第15話 追放された軍師がつくった国(最終話)
北方山脈が崩れ始めたのは、夜明け前のことだった。
最初に異変を察知したのは、山麓で暮らす獣人族の狩人たちだった。地面が低く唸り、山の奥から赤い光が漏れ出していた。長年雪に覆われていた峰々が次々と割れ、その亀裂から黒い霧が噴き上がった。
森にいた魔物たちは、一斉に南へ逃げ始めた。
狼も、巨大な熊も、空を飛ぶ魔獣も、互いに争うことなく同じ方向へ走っていた。
彼らは何かを恐れていた。
山の内部から、巨大な足音が響いた。
一歩。
また一歩。
そのたびに大地が震え、岩盤が崩れ落ちた。
やがて、山の中央に巨大な穴が開いた。
そこから現れたのは、黒い鎧をまとった巨人だった。
身長は百メートルを超えていた。鎧の表面には古代文字が刻まれ、胸の中央には巨大な赤い結晶が埋め込まれている。頭部には角のような突起があり、両目は燃えるような赤色だった。
原初の魔王。
かつて神々が恐れ、古代文明が封印した存在。
その巨人は、山頂に立つと、ゆっくりと空を見上げた。
『長かった』
低い声が響いた。
『あまりにも、長かった』
彼は右手を伸ばした。
その瞬間、空に浮かんでいた世界管理機構の残存魔法陣が砕け散った。
『神々の支配は終わった』
巨人は静かに呟いた。
『ならば、世界を原初の姿へ戻そう』
黒い光が大陸全体へ広がり始めた。
そのころ、北西辺境領の中心都市ベルグでは、レオン・グレイヴが帰還したばかりだった。
城門の前には、多くの住民が集まっていた。
「領主様!」
「お帰りなさい!」
「世界を救ったって本当ですか!」
子どもたちが駆け寄ってきた。
レオンは馬を降り、笑顔で手を振った。
「ただいま」
しかし、彼の表情はすぐに引き締まった。
北方の空には巨大な赤い光が浮かんでいた。
ガルドが近づいてきた。
「レオン様、北方からの避難民が増えています」
「人数は?」
「現在、約二千人です」
「食料は?」
「一週間分なら確保できます」
レオンは頷いた。
「全員を受け入れろ」
ガルドは一礼した。
「承知しました」
エリシアが報告書を差し出した。
「北方の村々から、次々と救援要請が届いています」
レオンは目を通した。
「魔物の大移動か」
「はい」
「討伐はするな」
ガルドが驚いた。
「魔物をですか」
「ああ」
レオンは答えた。
「魔物も逃げているだけだ。人間の集落へ近づかないよう誘導しろ」
エリシアが頷いた。
「避難経路を分けます」
「それと、すべての村へ伝えろ」
レオンは北方の空を見上げた。
「今度は、領地だけの問題ではない」
彼は続けた。
「大陸全体で対処する」
ベルグの領主館では、緊急会議が開かれた。
出席したのは、エリシア、セレナ、アシュレイ、リーナ、ガルド、ユリウス、ドラン、オルフェン、ルシア、そして各種族の代表者たちだった。
巨大な地図の中央には、北方山脈が描かれていた。
レオンは全員を見渡した。
「まず、敵について知っていることを確認したい」
セレナが立ち上がった。
「原初の魔王については、千年前から伝説が残っている」
彼女は静かに続けた。
「だが、実際に姿を見た者はいない」
アシュレイが頷いた。
「神殿の記録では、世界を破壊する存在とされていた」
ルシアが口を開いた。
「それは、正確ではありません」
全員が彼女を見た。
ルシアは続けた。
「原初の魔王は、古代文明が製造した管理生命体です」
レオンは眉をひそめた。
「神々と同じか」
「構造は似ています」
ルシアは答えた。
「しかし、目的が違います」
「目的は?」
「すべての管理機構を破壊することです」
セレナが驚いた。
「管理機構を?」
ルシアは頷いた。
「はい」
「それなら、神々の支配を終わらせようとしている私たちと同じではないか」
「違います」
ルシアは首を振った。
「原初の魔王は、管理機構だけでなく、それによって維持されている魔力循環も破壊します」
レオンは考え込んだ。
「つまり、魔法そのものを消そうとしているのか」
「はい」
ルシアは静かに答えた。
「しかし、現在の世界では、多くの生命が魔力循環に依存しています」
リーナが息を呑んだ。
「世界樹も?」
「はい」
「エルフ族は?」
「影響を受けます」
セレナが尋ねた。
「魔族もか」
ルシアは頷いた。
「魔族の身体構造にも、魔力が深く関わっています」
会議室に沈黙が広がった。
原初の魔王が目的を達成すれば、神々の支配は完全に消える。
しかし、同時に多くの生命が死ぬ。
レオンは静かに尋ねた。
「なぜ、そんな存在をつくった」
ルシアは目を伏せた。
「古代文明は、管理生命体の暴走を恐れていました」
彼女は続けた。
「そのため、すべての管理機構を強制的に停止する最終兵器を製造したのです」
「それが、原初の魔王か」
「はい」
レオンは考え込んだ。
「だが、神々は自分たちが消えることを恐れ、封印した」
「その通りです」
レオンは頷いた。
「ならば、彼は本来、敵ではない」
ガルドが驚いた。
「しかし、世界を破壊しようとしているのですよ」
「ああ」
レオンは静かに答えた。
「だから、止める必要はある」
彼は続けた。
「ただし、殺すことだけが解決ではない」
そのとき、世界樹の少女が会議室に現れた。
緑色の光が集まり、小さな少女の姿になった。
「レオン」
彼女は静かに言った。
「お願いがあります」
レオンは少女を見た。
「何だ」
少女は目を伏せた。
「お父様を、殺さないでください」
会議室が静まり返った。
セレナが驚いた。
「お父様?」
少女は頷いた。
「はい」
レオンは静かに尋ねた。
「原初の魔王が、君の父親なのか」
「そうです」
少女は答えた。
「私たちは、同じ研究者によってつくられました」
レオンは考え込んだ。
「それなら、血のつながりではないな」
少女は頷いた。
「はい。でも、私に生命の意味を教えてくれたのは、あの人です」
彼女は静かに続けた。
「私は、世界の生命を守るためにつくられました」
「……」
「お父様は、私を守るためにつくられたのです」
レオンは黙った。
少女は続けた。
「神々が暴走したとき、お父様は管理機構を止めようとしました」
「それで、封印されたのか」
「はい」
少女の瞳に涙が浮かんだ。
「お父様は、世界を憎んでいるのではありません」
レオンは静かに尋ねた。
「では、なぜ今、世界を破壊しようとしている」
少女は首を振った。
「お父様は、古い命令を守ろうとしているのです」
レオンは頷いた。
「命令を書き換えればいいのか」
ルシアが首を振った。
「原初の魔王には、外部からの命令変更を受け付けない構造があります」
「ならば、本人に選んでもらう」
レオンは答えた。
少女が顔を上げた。
「選ぶ?」
「ああ」
レオンは静かに言った。
「管理機構を破壊する以外の方法を」
少女はしばらく黙っていた。
そして、微笑んだ。
「あなたなら、できるかもしれません」
レオンは頷いた。
「やってみよう」
そのとき、領主館の外から警鐘が響いた。
ガルドが窓へ駆け寄った。
「何だ!」
北方の空が黒く染まっていた。
巨大な魔法陣が出現し、その中心から黒い光がベルグへ向かって伸びていた。
ルシアが叫んだ。
「魔力循環の破壊波です!」
レオンは立ち上がった。
「防御結界を展開!」
ドランが通信装置を起動した。
「全魔力炉、緊急起動!」
ベルグの周囲に青い障壁が広がった。
黒い光が障壁へ衝突した。
激しい衝撃が街を揺らした。
家々の窓が割れ、地面に亀裂が走った。
住民たちが悲鳴を上げた。
「結界出力、低下!」
ドランが叫んだ。
「あと三十秒も持ちません!」
レオンは地図を見つめた。
黒い光は、魔力循環そのものを破壊する波だった。
通常の結界では防げない。
「ドラン」
レオンは尋ねた。
「結界の魔力を切断できるか」
ドランが驚いた。
「何ですと?」
「結界を維持する魔力を、一瞬だけ停止する」
「それでは防御できません!」
「防御する必要はない」
レオンは静かに答えた。
「破壊波は、魔力を持つものだけを攻撃している」
ドランは息を呑んだ。
「つまり……」
「魔力を持たない状態にすれば、通り抜ける」
ルシアが頷いた。
「理論上は可能です」
レオンは命じた。
「全魔力炉を一時停止!」
ドランは通信装置へ叫んだ。
「全炉停止!」
ベルグの障壁が消えた。
黒い光が街を通り抜けた。
しかし、建物は壊れなかった。
人々も無事だった。
黒い光は、魔力を持たない街を攻撃対象と認識しなかったのである。
数秒後、魔力炉が再起動した。
青い障壁が戻った。
ガルドは息を吐いた。
「助かった……」
レオンは頷いた。
「敵の攻撃には、必ず仕組みがある」
エリシアが微笑んだ。
「それを見抜くのが、軍師の仕事ですね」
「ああ」
しかし、ルシアは険しい表情をしていた。
「レオン」
「何だ」
「今の攻撃は、威力を抑えたものです」
「そうだろうな」
「原初の魔王が本気で魔力循環を破壊すれば、大陸全体が危険です」
レオンは頷いた。
「ならば、こちらから会いに行く」
セレナが驚いた。
「北方山脈へ?」
「ああ」
「軍勢は?」
「必要ない」
レオンは静かに答えた。
「戦争をしに行くわけではない」
エリシアが一歩前へ出た。
「私も行きます」
レオンは頷いた。
「頼む」
セレナが笑った。
「もちろん、私も行くぞ」
アシュレイも剣を構えた。
「私も同行しよう」
リーナが頷いた。
「世界樹のことなら、私にも関係があります」
ルシアも静かに言った。
「私が案内します」
レオンは全員を見渡した。
そして、微笑んだ。
「では、行こう」
北方山脈への道は、崩壊した岩と黒い霧に覆われていた。
一行は魔力防護装備を身につけ、山麓へ到達した。
周囲には魔物の姿がなかった。
すべて逃げ去った後だった。
巨大な足跡が地面に残されていた。
レオンは足跡を調べた。
「進行方向は南か」
ルシアが頷いた。
「はい」
「ベルグへ向かっているのか」
「おそらく」
レオンは考え込んだ。
「なぜ、わざわざ南へ向かう」
セレナが尋ねた。
「世界樹を狙っているのではないか」
「いや」
レオンは首を振った。
「世界樹は北東にある」
彼は地図を広げた。
巨大な足跡の進行方向。
古代魔力導管。
そして、ベルグの地下に存在する古代遺跡。
三つの位置が一直線に並んでいた。
レオンの表情が変わった。
「……そういうことか」
エリシアが尋ねた。
「何かわかりましたか」
「ああ」
レオンは静かに答えた。
「原初の魔王が狙っているのは、ベルグではない」
彼は地図を指さした。
「ベルグの地下にある古代支配核だ」
ルシアが息を呑んだ。
「まさか……」
レオンは頷いた。
「世界管理機構を完全に停止するための中枢装置が、あそこにある」
セレナが眉をひそめた。
「だが、古代支配核は壊れたはずだ」
「ああ」
レオンは答えた。
「だから、原初の魔王は修復しようとしている」
彼は続けた。
「そして、修復が完了すれば、世界中の魔力循環を一度に停止できる」
ルシアは青ざめた。
「その通りです」
レオンは静かに頷いた。
「ならば、急ぐ必要がある」
その瞬間、山の奥から巨大な声が響いた。
『人間よ』
一行は足を止めた。
『なぜ、ここへ来た』
黒い霧の向こうから、巨大な影が現れた。
原初の魔王だった。
百メートルを超える巨体が、ゆっくりと近づいてくる。
アシュレイが剣を抜いた。
セレナが黒い炎をまとった。
しかし、レオンは右手を上げた。
「待て」
二人は動きを止めた。
レオンは巨人を見上げた。
「話をしに来た」
原初の魔王は赤い瞳を向けた。
『話だと』
「ああ」
『人間が、私に何を語る』
レオンは静かに答えた。
「世界を壊さずに、神々の支配を終わらせる方法だ」
巨人は黙った。
『不可能だ』
「なぜだ」
『管理機構は、世界のあらゆる場所に組み込まれている』
「知っている」
『管理機構を残せば、再び支配が始まる』
レオンは頷いた。
「その危険はある」
『ならば、破壊するしかない』
「違う」
レオンは静かに答えた。
「管理機構を、人々の道具に戻せばいい」
原初の魔王は低く笑った。
『愚かな』
彼は続けた。
『人間は、力を持てば必ず支配しようとする』
レオンは頷いた。
「そうかもしれない」
『だから、私はすべてを消す』
「それでは、神々と同じだ」
巨人の赤い瞳が輝いた。
『何だと』
レオンは静かに続けた。
「神々は、人間を管理することで世界を守ろうとした」
『……』
「お前は、管理機構を破壊することで世界を守ろうとしている」
レオンは巨人を見上げた。
「だが、どちらも人々の意思を無視している」
原初の魔王は黙った。
レオンは続けた。
「世界をどうするかは、世界に生きる者たちが決めるべきだ」
巨人はしばらく沈黙した。
そして、静かに言った。
『人間は、何度も同じ過ちを繰り返した』
「ああ」
『戦争を起こし、自然を破壊し、互いを憎み合った』
「その通りだ」
『それでも、信じるのか』
レオンは頷いた。
「信じる」
原初の魔王は赤い瞳を細めた。
『なぜだ』
レオンは静かに答えた。
「人間は、間違いを認めることもできるからだ」
長い沈黙が流れた。
そのとき、世界樹の少女が現れた。
緑色の光が集まり、小さな少女の姿になった。
「お父様」
巨人の身体が動きを止めた。
『……お前か』
少女は頷いた。
「はい」
『まだ、生きていたのか』
「生きています」
少女は微笑んだ。
「たくさんの人に、守ってもらいました」
巨人は黙った。
少女は続けた。
「お父様」
『何だ』
「もう、私を守るために世界を壊さなくてもいいのです」
巨人の赤い瞳が揺れた。
『だが、管理機構は再び暴走する』
「そのときは、みんなで止めます」
『人間は信用できない』
少女は首を振った。
「私も、最初はそう思っていました」
彼女はレオンを見た。
「でも、この人たちは違いました」
原初の魔王はレオンを見下ろした。
『人間の軍師よ』
「何だ」
『お前は、世界を管理できるのか』
レオンは首を振った。
「できない」
巨人は驚いた。
『何?』
「一人で世界を管理することなど、誰にもできない」
レオンは静かに答えた。
「だから、権限を分ける」
『権限を?』
「ああ」
レオンは続けた。
「世界管理機構の機能を、地域ごとに分散する」
彼は地図を広げた。
「生命維持は世界樹と各地の生命共同体が担う。魔力循環は地域ごとの魔力炉で調整する。時間と空間の補正は、独立した監視機構が管理する」
原初の魔王は黙って聞いていた。
「そして、すべての管理情報を公開する」
レオンは続けた。
「誰かが権限を独占しようとすれば、他の地域が停止できる仕組みにする」
巨人は考え込んだ。
『それでも、暴走は起きる』
「ああ」
レオンは頷いた。
「だから、完全な仕組みだとは思っていない」
『ならば、なぜ』
「改善し続けられるからだ」
レオンは静かに答えた。
「間違いを認め、修正できる仕組みにする」
原初の魔王は長い間、沈黙していた。
やがて、低い声で言った。
『それを、誰が保証する』
レオンは答えた。
「誰も保証できない」
『……』
「だから、監視する者と監視される者を固定しない。権限には期限を設け、記録を残し、誰もが異議を申し立てられるようにする」
巨人は静かに呟いた。
『完全ではないな』
「ああ」
レオンは微笑んだ。
「人間のつくるものだからな」
そのとき、巨人の胸の赤い結晶が激しく輝いた。
《原初破壊機構》
《最終命令》
《世界管理機構の完全停止》
《実行まで、残り百八十秒》
ルシアが叫んだ。
「危険です!」
原初の魔王は自分の胸を見た。
『……始まったか』
レオンは眉をひそめた。
「何が起きている」
『私の意思とは無関係に、最終命令が実行される』
少女が叫んだ。
「お父様!」
巨人は静かに答えた。
『私には、止められない』
レオンは胸の結晶を見つめた。
赤い光が脈動している。
《実行まで、残り百五十秒》
セレナが叫んだ。
「レオン!」
レオンは頷いた。
「わかっている」
彼はルシアへ向き直った。
「最終命令を止める方法は?」
「原初破壊機構の中枢を切断するしかありません」
「場所は?」
「胸の結晶です」
アシュレイが剣を構えた。
「ならば、私が破壊する」
しかし、少女が叫んだ。
「駄目です!」
アシュレイは動きを止めた。
少女は続けた。
「結晶を破壊すれば、お父様も消えてしまいます!」
レオンは考え込んだ。
《残り百二十秒》
彼は巨人を見上げた。
「お前は、最終命令を止めたいか」
原初の魔王は静かに答えた。
『……止めたい』
「本当に?」
『ああ』
巨人は少女を見た。
『私は、もう一度、この子が生きる世界を見たい』
レオンは頷いた。
「ならば、協力してくれ」
『何をすればいい』
「中枢を破壊するのではなく、命令系統だけを切断する」
ルシアが驚いた。
「しかし、外部からは接続できません!」
レオンは頷いた。
「外部からはな」
彼は巨人を見上げた。
「お前自身が、内部から接続を開くんだ」
原初の魔王は黙った。
《残り九十秒》
レオンは続けた。
「お前は管理機構を破壊するためにつくられた。だから、管理機構からの命令を拒否できない」
『そうだ』
「だが、お前自身の生命維持機能は、最終命令とは別の系統にあるはずだ」
ルシアが顔を上げた。
「……確かに」
「その生命維持系統から、最終命令へ干渉する」
ルシアは考え込んだ。
「理論上は可能ですが、内部の認証が必要です」
レオンは巨人を見上げた。
「できるか」
原初の魔王は目を閉じた。
『試してみよう』
胸の赤い結晶が青く輝き始めた。
《内部認証》
《生命維持機能からの接続要求》
《拒否》
巨人は苦しそうに身体を震わせた。
『……駄目だ』
《残り六十秒》
レオンは考え込んだ。
なぜ拒否される。
生命維持機能と最終命令は別系統のはずだった。
そのとき、少女が静かに言った。
「お父様」
巨人が顔を上げた。
「私の認証を使ってください」
レオンは少女を見た。
「君の認証?」
少女は頷いた。
「私は、原初生命維持機構です」
ルシアが息を呑んだ。
「そうか……」
レオンも理解した。
世界樹の少女は、原初の魔王と同じ研究者によって製造された。
しかも、原初の魔王は彼女を守るためにつくられていた。
つまり、少女の生命維持認証は、原初の魔王の最上位保護命令と結びついている。
「いける」
レオンは静かに言った。
少女は巨人へ手を伸ばした。
「お父様」
『……』
「私を守ってください」
その瞬間、巨人の胸の結晶が緑色に輝いた。
《最上位保護命令》
《原初生命維持機構の保護》
《認証成功》
ルシアが叫んだ。
「接続できました!」
レオンは制御盤を起動した。
《最終命令系統を切断》
《進行率:二十パーセント》
《四十パーセント》
《六十パーセント》
しかし、赤い結晶が激しく震えた。
《残り十秒》
セレナが叫んだ。
「急げ!」
レオンは歯を食いしばった。
《進行率:八十パーセント》
《九十パーセント》
《残り三秒》
少女が叫んだ。
「お父様!」
《進行率:百パーセント》
《最終命令系統切断》
赤い光が消えた。
巨人の身体から黒い霧が抜けていく。
大地の震動が止まった。
北方の空が青く戻った。
原初の魔王は静かに膝をついた。
『……終わったのか』
レオンは頷いた。
「ああ」
少女が駆け寄った。
「お父様!」
巨人は巨大な手を差し出した。
少女はその手の上へ乗った。
『……すまなかった』
少女は首を振った。
「いいんです」
彼女は微笑んだ。
「これからは、一緒に世界を見ましょう」
巨人は静かに頷いた。
『ああ』
こうして、原初の魔王は世界を破壊する役割から解放された。
そして、世界管理機構の最後の強制命令も停止した。
それから半年が過ぎた。
アルヴェイン王国では、統治改革が進んでいた。
王国議会が正式に設置され、国王エドワード三世の権限は大幅に制限された。王国軍は議会の監督下へ置かれ、財政支出も公開されるようになった。
バルザック将軍は公開裁判にかけられた。
彼が行った精神干渉、暴動扇動、軍事費の横領、証拠の捏造などが次々と明らかになった。レオンを陥れようとした過去の工作も調査され、複数の将校が証言した。
バルザックは終身拘禁の判決を受けた。
レオンは裁判に一度だけ出席した。
バルザックは彼を見つめ、静かに言った。
「貴様は、勝ったつもりか」
レオンは答えた。
「勝ち負けの問題ではない」
バルザックは笑った。
「甘い男だ」
レオンは首を振った。
「お前が敗れたのは、私が強かったからではない」
「何?」
「お前が、誰も信じなかったからだ」
バルザックは黙った。
レオンは続けた。
「兵士も、市民も、部下も。お前にとっては利用する道具だった」
「……」
「だから、最後には誰もお前を守らなかった」
バルザックは顔を背けた。
レオンは静かに立ち去った。
復讐は終わっていた。
そもそも、復讐を果たすことが目的ではなかった。
彼が求めていたのは、誰も理不尽な命令によって命を奪われない世界だった。
一方、北西辺境領では、急速な発展が続いていた。
ベルグの人口は、最初の二千八百四十七人から一万二千人を超えていた。
新しい農地が開かれ、鉱山には安全な採掘設備が導入された。
魔力炉を利用した製粉所や鍛冶工房が建設され、道路も整備された。
学校では、人間、エルフ、魔族、獣人の子どもたちが同じ教室で学んでいた。
もちろん、問題がなくなったわけではなかった。
農地の所有権をめぐる争い。
商人同士の対立。
種族間の偏見。
移住者と古くからの住民の摩擦。
そうした問題は、毎日のように発生していた。
しかし、以前とは違っていた。
人々は話し合う場所を持っていた。
領民代表会議。
公開された裁判。
行政への異議申立制度。
そして、選挙によって選ばれる地域代表。
レオンは、それらの制度を少しずつ整えていった。
ある日の午後、領主館では会議が開かれていた。
オルフェンが報告書を読み上げていた。
「東部農地の灌漑工事は、予定より二週間遅れています」
レオンは頷いた。
「原因は?」
「資材不足です」
ドランが手を上げた。
「魔力炉の部品が足りません」
エリシアが別の報告書を開いた。
「南部の道路工事でも、同じ部品を使っています」
レオンは考え込んだ。
「ならば、優先順位を決めよう」
ガルドが尋ねた。
「軍事施設の整備は?」
「後回しだ」
「しかし、防衛上の問題が……」
「現在、周辺諸国との停戦協定が成立している」
レオンは答えた。
「今は農地と道路を優先する」
ガルドは頷いた。
「承知しました」
そのとき、セレナが窓から顔を出した。
「レオン!」
レオンは驚いた。
「扉から入れ」
セレナは笑った。
「急いでいたんだ」
「何があった」
「世界樹から知らせだ」
レオンは表情を引き締めた。
「異常か」
「いや」
セレナは首を振った。
「新しい森が生まれたらしい」
レオンは驚いた。
「新しい森?」
「ああ」
セレナは微笑んだ。
「原初の魔王が、荒廃した北方山脈を再生している」
レオンは頷いた。
「そうか」
原初の魔王は、破壊機構を失った後、世界樹の少女とともに北方の自然再生を始めていた。
巨大な身体を利用して崩壊した山を整え、河川を修復し、森林の再生を助けていた。
かつて世界を破壊するためにつくられた存在が、今は世界を修復している。
レオンは静かに笑った。
「役割は、変えられるものだな」
セレナも頷いた。
「ああ」
その日の夕方、レオンは一人で城壁の上へ登った。
ベルグの街並みが広がっていた。
かつて荒れ果てていた土地には、家々が建ち並び、街路には人々が行き交っている。
遠くには農地が広がり、風車が回っていた。
子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
レオンは静かに目を閉じた。
五年前。
いや、正確には、何度も繰り返された時間軸の中で、彼は王国のために戦っていた。
王国軍の軍師として、勝利を重ねた。
しかし、最後には裏切られ、処刑された。
そのとき、彼は思った。
もう二度と、誰かのために戦うものか。
だが、時間が戻り、辺境領へ追放されたことで、彼は別の世界を知った。
飢えた農民。
家を失った難民。
差別されてきた魔族。
森を奪われたエルフ。
命令に従うしかなかった兵士。
彼らは、誰かに支配されるために生きているのではなかった。
自分の人生を生きるために、そこにいた。
レオンは静かに呟いた。
「……ようやく、わかった気がする」
そのとき、背後から声が響いた。
「何がですか」
振り返ると、エリシアが立っていた。
「仕事は終わったのか」
「はい」
彼女は微笑んだ。
「今日の分は」
レオンは苦笑した。
「明日には、また増えるだろうな」
「間違いありません」
エリシアは隣へ立った。
二人は夕日に染まる街を見つめた。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、エリシアが尋ねた。
「レオン様」
「何だ」
「この国は、あなたが望んだ国になりましたか」
レオンは考え込んだ。
そして、首を振った。
「まだだ」
エリシアは驚いた。
「そうですか」
「ああ」
レオンは静かに答えた。
「問題は山ほどある」
彼は街を見渡した。
「貧しい者もいる。争いもある。間違った判断もする」
エリシアは頷いた。
「そうですね」
「だが」
レオンは微笑んだ。
「以前よりは、少しだけよくなった」
エリシアも微笑んだ。
「それなら、十分ではありませんか」
レオンは頷いた。
「ああ」
そのとき、エリシアが懐から小さな懐中時計を取り出した。
銀色の古い時計だった。
レオンは息を呑んだ。
「それは……」
「未来のあなたが持っていた時計です」
エリシアは答えた。
「ルシアが修復してくれました」
レオンは時計を受け取った。
蓋の裏には、小さな文字が刻まれていた。
《エリシアより、レオン様へ》
レオンは静かに見つめた。
七度の時間軸で、彼女は自分を守ろうとして死んだ。
そして、未来の自分は、その時計をずっと持ち続けていた。
エリシアが静かに言った。
「私、考えたんです」
レオンは顔を上げた。
「何を」
「未来は、決まっているのかもしれないって」
レオンは黙った。
エリシアは続けた。
「でも、あなたは何度も未来を変えようとしました」
「ああ」
「そして、今度は変えられた」
レオンは頷いた。
エリシアは微笑んだ。
「だから、私も自分の未来を選びたいんです」
レオンは彼女を見た。
「どんな未来だ」
エリシアは少し頬を赤くした。
「あなたの隣にいる未来です」
レオンは黙った。
エリシアは慌てて続けた。
「もちろん、副官としても、行政官としても、まだまだ仕事がありますし……」
レオンは笑った。
「わかっている」
エリシアは顔を上げた。
レオンは静かに言った。
「私も、同じ未来を選びたい」
エリシアの瞳が揺れた。
「本当ですか」
「ああ」
レオンは頷いた。
「ただし、一つ条件がある」
エリシアは緊張した。
「何でしょう」
「私が間違ったら、遠慮なく止めてくれ」
エリシアは少し驚いた。
そして、笑った。
「それなら、今までもずっとやっています」
レオンも笑った。
「ああ、そうだったな」
二人は並んで夕日を見つめた。
遠くから、子どもたちの声が聞こえてきた。
「領主様!」
レオンが城壁の下を見ると、数人の子どもたちが手を振っていた。
「明日の学校に来てくれる?」
レオンは微笑んだ。
「何の授業だ?」
「歴史!」
「歴史か」
「世界を救った話をして!」
レオンは少し考えた。
そして、答えた。
「わかった」
子どもたちは歓声を上げて走り去った。
エリシアが笑った。
「人気者ですね」
レオンは苦笑した。
「困ったものだ」
翌朝、レオンはベルグの学校を訪れた。
教室には、人間、エルフ、魔族、獣人の子どもたちが座っていた。
黒板には、大きな文字が書かれていた。
《世界を救った軍師》
レオンはそれを見て、少し困った顔をした。
「大げさだな」
教師が笑った。
「子どもたちが決めた題名です」
レオンは頷いた。
「そうか」
彼は教壇に立った。
子どもたちが一斉に手を上げた。
「どうやって神様に勝ったの?」
「魔王は怖かった?」
「一番強い魔法は何?」
「軍師って、何をする人?」
レオンは笑った。
「順番に答えよう」
最初に、小さな獣人の少年が尋ねた。
「軍師って、何をする人なの?」
レオンは少し考えた。
そして、静かに答えた。
「戦わずに済む方法を考える人だ」
少年は首をかしげた。
「戦争で戦う人じゃないの?」
「戦争になれば、戦うこともある」
レオンは答えた。
「だが、本当に優れた軍師は、戦争が始まる前に止める方法を考える」
子どもたちは黙って聞いていた。
別の少女が尋ねた。
「じゃあ、一番強い魔法は?」
レオンは微笑んだ。
「私は、魔法ではないと思う」
「ええ?」
子どもたちが驚いた。
レオンは続けた。
「誰かを信じることだ」
教室が静かになった。
「一人ではできないことも、力を合わせればできる」
彼は子どもたちを見渡した。
「ただし、誰かの言うことを何でも信じればいいわけではない」
少女が尋ねた。
「どういうこと?」
「自分で考えることだ」
レオンは静かに答えた。
「相手の話を聞いて、間違っていると思ったら、違うと言えること」
少年が手を上げた。
「領主様にも?」
レオンは笑った。
「もちろん」
「本当に?」
「ああ」
レオンは頷いた。
「私が間違っていたら、君たちが教えてくれ」
子どもたちは顔を見合わせた。
そして、一斉に笑った。
授業が終わると、レオンは校庭へ出た。
そこには、新しく植えられた一本の若木があった。
世界樹から分けられた苗木だった。
小さな緑色の葉が、風に揺れていた。
レオンはその木を見つめた。
かつて、世界は何度も滅びた。
七度の時間軸で、数えきれない命が失われた。
しかし、今は違う。
この木は、未来へ向かって成長している。
そして、その未来を誰か一人が決める必要はない。
その日の午後、ベルグでは新しい知らせが届いた。
王国議会が、北西辺境領の自治権を正式に承認したのである。
税制、司法、行政、軍事について、広範な自治が認められた。
ただし、王国との外交関係や共同防衛については、協定によって調整することになった。
レオンは書状を読み終えると、静かに頷いた。
「これで、ようやく形になったな」
エリシアが微笑んだ。
「はい」
ガルドが笑った。
「独立国みたいなものですね」
ユリウスが首を振った。
「正確には、高度な自治領です」
セレナが笑った。
「名前など、どうでもいいではないか」
レオンは頷いた。
「大事なのは、中身だ」
彼は書状を机へ置いた。
「この領地を、誰もが安心して暮らせる場所にする」
エリシアが頷いた。
「はい」
レオンは続けた。
「そして、いつか私がいなくなっても、同じように続いていく仕組みにする」
ガルドが驚いた。
「いなくなるなんて、縁起でもない」
レオンは笑った。
「人間は、いつか死ぬ」
彼は静かに言った。
「だからこそ、一人に依存しない国をつくるんだ」
全員が黙った。
やがて、オルフェンが微笑んだ。
「それが、レオン様の目指していた国なのですね」
「ああ」
レオンは頷いた。
「ようやく、始まったところだ」
その夜、ベルグでは小さな祭りが開かれた。
世界の危機を乗り越え、自治権が正式に認められたことを祝う祭りだった。
街路には灯りが並び、人々が歌い、踊っていた。
人間も、エルフも、魔族も、獣人も、同じ広場に集まっていた。
セレナは酒を飲みながら笑っていた。
アシュレイは子どもたちに剣術を教えていた。
リーナはエルフの歌を歌っていた。
ガルドは兵士たちと腕相撲をしていた。
ユリウスは祭りの警備計画を確認していた。
ドランは新しい魔力灯の説明をしていた。
ルシアは、人々の笑顔を不思議そうに見つめていた。
かつて神格管理者だった彼女は、今はただの一人の女性として、世界を学んでいた。
世界樹の少女も、子どもたちに囲まれていた。
遠く北方では、原初の魔王が新しい森を育てていた。
世界は、少しずつ変わり始めていた。
レオンは広場の端に立っていた。
エリシアが隣へ来た。
「レオン様」
「何だ」
「皆さんが呼んでいます」
レオンは広場を見た。
そこには、ベルグの人々が集まっていた。
「領主様!」
「こっちへ!」
「一緒に祝いましょう!」
レオンは少し困った顔をした。
「私は、こういう場所が苦手なんだが」
エリシアは笑った。
「知っています」
「ならば……」
「でも、今日は逃がしません」
彼女はレオンの手を取った。
レオンは驚いた。
「おい」
エリシアは微笑んだ。
「行きましょう」
レオンは小さくため息をついた。
そして、笑った。
「ああ」
二人は広場へ歩き始めた。
その背後には、かつて死者の領地と呼ばれた土地が広がっていた。
荒れ果てた農地。
枯れた川。
崩れた家々。
飢えた人々。
それらは、もう過去のものになりつつあった。
もちろん、これからも困難は続くだろう。
新しい争いも起きるかもしれない。
制度が間違うこともあるだろう。
それでも、レオンは恐れていなかった。
未来は、決まっていない。
誰か一人の力でつくるものでもない。
そこに生きる人々が、少しずつ選び、つくっていくものだった。
かつて王国から追放された軍師は、世界を支配する王にはならなかった。
神にもならなかった。
ただ、人々が自分の意思で生きられる国をつくった。
そして、その国には、まだ名前のない未来が広がっていた。
広場の中央で、子どもたちがレオンを囲んだ。
「領主様!」
「何だ」
「次は、何をするの?」
レオンは少し考えた。
そして、笑った。
「そうだな」
彼は夜空を見上げた。
星が輝いていた。
何度も滅びた世界。
何度も繰り返された時間。
そのすべてを越えて、今、確かに存在している未来。
レオンは静かに答えた。
「明日のことを考えよう」
子どもたちは笑った。
エリシアも微笑んだ。
祭りの音楽が響き、人々の歓声が夜空へ広がっていく。
世界は、まだ不完全だった。
だからこそ、未来には可能性があった。
そして、軍師レオン・グレイヴの本当の仕事は、これからも続いていく。
――完――




