオンを信じていた。
これまで、彼が不可能に見える戦いを何度も覆してきたことを知っている。
だが、その信頼は盲信ではなかった。彼女はレオンが不在の間に、万一防衛線が突破された場合の退却経路も用意していた。
勝利を信じることと、敗北に備えることは矛盾しない。
それが、レオンから学んだ軍師の考え方だった。
そのころ、領都から南へ二十キロメートルの街道では、神聖騎士団が進軍を続けていた。
先頭に立つのは第二聖騎士ヴェルナー。
黒い鎧をまとい、背中に四枚の翼を持つ男だった。
彼の周囲には、白銀の鎧をまとった神聖騎士たちが整然と並んでいる。
「敵の防衛線を確認しました」
副官が報告した。
「黒水川沿いに魔力障壁が展開されています」
ヴェルナーは無表情だった。
「障壁の強度は」
「通常の攻城魔法では突破困難と推定されます」
「問題ない」
ヴェルナーは剣を抜いた。
その刃から黒い炎が立ち上る。
「神々の力に抗える防壁など存在しない」
彼は剣を振り下ろした。
遠く離れた山の斜面が爆発した。
巨大な岩塊が崩れ、地面が激しく震える。
副官は息を呑んだ。
「素晴らしい威力です」
ヴェルナーは剣を収めた。
「進軍を続けろ」
しかし、その背後で、一人の神聖騎士が不安そうに空を見上げていた。
彼の名はハインツ。
神聖騎士団に所属して十年になる男だった。
これまで神々の命令を疑ったことはなかった。
しかし、今回の任務には違和感があった。
北西辺境領の住民をすべて排除せよ。
それが正式な命令だった。
兵士だけではない。
老人も、女性も、子どもも。
領地に存在する生命を残してはならないという。
ハインツは剣を握りしめた。
本当に、これが神々の望む正義なのだろうか。
彼は隣の騎士に小声で尋ねた。
「なあ、今回の命令をどう思う」
騎士は無表情で答えた。
「神々の命令は絶対だ」
「しかし、民間人まで……」
「異端者に加担する者は、すべて罪人だ」
ハインツは黙った。
神聖騎士団の中では、疑問を口にすること自体が危険だった。
その日の夕方、レオンたちは領都ベルグへ帰還した。
エリシアが門の前で出迎えた。
「お帰りなさいませ」
「状況は?」
「敵軍先鋒が山岳街道へ入りました。主力は明日の昼ごろ黒水川へ到達する見込みです」
「避難は?」
「八割が完了しました」
レオンは頷いた。
「よくやった」
エリシアは少しだけ微笑んだ。
「ありがとうございます」
その背後に立つアシュレイを見て、彼女は表情を引き締めた。
「この方が……」
「第一聖騎士アシュレイだ」
アシュレイは静かに頭を下げた。
「これまでの非礼を詫びる」
エリシアは戸惑った。
かつてレオンを処刑しようとしていた男が、今は味方として立っている。
しかし、レオンが連れてきた以上、彼女はその判断を尊重することにした。
「歓迎します」
アシュレイは頷いた。
「できる限り協力しよう」
その夜、領主館では緊急軍議が開かれた。
レオンは地図を広げた。
「敵の進軍経路は三つに分かれる」
彼は黒水川を指さした。
「中央街道から四千。南の丘陵地帯から二千。北の山道から二千」
ガルドが尋ねた。
「どうやって止めるんですか」
「三つの経路を、すべて黒水川の東岸へ誘導する」
ユリウスが眉をひそめた。
「敵を一か所に集めるのですか」
「そうだ」
「危険ではありませんか」
「敵が分散している方が危険だ」
レオンは続けた。
「こちらの兵力は少ない。三方向を同時に守ることはできない」
エリシアが頷いた。
「地形を利用して、敵の行動を制限するのですね」
「その通り」
レオンは新しい設計図を広げた。
そこには巨大な魔法陣が描かれていた。
「これは?」
アシュレイが尋ねた。
「神聖干渉遮断結界だ」
セレナが目を細めた。
「そんなものをつくったのか」
「古代研究所の資料を参考にした」
レオンは説明を始めた。
神聖騎士団の力は、神々との契約によって供給されている。
その接続を一時的に遮断すれば、騎士たちは神聖魔法を使えなくなる。
ただし、完全に無力化できるわけではない。
騎士自身の剣術や身体能力は残る。
「それでも、戦力差は大きく縮まる」
アシュレイが頷いた。
「理論上は可能だ」
「問題は魔力消費量だ」
レオンは続けた。
「八千人を覆うほどの広域結界を維持するには、膨大な魔力が必要になる」
セレナが笑った。
「地下鉱脈を使うのだろう」
「それだけでは足りない」
レオンはアシュレイを見た。
「神聖騎士の契約構造を調べたい」
アシュレイは頷いた。
「構わない」
レオンは彼の胸元に手をかざした。
《魔力構造解析》
《神格契約の残留構造を検出》
《接続方式:七重共鳴》
《遮断可能》
《必要魔力量:推定値の四十二パーセント》
レオンの目が輝いた。
「なるほど」
「何かわかったのか」
アシュレイが尋ねた。
「全員の神聖魔力を個別に遮断する必要はない」
レオンは答えた。
「神々との共通接続点を遮断すればいい」
セレナは笑った。
「つまり、一本の根を切れば枝がすべて枯れるということか」
「そうだ」
レオンは地図の中央に印をつけた。
「黒水川の東岸に結界の中心を設置する」
ガルドが尋ねた。
「敵が結界に入らなかったら?」
「入らざるを得ない状況をつくる」
レオンは静かに答えた。
「敵の目的は領都の破壊だ。最短経路を塞ぎ、進める道を一つに限定すれば、必ずそこへ来る」
軍議は深夜まで続いた。
その間、レオンは兵士たちの配置を細かく決めた。
弓兵は丘陵地帯。
魔法兵は黒水川沿い。
騎兵は領都の南側で待機。
エルフ族の援軍は北方から進入し、敵の退路を監視する。
そして、アシュレイとセレナには特別な任務を与えた。
「ヴェルナーを止めてほしい」
レオンが告げた。
アシュレイは頷いた。
「わかった」
セレナは微笑んだ。
「今度は兄妹で戦うわけか」
アシュレイは静かに答えた。
「千年前とは違う」
セレナの表情が柔らかくなった。
「そうだな」
しかし、そのころ、領都ベルグの地下では、別の計画が進行していた。
古い下水道。
そこを黒い外套の男が歩いていた。
男の名はラザル。
神殿が送り込んだ暗殺者だった。
彼の任務は、レオンを殺すことではない。
領都の地下に眠る古代支配核を奪うことだった。
ラザルは壁に刻まれた紋章を見つめた。
「ここか」
彼は懐から黒い結晶を取り出した。
《神格認証》
《侵入権限を確認》
古い石壁が音もなく開いた。
その奥には、巨大な地下通路が続いていた。
ラザルは微笑んだ。
「愚かな軍師だ」
彼は呟いた。
「外の敵ばかり気にして、内側の敵を見落としている」
しかし、彼は知らなかった。
その行動が、すでに監視されていることを。
領主館の地下研究室では、ドランが魔力監視装置を調整していた。
「監察官様」
彼は通信装置へ話しかけた。
「地下に不審な魔力反応があります」
レオンの声が返ってきた。
『位置は?』
「旧下水道の第三区画です」
『予定どおりだ』
ドランは驚いた。
「ご存じだったのですか」
『敵が内部から侵入する可能性は考えていた』
レオンは静かに答えた。
『そのために、古い通路を一部だけ開放しておいた』
ドランは目を丸くした。
「罠だったのですか」
『そうだ』
レオンは続けた。
『ただし、敵を殺すな。捕らえて情報を引き出す』
通信が切れた。
そのころ、ラザルは地下通路の奥へ進んでいた。
やがて、巨大な扉が現れた。
中央には古代文明の紋章。
ラザルは黒い結晶を扉へ押し当てた。
《認証開始》
《神格権限を確認》
《扉を開放》
巨大な扉がゆっくりと開いた。
ラザルは笑った。
「これで、支配核は神殿のものだ」
しかし、扉の向こうには何もなかった。
ただ、広い空間があるだけだった。
「……何?」
その瞬間、背後の扉が閉まった。
地面から青白い光が立ち上がる。
《拘束結界・起動》
ラザルの身体が動かなくなった。
「罠か!」
空間の奥から足音が響いた。
現れたのはレオンだった。
「ようこそ」
彼は静かに微笑んだ。
「ずいぶん遠くまで来たな」
ラザルは歯ぎしりした。
「貴様……」
「神殿の暗殺者だろう」
「答える義務はない」
「そうか」
レオンは椅子に腰を下ろした。
「では、こちらから質問する」
ラザルは睨みつけた。
「何も話さない」
「神殿は、なぜ古代支配核を欲しがっている」
「知らん」
「王都地下の古代兵器と関係があるのか」
ラザルの表情がわずかに変わった。
レオンは見逃さなかった。
「なるほど」
「何がだ」
「やはり、王都地下の兵器が目的か」
ラザルは黙った。
レオンは続けた。
「神殿は七つの精神収集装置を使い、古代兵器を起動しようとしている。しかし、起動には管理者権限が必要だ」
ラザルの顔色が変わった。
「なぜ、それを……」
「そして、その権限の一部が、この領地の古代支配核に存在する」
レオンは静かに答えた。
「違うか」
ラザルは唇を噛んだ。
レオンは確信した。
神々は単に世界を破壊しようとしているのではない。
古代文明の管理システムを奪い、世界そのものを書き換えようとしている。
「もう一つ聞こう」
レオンはラザルを見た。
「世界再編計画が成功した場合、人間はどうなる」
ラザルは笑った。
「救われる」
「どういう意味だ」
「争いも、苦しみも、飢えもなくなる」
「自由もなくなるのか」
ラザルは黙った。
レオンは続けた。
「神々に従うだけの存在になるということか」
ラザルは目を逸らした。
「それが幸福だ」
レオンは静かに答えた。
「幸福を決めるのは、本人だ」
ラザルは何も言わなかった。
そのとき、地下空間に警告音が響いた。
《緊急警告》
《神格認証装置に異常》
《外部からの遠隔干渉を検出》
レオンの表情が変わった。
ラザルの胸元に埋め込まれていた黒い結晶が赤く輝き始めた。
「何だ……?」
ラザル自身も驚いていた。
《自己消去命令を検出》
《対象:ラザル》
レオンは即座に動いた。
「動くな!」
彼はラザルの胸元へ手を伸ばした。
《魔力構造解析》
《神格接続遮断》
黒い結晶が砕け散った。
ラザルは床へ崩れ落ちた。
しかし、生きていた。
「なぜ……」
彼は震える声で尋ねた。
「なぜ助けた」
レオンは答えた。
「お前を殺す理由がない」
「俺は、お前の敵だぞ」
「今はな」
ラザルは呆然としていた。
レオンは続けた。
「神殿は、お前が捕まった瞬間に処分しようとした」
ラザルは震える手で胸を押さえた。
「そんな……」
「使い捨ての駒だったということだ」
長い沈黙が流れた。
やがて、ラザルは顔を上げた。
「……何を知りたい」
レオンは静かに答えた。
「神殿の内部構造だ」
ラザルは頷いた。
「わかった。話す」
その夜、レオンはラザルから重要な情報を得た。
神殿には七人の最高神官が存在すること。
それぞれが精神収集装置を管理していること。
そして、王都地下の古代兵器には、七つの鍵が必要であること。
「鍵?」
レオンが尋ねた。
ラザルは頷いた。
「七つの神格結晶だ」
「どこにある」
「各施設の管理者が持っている」
レオンは考え込んだ。
黒岩修道院。
世界樹。
すでに二つの施設を停止させている。
ならば、神格結晶も残されている可能性があった。
「なるほど」
彼は静かに呟いた。
「敵の計画を止めるには、残り五つの施設を制圧する必要がある」
ラザルは頷いた。
「だが、簡単ではない」
「なぜだ」
「残りの施設には、それぞれ神格級の守護者が配置されている」
レオンは目を細めた。
「神格級……」
「しかも、施設を一つ停止するたび、神々の警戒が強まる」
レオンは黙った。
敵は確実に強くなっていく。
しかし、退くわけにはいかなかった。
翌朝、敵軍八千が黒水川東岸へ到達した。
ヴェルナーは対岸の防衛線を見つめた。
そこには巨大な魔力障壁が展開されていた。
「小細工だ」
彼は剣を抜いた。
「全軍、攻撃準備」
神聖騎士団が一斉に魔力を高める。
空が白く輝いた。
その瞬間、黒水川の水面が青白く光り始めた。
《神聖干渉遮断結界・起動》
巨大な魔法陣が川の上に浮かび上がった。
ヴェルナーの表情が変わった。
「何だ、これは」
神聖騎士たちの身体から光が消え始めた。
「魔力が……」
「神聖魔法が使えない!」
騎士団に動揺が広がった。
ヴェルナーは剣を振り上げた。
しかし、黒い炎が現れない。
「馬鹿な……」
そのとき、対岸の丘にレオンが姿を現した。
「ようこそ、北西辺境領へ」
彼の声が魔法によって拡大された。
「武器を捨てて撤退するなら、追撃はしない」
ヴェルナーは怒りに震えた。
「レオン・グレイヴ!」
「これ以上、無意味な戦闘を続ける必要はない」
「黙れ!」
ヴェルナーは剣を掲げた。
「全軍、突撃!」
八千人の兵士が動き始めた。
しかし、その瞬間、地面が震えた。
黒水川の両岸から巨大な岩壁が立ち上がる。
敵軍の進路が次々と塞がれた。
さらに、川の水が逆流し、巨大な水の壁を形成した。
兵士たちは恐怖で立ち止まった。
レオンは静かに告げた。
「最後の警告だ」
ヴェルナーは歯ぎしりした。
「貴様ごときが……」
その瞬間、彼の背後に巨大な魔法陣が現れた。
赤い光が空へ伸びる。
《警告》
《第二聖騎士ヴェルナー》
《神格権限・強制解放》
《神聖干渉遮断結界を突破》
レオンの表情が変わった。
ヴェルナーの身体が黒い炎に包まれる。
四枚の翼が六枚へ増えた。
鎧が変形し、巨大な異形の姿へ変わっていく。
セレナが叫んだ。
「まずい!」
「何だ」
「あいつは、神々の力を直接受け入れた!」
アシュレイが剣を抜いた。
「神格融合か……」
ヴェルナーの声が変わった。
人間の声ではなかった。
『世界秩序の修正を開始する』
巨大な黒い剣が振り下ろされた。
黒水川の水が蒸発した。
魔力障壁が砕け散る。
兵士たちが悲鳴を上げた。
レオンは地面へ手を伸ばした。
《領域支配・最大起動》
《魔力防壁を再構築》
しかし、防壁は一瞬で破壊された。
《警告》
《敵性存在の出力が想定値を超過》
《勝率:零・三パーセント》
レオンは目を細めた。
「なるほど」
彼は静かに剣を抜いた。
「今度は、少し本気を出す必要がありそうだ」
セレナが叫んだ。
「無茶だ!」
「無茶かどうかは、やってみなければわからない」
レオンはアシュレイを見た。
「協力してくれ」
アシュレイは頷いた。
「もちろんだ」
セレナも黒い翼を広げた。
「仕方ないな」
三人が並んだ。
軍師レオン。
魔王セレナ。
第一聖騎士アシュレイ。
かつて敵同士だった三人が、同じ敵へ向かって剣を構えた。
ヴェルナーは巨大な翼を広げた。
『排除対象を確認』
その瞳が赤く輝いた。
『全員、消滅せよ』
黒い炎が空を覆った。
そして、北西辺境領の命運をかけた決戦が始まった。




