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第7章 君はディアナでフォーマルハウト(1)

すみません、長くなったので分割しました…

後半は手直しが終わりしだい投稿します。

 湯浴みを済ませ、現在のアンドリアは主寝室に置かれたトワレットテーブルの前に座っていた。火属性低級魔法『優しき焔(ほむら)の請願』と風属性中級魔法『荒(すさ)ぶ風巻(しまき)の請願』を二重詠唱(デュアルキャスト)で発動し、温風に髪を遊ばせながら化粧水を顔へなじませる。この化粧水は安息香(ベンゾイン)チンキとローズウォーターから作られており、バニラに似た甘さとバラの華やかさが混じり合った芳香を室内に漂(ただよ)わせていた。

 次に彼女が手に取ったのは、世界最古の薬局でもある修道院製の白百合の(クレーマ・デ)クリーム(ィ・ジッリオ)だ。白百合の球根とアーモンドオイル、山羊乳から作られた濃厚なエマルジョンのため、少量を使いなじませる。髪に指を通し、乾いたことを確認したアンドリアは魔法を止めた。

 髪型にはルールがあり、デビュー前の令嬢はそのまま下ろすかハーフアップ、飾るのも派手ではないリボンか生花のみである。彼女はブラシで梳かしてからポマードを薄く付け、こめかみの後(おく)れ毛を残してゆるいハーフアップにする。飾りは淡いブルーの生地に同色の糸で繊細な刺繍が入ったリボンを使い、髪紐が隠れるように結んだ。

 続いて滑石(タルク)や亜鉛華、米粉がベースのフェイスパウダーを、白鳥の羽毛(スワンダウン)のパフで肌へ薄く乗せていく。唇にアーモンドオイルやローズウォーターを混ぜた無色のリップバームを塗り、ヘアメイクは完成である。

 デビュー前の令嬢は口紅やアイシャドウ等を付けることができず、素顔にしか見えない薄化粧のみが許されていた。肩に掛けていた化粧用のケープを脱ぎ、光属性中級の浄化魔法『清(すが)しき祓(はらい)の請願』で浄化する。

 本来ならばここからドレスを着付けていくのだが、アンドリアのドレスは一人で着用できる作りになっているため、後はスリッパから靴に履き替え、手袋と帽子を身に着けるだけの状態であった。テーブルに置かれた鏡で髪と化粧の仕上がりを確認し、立ち上がったアンドリアはふと思い出す。

(そう言えば、二人にはまだだったわね)

 姿勢を正した状態で馬車に一日中乗り続けることは体力を使う。座席の背にもたれた姿勢であっても四日は心身がすり減(へ)る程であるのに、テルツァとエンマはルーピエからスカレッラへ向かう道中にある山脈を踏破するため、急勾配(こうばい)の坂では男性達と同様に下車して歩いている。加えて魔物や山賊(ブリガンテ)の襲撃があった。非戦闘員ゆえ車内に隠れていても、彼女達が疲労していないわけではない。

 光属性低級魔法『健(すこ)やけき癒しの請願』を発動する。周囲を舞い散る魔力の残滓(ざんし)が消えてから、フットベンチで靴を履いた彼女は手袋と帽子を手にして寝室を後にした。


(お、準備終わったんだお疲れ。そっか、室内でも帽子被(かぶ)んなきゃなんないのか。教会の影響がでかいとは言え、貴族の作法ってまじでめんどいよな)

 応接室(サロン)へ戻り、防音の魔術(メイジクラフト)を解除したと同時に峻也が話し掛けてくる。アンドリアはチェストの上に帽子と手袋を置きながら応答した。

 ――ええ、終わったわ。その口ぶりだと、貴方(あなた)のいたところでは宮廷作法(プロトコル)がないの?

(いや、かなり緩和されたけど残ってるよ。ただ俺がいた国は立憲君主制で、象徴として帝(みかど)……こっちで言う皇帝陛下がいる。よその国には共和制だったり、絶対王政のとこもちょいちょいあるね。教会も大分(だいぶ)寛容になってるし)

 アンドリアは表に出さないものの、少なからず吃驚(きっきょう)した。この世界では教会の権力が削がれて久しいと言うのに、教義の影響を色濃く残している国や地域がまだ多い。諸国の中でも特に教会の影響が薄れた筈のエノトリアでさえ、他国との関係上宮廷作法(プロトコル)は大陸共通のものとして存在している。

 そして未来には多様な政治体制が共存しているという。魔法が存在しない世界ゆえかもしれないが、それでも。

 ――自由なのね。この世界も、同じ未来が訪れるのかしら

 今度は峻也が驚く番だった。彼女が衝撃を受けたことは峻也も解っているが、そのような感想が出るとは思わなかったのだ。貴族としての義務と責任を理解しているアンドリアは、柵(しがらみ)も当然のものと受け入れている筈であった。峻也が知るアンドリアの記憶や感情にも、彼女が不満を抱(いだ)いている様子はない。

(……もしかして、俺が共有できてるのって表層的な部分だけなんじゃないのか?)

 意識の中だけで呟(つぶや)いた。理由として思い当たるものはある。だが峻也はそこで思考を打ち切った。

(そう言やさ、今何時(なんじ)?)

 急な話題の転換を訝(いぶか)しみながらも、アンドリアは時計へ目を向ける。

(おっサンキュ、十九時過ぎか。じゃあさ、ついでに窓の外見せてよ)

 ――いいけれど、突然どうしたの

 内心で首をひねりながらも、厚い石壁に造られたアーチを抜けて開廊(ロッジア)へ出る。改装により取り付けられたフレンチウィンドウに近付きカーテンを開いた。木製の格子にはめ込まれているガラスは、製法ゆえに歪(ゆが)みがある。

(やっぱり。フロートガラスはまだないんだよなー、このガラスも味があっていいんだけどね)

 ――フロートガラス?

(均一な厚みで無色透明のでかい板ガラスだよ、厳密には薄い緑色なんだけど。この世界ならそのうちできると思うけどどうなんだろ。俺が介入して変なことになっても困るし、いやでもなー)

 峻也の言葉から考えるに、彼は歴史に差異があれど酷似した世界の未来に生きていた人間だ。歴史を改変することによる影響を懸念(けねん)しているのだろうとアンドリアは考えながら聞いていた。

(てなわけでさ。窓開けてほしいな)

 ――人使いが荒いのではなくて?

 眉根を寄せながらも律儀に窓を開けてやり、テラスへ出る。歪(ゆが)みの消えた鮮烈な景色に峻也が歓声を上げた。

(うおすっげぇ! 絶景じゃん!)

 魔石灯によるメルフィの夜景は、地球の都会のそれとは比べるべくもない。だが峻也は、存在しない筈の心の底から美しいと思った。

 アンドリアの視界の端に映る、街灯と窓から漏れる明かりが街の輪郭を仄(ほの)明るく浮かび上がらせている。今立っている場所が元は修道院であるからか、その光景が厳(おごそ)かであると感じられた。眼前に広がる海は満潮で、穏やかに波打つ東側の海面を光の帯(ムーンロード)が白く染め始めている。月は十日あまりの月と十三夜(じゅうさんや)の中間に見えた。

(んー、月齢(げつれい)十一ぐらいか? 明るいせいで星がちょい霞(かす)んでるけど、空気がきれいだからそれでもよく見えるな)

 南に面したテラスの正面に立つアンドリアの頭上近くでは、夏の大三角が輝いている。

(ごめん、左上向いてもらってもいい?)

 ――フディサキ、人使いが荒くてよ

 ぼやきはするが言われた通りに見上げた彼女へ、峻也が声を弾ませながら言った。

(ははっ、ベガとアルタイルとデネブがこっちでも見えると思ってなかった。東側にはペガススの大四辺形も昇ってきてる。裸眼でこんだけ見えてんのすげーな)

 思わず笑みをこぼしてアンドリアは尋ねる。

 ――わたくしの二倍も年上とは思えないはしゃぎようね。星が好きなのかしら

(ん、まーね。天体関係は好きかも)

 領地にいた頃も教育修道院(エドゥカンダート)在籍中も、アンドリアに星空を眺める時間は存在していなかった。ほんの僅(わず)かだけ、彼を羨ましいと思う。

 幸い気付かれることはなかったようで、彼は「まだこの時間じゃ見えないかー」と言いながら何かを探している。すぐに見付けたらしく、アンドリアに呼び掛けた。

(あとさ。今は出てきてないんだけど、テラスから見て、正面すぐ左の水平線のとこ。南の一つ星が出てくるから。あれ、君がディナーから帰ってくる頃にはいい感じに昇ってるよ)

 ――そうなのね、楽しみにしておくわ。そろそろ戻りましょう

 アンドリアは心の漣(さざなみ)を気取(けど)らせることのないままに、開廊(ロッジア)へと踵(きびす)を返した。


 応接室(サロン)へ戻ってきたアンドリアは、控えの部屋に繋がるドアの簡素な掛け金(ラッチ)を外す。ドアを開けると、そこには何とも言えない顔をしたテルツァとエンマの姿があった。

「あら、二人ともそんな顔をしてどうしたの」

「お嬢様、先程の魔法――」

 感謝を伝えようとテルツァが話し始めるが、唇の前にアンドリアが人差し指を近付けたため続きを呑み込む。

「顔色が良くなったみたいね。少しでも休めたのならば良かったわ」

 テルツァの顔を覗(のぞ)き込むアンドリアは、その顔立ちも相まって仔猫を思わせる表情をしていた。

(そう、お嬢様はこういう人だった。敵(かな)わないわね)

 降参とばかりに困った笑みを浮かべるテルツァ達。アンドリアの目も満足げに細められた。

「晩餐の時間まではまだあるから、応接室(こちら)で待っていましょう。問題ないとは思うけれど、念のためわたくしの身なりを確認してほしいの」

「かしこまりました、お嬢様」

 エンマの応(いら)えを合図に、三人は応接室(サロン)に移動していく。ラウンドテーブルの前まで来ると、アンドリアはドレスの裾を翻(ひるがえ)しながら振り向いた。

「それで、どうかしら」

「失礼いたします」

 問われたエンマは静かに近付き、ドレスの寸法や形、丈がアンドリアの身に沿っているかを確かめていく。その眼はいつになく鋭い。

 カスタムメイドの服は本来ならば仮縫いを数回行ない、その後に本縫製と仕上げを経て完成する。そのため今回のように仮縫いが行なえない場合、寸法よりやや大きめに仕立てられているか、身頃に編み上げリボンを意匠として組み込んであることが多い。着用時に編み上げを調節したり、内側をピンで留める等の微調整を行なう必要があった。

 だが一見すると綿モスリン製のこのドレスには、魔蜘蛛の一種シルクスパイダーの糸と綿を組み合わせた弾性繊維で織られた生地が使用されている。綿モスリンの風合いはそのままに、全方向への高い伸縮性と絹以上の吸湿性や放湿性、保温性を備えた高機能の生地だ。そのため寸法通り且つ仮縫いなしで仕立てられていながら、一切の手直しが不要となっている。

 ドレスの首元から裾まで、そして髪の結い上げと化粧、長靴下(ストッキング)や靴に至るまで、全ての確認を終えたエンマは「完璧でございます」と告げた。テルツァもにこやかに頷(うなず)いている。

「それは良かったわ。相変わらず技術師団と御用達の職人達が張り切りすぎていて困るけれど」

 弾性繊維とそれを用いた生地は、専属の技術者と研究者、職人や医療者で構成された組織である『トゥスクルム技術師団』によって開発された。苦笑するアンドリアの視界を通して手首辺りの袖を見た峻也が、呆れた声を出す。

(知ってる? ストレッチ素材が実用化されたのって一九六〇年代だぞ。これ、ポリエステルじゃなくて本物の綿っぽいから弾性繊維だろ。勿論芯紡糸(コアスパンヤーン)も同じ時期。この世界どんだけバグってんだよ、君んとこのお抱え集団やべーわ)

 ――貴方(あなた)が何を言っているのか、半分しか理解できなかったわ。わたくしが領地を出る直前に伸縮性を持つ糸の基礎技術が確立されただけで、このように生地の段階まで実用化されたのはこの五年以内ね

(そもそも基礎技術から五年以内で実用化も充分おかしいんだよなあぁぁぁ)

 なお新技術というものは基礎技術の確立の次に応用研究と開発研究のフェーズがあり、それらを経て製品化し、実用化の後(のち)商用化というのが一般的な流れである。共有しているアンドリアの知識によれば〝芯紡糸(コアスパンヤーン)と伸縮性のある織物はこの世界にそれまで存在せず、全くの新素材を開発した〟ということだ。シルクスパイダーの糸も綿も既存の素材ではあるが、それでも五年以内で実用化に至っているのは極めて異例である。体があれば頭を抱えているであろう峻也の喚(わめ)きは然(さ)もありなんだった。

 そんな彼をひとまず放置し、彼女は壁際のソファに腰掛けると二人に告げた。

「時間までは楽にしましょう」

「ではお言葉に甘えるわね」

 アンドリアが許しを出したことで応接室(サロン)は〝公〟から〝私〟の空間へと変わる。アンドリアの横にテルツァも腰を下ろした。

 エンマはキャビネットからレモンリキュールとワインのボトル、カラフェやグラスを取り出している。カラフェの中にはレモンの薄切りと水が入っていた。

「お嬢様、ガッロ夫人(シニョーラ・ガッロ)。お飲み物は如何(いかが)なさいますか」

「わたくしはリキュールをそのままいただくわ」

 アンドリアの返答に顔をしかめたのがテルツァだ。「リキュールなんて駄目よ」と語気を強めて言うが、「わたくしは酒精(アルコール)を口にしなくてよ、見ていれば判るわ」と笑って取り合わない。エンマも困惑を顔に浮かべているものの、テルツァが諫(いさ)めている以上便乗は憚(はばか)られる。テルツァは未だ残る疑心を乗せた眼でアンドリアを見据えたままエンマに告げた。

「本当に問題ないのでしょうね? ……エンマ、わたくしにはリキュールの水割りをお願い」

「わたくし、素直にお行儀良く育ってきた方だと思うのだけれど……信用は別物なのかしら」

 小首をかしげるアンドリアに、テルツァは「自分で言うのはどうかと思うわよ」と疲れた声を返すに留めた。

 それぞれの希望を聞いたことで「かしこまりました」と答えたエンマが手早くストレートと水割りを作る。銀製のトレイにグラスが載せられたとき、アンドリアは隣の話し相手へ尋ねた。

「冷やさない方が良いかしら?」

「そうやって何にでも魔法を使えるのはあなたぐらいのものよ。酒精(アルコール)も魔法で消してしまうと言うのでしょう……では、お言葉に甘えて冷やしてもらえる?」

 呆れ顔で答えるテルツァに「そうかしら。けれど使えるものを使わずにおくよりは良いと思うわ」と返し、二つのグラスに完全無詠唱(ネームレススペル)で水属性中級魔法『冱(い)てる静寂(しじま)の請願』を、自分のグラスにのみ二重詠唱(デュアルキャスト)で『清(すが)しき祓(はらい)の請願』を発動する。

 氷青(ひょうせい)色と白銀に輝く光の粒がグラスの周囲に散ったことで、トレイを運ぶエンマの目が軽く見開かれた。それでも公爵家の使用人だけあり、彼女は粛然とした所作(しょさ)へと戻り主人の左側に立つ。差し出されたグラスをそれぞれ受け取り、アンドリアとテルツァは口を付けた。

 口に含むとレモンの果皮による芳醇(ほうじゅん)な香りと濃厚な甘み、後から上品で爽やかな苦味が追い掛けてくる。

(うっま……! これやばいな、いくらでもいけそうで怖い。てか、さっき浄化でアルコールだけ飛ばしたのか。汎用性高すぎじゃね?)

 ――フディサキは酒精(アルコール)が入っていた方が良かったかしらね

 感覚を共有しているので当然ではあるのだが、俊也も同時にレモンリキュールを味わっていることは改めて不思議だとアンドリアは感じる。

(いや? 十六歳未満は度数の高い酒だめじゃん。まあ俺からしたら二十歳(はたち)までワインもビールもだめだろって感じだけど。なんなら酒って何歳だろうが良くないからな)

 人間の脳の、前頭前野を含めた基本的な発育が完了するのは二十五歳から三十歳頃であるが、それ以降も学習や経験、生活習慣によって脳の変化や成長は生涯続くことが俊也の世界の研究で判明している。肝機能など他の臓器も二十歳(はたち)頃までは未完成だ。また成人以降も脳だけではなく生殖器への影響があり、肝臓や口腔をはじめ多くの部位でがんの危険性が上昇する。

 ――エノトリア(このくに)の最低飲酒年齢と異なる数字には根拠がありそうね。貴方(あなた)からはまだまだ知らないことを聞けそうだわ

 最低飲酒年齢が法で定められている理由は健康への影響以外にも複数あるが、その中の一つは〝成人あるいは一定の年齢に達した以上は自己責任であり、個人の自由を尊重する〟というものだ。エノトリア王国において、成人年齢は二十一歳だが最低飲酒年齢がアルコール度数によって段階的に定められているのはそのためである。

(ただ、史実ならこの時代に段階的だろうと最低飲酒年齢は法律で決まってないんだよな。そもそも〝飲酒した本人に対する罰則〟自体がないから〝酒類提供販売可能年齢〟だし。ここでも歴史がねじれてんな)

 意識上の会話の裏で、峻也は冷静に思考していた。

【登場人物】

アンドリア

 └主人公。

  ランペドゥーザ公爵令嬢でトゥスクルム家長女。15歳。

  教育修道院(修道院の寄宿学校)を2年早く修了した。

  フルネームは「アンドリア・カロリーナ・トゥスクルム・ディ・ランペドゥーザ」。


藤崎峻也(ふじさきしゅんや)

 └アンドリアの前世の記憶であり人格。

  日本人の会社員だった。30代で死亡。

  アンドリアからはフディサキ・シュニアと呼ばれる。


テルツァ

 └トゥスクルム家のダーマ・ディ・コンパニーア(レディズ・コンパニオン)。

  ストルニウム前男爵未亡人。

  フルネームは「テルツァ・ガッロ・バロネッサ・ヴェドヴァ・ディ・ストルニウム」。


エンマ

 └トゥスクルム家のカメリエーラ・ディ・ペルソナーレ(レディズ・メイド)。

  フルネームは「エンマ・モンティ」。

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