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第8章 君はディアナでフォーマルハウト(2)

すみません、月初を過ぎてから仕事が忙しく、手直しの進みが芳しくありません。

手直しができているところまでで投稿します、度々申し訳ありません。

 俊也が思案する中、アンドリアの隣では「メルフィのレモンを使うことで、同じレモンリキュールでも風味が異なるのね。レシピも変えているのかしら」とテルツァが目を見張っている。視線の先には、彼女が手にしているカフェ用のゴブレットがあった。

 水で割ることによりレモンの香りと旨味、砂糖の甘みを適度に残しながらも、すっきりした味わいとなる。また、アルコール度数三十度のリキュールを水で割るため、度数が下がり飲みやすい。レモンリキュールは冷やしたストレートを食後酒(ディジェスティーヴォ)として飲むことが定番だが、テルツァのように割ることで食前酒(アペリティーヴォ)とする飲み方も人気である。

「レモンの果皮しか漬け込まれていないのにこれだけの風味。色合いも素敵だわ」

 脚(ステム)をつまみ、コーディアルグラスを回しながらアンドリアが言った。やや濁って不透明ながら、目を引く鮮やかな黄色がグラスの中で波打つ。メルフィのレモンリキュールがこのような色をしているのには理由があった。

 レモンは果皮の表面しか使わず、果汁を一切使用しない。高度数の蒸留酒に果皮を約四十日浸漬(しんし)した後(のち)取り出し、砂糖水(シロップ)を加えて更に約四十日寝かせるのがメルフィの伝統的なレシピだ。

 果皮の黄色い部分には〝油胞(ゆほう)〟と呼ばれる、色と香りの成分が詰まった小さな袋状の組織が無数にある。高濃度――九十六度等――のアルコールに皮を漬け込むと、アルコールがこの組織を溶かし、中の黄色い色素(フラボノイド)とリモネン等の精油を完全に吸い出す。この抽出が終わった段階では、液体はまだ〝透き通った濃い黄色〟にすぎない。

 この液体に砂糖水(シロップ)を加えた瞬間、一瞬で不透明なレモンイエローに変化する。これは〝ウーゾ効果(またはルーシュ効果)〟と呼ばれる現象だ。アルコールに溶けていた果皮の油分は油溶性のため、水が加わってアルコール度数が下がると、行き場を失った油分が目に見えないほど微細な水滴(ナノ粒子)となって液体中に分散する。無数の油の粒子が光を乱反射するために液体が白く濁り、美しく鮮明なイエローが完成するのだ。

 また、この〝乳化〟が起きることでレモンの爽やかな香りが揮発せずボトル内に閉じ込められ、口に含んだ瞬間に爆発するかの如(ごと)く広がる風味とレモンリキュール独特の味わいが生まれていた。

「給仕をありがとう、エンマ。あなたも掛けて飲むと良いわ、喉が渇いたでしょう」

 左側に控えるエンマへ振り向き、微笑み掛けるアンドリア。彼女は逡巡(しゅんじゅん)するが「今はここが私室(ブドワール)よ」と笑みを深めた。

「……かしこまりました。恐れ入ります」

 観念したエンマはキャビネットへ向かい、追加で取り出したゴブレットに水を注ぐ。コーディアルグラスをラウンドテーブルに置くとアンドリアは立ち上がり、彼女の許(もと)へ歩いていった。

「ワインもリキュールも要らなくて?」

「お仕事中に、お酒を口にするわけにはまいりませんから」

 心苦しそうに笑うエンマ。だがアンドリアは追加でコーディアルグラスを取り出しレモンリキュールを注ぐと、『清(すが)しき祓(はらい)の請願』でアルコールを除去して差し出した。なおも躊躇(ためら)う彼女に「わたくしの我儘(わがまま)に付き合うだけ、と思えば気が咎めることもないかしら。押し付けになっていないのであれば、一緒に楽しんでくれると嬉しいわ」とアンドリアが苦笑する。

「押し付けなど、とんでもないことでございます。お心遣いをいただき、ありがとうございます」

 恐縮しつつ、エンマはテーブル脇の椅子へ腰掛けコーディアルグラスに口を付けた。途端、ぱっと顔を輝かせこちらへ振り向く彼女に、アンドリアとテルツァは目を見交わし笑い合う。

「これでエンマも、この美味しさを分かち合った秘密の仲間ね」

 アンドリアの言葉に顔を赤らめるエンマだが、二人は笑顔を向けるばかりだ。

「せっかくだもの、この五年間を皆(みな)がどう過ごしていたのか知りたいわ。領地の様子も教えてくれるかしら」

「わたくしも、教育修道院(エドゥカンダート)での様子を聞かせてほしいわ」

 染まった頬を押さえつつ、エンマも頷(うなず)き同意を示す。

 そうして彼女達は離れていた時間を埋める話に花を咲かせていった。


 時計の分針が五十分を指す。エンマは静かに席を立つと、空(から)になったグラスを片付け始めた。応接室(サロン)が〝公〟の空間に戻った合図である。

「エンマ、主寝室(あちら)で待っているわ」

「かしこまりました、お嬢様」

 彼女に声を掛けアンドリアは主寝室へ入っていく。すぐにエンマも向かい、トワレットテーブルの前に座る主人へ化粧用のケープを掛けた。あぶらとり紙を肌に当てられるアンドリアへ、俊也が諦めの境地に達したような声を掛ける。

(それ、ホントならまだこっちに入ってきてない筈なんだけどな。君の記憶にもあるから薄々解ってたけど、なんかもうツッコんだら負けな気がするわ。俺まだお目覚め初日なんだけどね)

 俊也の世界において、あぶらとり紙は日本独自のものである。

 西洋では筆記後にインクを素早く乾かすための紙〝ブロッティングペーパー〟が、二十世紀初頭にあぶらとり紙と同じ用途で使われるようになった。日本のあぶらとり紙そのものが海外へ伝わり大流行したのは二〇〇〇年代に入ってからだと言われている。あぶらとり紙のルーツである〝箔打紙(はくうちがみ)(ふるや紙)〟が西洋に伝わったのは十九世紀後半だが、このときはまだ日本国内でも芸者や舞妓、歌舞伎役者といったごく一部の間でしか使われていない。全国的に普及したのは二十世紀初頭に入ってからである。一八二〇年時点の西洋では箔打紙(はくうちがみ)はおろか、使い方まで伝わっていよう筈もなかった。

 俊也はまたも〝地球世界の史実との相違〟に気味悪さを覚えるが、ひとまず意識の片隅へ追いやることにする。

 ――〝つっこんだら〟何故、何に負けるのかは解らないけれど、これは大八州国(おおやしまのくに)から入ってきたものよ。似たものはこちらの大陸にもあるけれど、比べ物にならないわ。大八州国(おおやしまのくに)の品(しな)は素晴らしいわね

 フェイスパウダーを薄くはたかれながらアンドリアが言葉を返した。その表情は淑女の微笑みを浮かべているが、続いて俊也が笑い混じりに発した一言に頬をひくりとさせる。

(ちな、俺のいた国がこっちで言う大八州国(おおやしまのくに))

 ――大八州国(おおやしまのくに)の人々は非常に礼儀正しいと聞いていてよ。それなのに、皆(みな)フディサキのような話し方をしていると言うの

(え、お貴族様にはちゃんと身分を弁(わきま)えた方が良かった?)

 ――わたくしの前世だと言う相手にそのようなものは求めていないわ、そもそもわたくし自身なのでしょう。そうではなくて、軽薄とも取れる貴方(あなた)の話し方から受けた印象との大きな乖離(かいり)に驚いているの

 崩れそうになる表情をどうにか固定しつつアンドリアは答える。二人がやり取りをしている間にリップバームが塗り直され、化粧直しは完了していた。

(じゃあ俺が大八州国(おおやしまのくに)に風評被害与えまくってんな、ウケる。ぶっちゃけ、こっちの人らは俺みたいなしゃべり方してないと思うから大丈夫じゃね)

 ――そうだと良いわね

 それだけを返すとアンドリアは立ち上がる。魔法でケープの浄化を済ませ応接室(サロン)に戻ると、既に身だしなみを整えたテルツァの姿があった。

 同じく戻ってきたエンマがチェストへ近付き、上に置かれた手袋を取る。晩餐にはディナードレスの着用を求められるため、合わせる手袋は肘上までの長さがあるエルボーグローブだ。シルクスパイダーの糸で織られたそれは、控えめな光沢を持つなめらかな白色をしていた。

 なおアンドリアのドレスは半袖だが、デビュー前の令嬢が肌を曝(さら)すことは許されていないため、半袖の上から透ける程に薄い強撚糸(きょうねんし)綿モスリンと袖口部分のみ透けないストレッチ綿モスリン――シルクスパイダーの糸と綿糸による芯紡糸(コアスパンヤーン)製だ――の異素材切り替えを施した長袖を重ねている。これにより、手袋を外しても肌の露出を抑えることが可能となっていた。

 アンドリアはエンマの手によってエルボーグローブ、ボンネットの順で身に着けていく。最後にエンマは、主寝室から持ってきていたものを両手に載せて差し出した。

「お嬢様、こちらをどうぞ」

「ええ、ありがとう」

 彼女の両手のひらには扇骨(モントゥール)に魔牛の骨、扇面(リーフ)に白色無地の綿モスリンを使った小ぶりな扇子が載せられている。トゥスクルム家の紋章を楕円形の枠に入れた意匠が彫られているのみで、それ以外に装飾はない。これはデビュー前の令嬢が持つ扇子にも厳格なルールが定められているためだ。

 アンドリアは侍女の手から扇子を受け取り、要(リベット)に取り付けられたリングから伸びる提げ紐へ手首を通した。髪飾りと同じ、淡いブルーのリボンが手首を彩る。

「そろそろかしらね」

 扇子を撫でながら彼女が呟(つぶや)いた。呼応するかのように前室(アンティカメラ)の向こうから三度、敲門(こうもん)の音が聞こえてくる。エンマはアンドリアに一礼すると前室(アンティカメラ)へ入っていった。

「サンドーロ様がお迎えに上がりました」

 現れたエンマに、ブルーノが回廊(キオストロ)側のドアから小さく顔を覗(のぞ)かせ訪問者を告げる。エンマは「お嬢様に取り次ぐわ」と頷(うなず)きを返し、応接室(サロン)にいる主人に取り次いだ。

「サンドーロ様がお迎えでございます」

「それでは行きましょうか」

 テルツァに声を掛け、アンドリアも前室(アンティカメラ)へと向かう。

 ここからはアンドリアにとってデビュタント前の通過儀礼〝家庭内での晩餐室デビュー〟の前哨戦であり、これまでの教育の成果を使用人から親族に至る、すべての大人達に見定められる場でもあった。彼女は何の緊張も強いられていないが、王侯貴族の子女にとって人生初の大いなる試練である。前日は一睡もできない上、当日に極度の緊張から嘔吐や過呼吸、貧血で倒れる者も少なくない。

 大貴族らしからぬ家風を受け継ぐトゥスクルム家においても、公私の使い分けは徹底されている。ゆえに〝公〟に属する晩餐室デビューも他家同様、あるいはそれ以上に厳格だ。にも拘(かか)わらず落ち着き払っているアンドリアが異様とも言えた。


 一続きの部屋(アパルトマン)のドアを開けると、そこにはヴァレンティーノが立っている。彼は一礼し、定型句とも言える賛辞を口にした。

「こんばんは、アンドリア。今宵(こよい)の君(・)は一段と素晴らしい」

「こんばんは、ヴァレンティーノ再従兄様(おにいさま)。お褒めいただきありがとうございます……随分似合わない台詞(せりふ)だこと。再従兄様(おにいさま)自身もそう思わなくて?」

 アンドリアの目が弧を描(えが)く。対照的にヴァレンティーノは渋面を浮かべていた。

「言われずとも解っている」

トゥスクルム騎士団で副団長を務めるこの男は、アンドリアと十五歳離れた再従兄(はとこ)でもある。護衛としての立場と実力に加え、保護者とエスコート役を兼ねることができる親族という理由から今回の随行員筆頭に選ばれていた。

「表情も声も隠す気がないのはよろしくなくてよ。わたくしのような小娘が言うのも生意気でしょうけれど」

「お(・)ま(・)え(・)が相変わらずのようで安心した」

 アンドリアの言葉を肯定したも同じの台詞(せりふ)であるが、再従兄(はとこ)は元来饒舌(じょうぜつ)ではない。片眉を上げてこそいるが眼や口許(くちもと)に負の感情はなく、むしろ面白がっている色が見えている。つまり二人のやり取りは単なる軽口に過ぎなかった。切り替えるための咳払いをすると、ヴァレンティーノは左腕を曲げて告げる。

「アンドリア、手を」

 背筋を伸ばしたまま軽く顎(あご)を引き、僅(わず)かに膝を落としてアンドリアが微笑む。略式の会釈の後(のち)、差し出された腕へ自らの手をそっと乗せた。

 歩き出したヴァレンティーノが纏(まと)っているのはミッドナイトブルーのメスジャケットだ。燕尾服のウエストシームから下半分を切り落としたような丈の短い上衣で、ピークドラペル仕様の左胸には縮小勲章(ミニチュアメダル)が横一列に並ぶ。袖口には、銀モール刺繍(シルバーワーク)で〝騎士の結び目(ヴィテーズケテーズ)〟と呼ばれる縫い取りが施されていた。基本構造である三つ葉(クローバー)状の結び目(ノット)を土台にした、騎士団内での役職を表すストライプ〝袖章(しゅうしょう)〟。そして肩にある、銀モールを編み込んだ肩章(けんしょう)の一種〝ショルダーノッチ〟。それらが魔石灯の光に照らされ煌(きら)めく。

 上衣と同色のトラウザーズには側章(そくしょう)である縦一本線が走り、黒色のカマーバンドと蝶ネクタイ(ボウタイ)には魔蚕から採れるマナシルクが用いられている。メスジャケットの隙間からは白色綿ブロードクロスで仕立てられたウイングカラーのイブニングシャツが覗(のぞ)き、銀糸の装飾とともにミッドナイトブルーとの鮮やかなコントラストを描(えが)き出していた。足元を飾るのは亜麻仁油(リンシードオイル)でエナメル(スマルト)加工された黒革のドレスブーツだ。彼が歩を進める度に艶(つや)やかな輝きを放つ。

 半歩後ろを歩くアンドリアは全身が淡色だった。

 首元が詰まった白色のディナードレスは、ダーツや切り替えを多用することにより立体的な仕立てが目を引く。身頃部分はウエストに向かってギャザーが扇状に寄せられ、首元とパフスリーブの半袖部分、スカートの裾には刺繍があしらわれていた。特に裾は、軽すぎる綿モスリンに重みを持たせるため同素材の生地を丸めて細い筒状にした飾り紐〝ルーロー〟を使用。同色でありながら立体感だけで繊細な美を生み出していた。

 踝(くるぶし)丈のスカートは円錐状に広がり、白い綿繻子織り(サテン)で仕立てたフラットシューズの上で柔らかく揺れる。

 髪飾りとウエストのリボンを彩る淡いブルー、瞳のライトブルー。そして腰まで伸ばされた亜麻色の金髪(フラクスンブロンド)。必要最低限の装身具しか身に着けておらず、色としての強さも輝きもないと言うのに、アンドリアの装いと存在感は、ヴァレンティーノに何一つ見劣りしていなかった。

 露(つゆ)払いとして最前を歩くのはブルーノ、アンドリア達の後方に続くのがテルツァとエンマだ。アントニオは彼等の後ろを固めて歩いていった。

実はこの章になるまで、登場人物のビジュアルを決めていませんでした。(自分の脳内で彼等の見た目がまったくイメージされなかった)

もしも「イメージと違う!」がありましたらすみません。

なおブルーノとタッデオの髪の毛だけは名前や苗字の時点で確定していました。

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【登場人物】

アンドリア

 └主人公。

  ランペドゥーザ公爵令嬢でトゥスクルム家長女。15歳。

  教育修道院(修道院の寄宿学校)を2年早く修了した。

  フルネームは「アンドリア・カロリーナ・トゥスクルム・ディ・ランペドゥーザ」。


藤崎峻也(ふじさきしゅんや)

 └アンドリアの前世の記憶であり人格。

  日本人の会社員だった。30代で死亡。

  アンドリアからはフディサキ・シュニアと呼ばれる。


テルツァ

 └トゥスクルム家のダーマ・ディ・コンパニーア(レディズ・コンパニオン)。

  ストルニウム前男爵未亡人。

  フルネームは「テルツァ・ガッロ・バロネッサ・ヴェドヴァ・ディ・ストルニウム」。


エンマ

 └トゥスクルム家のカメリエーラ・ディ・ペルソナーレ(レディズ・メイド)。

  フルネームは「エンマ・モンティ」。


アントニオ

 └トゥスクルム家の従僕(フットマン)。

  フルネームは「アントニオ・セルヴォ」。


ブルーノ

 └トゥスクルム家の従僕(フットマン)。

  フルネームは「ブルーノ・ラッケ」。


ヴァレンティーノ

 └トゥスクルム騎士団副団長。30歳。

  マデルラ伯爵サンドーロ家の次男。サンドーロ騎士爵でもある。

  トゥスクルム家傍系でアンドリアの再従兄(はとこ)。

  フルネームは「カヴァリエーレ・ヴァレンティーノ・サンドーロ・デイ・コンティ・ディ・マデルラ」。

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