第5章 シュレーディンガーの人
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【読者の皆様へ】
本話には、史実における世界大戦やホロコースト等の歴史的出来事に関する言及が含まれます。
作中の設定・演出上の表現であり、特定の思想や歴史的事件を批判・擁護する意図は一切ございません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ホテル・ルナ・クレシェンテ・コンヴェントは家族経営で、フランチェスコの家族とメルフィに住む者達が従業員を務めている。また、歴史ある修道院の面影を残した厳かな空間と、南部特有の素朴で陽気、且つ行き届いた〝家族のようなもてなし〟を宿泊客へ提供することが彼等の流儀だ。貴人や知識人、芸術家といったそうそうたる顔ぶれが利用するホテルとしては異色とも言えるが、だからこそ彼等の支持を受け愛されている場所でもある。フランチェスコが従業員やメルフィに関することを褒められれば素直に喜びを表すのも、そのような理由があった。
「それでは紅茶が冷めてしまう前に、チェックインを済ませてしまおうかしら」
「恐れ入ります」
そうしてアンドリアは宿泊者名簿への記入など、チェックインに必要な手続きを進めていった。
鍵の受け取りも無事に終わり、フランチェスコと給仕係が退室していく。
「お嬢様、わたくしも一度失礼いたします」
テルツァも退室の旨を告げ一礼するが、アンドリアは彼女を引き留めた。
「待ってテルツァ、荷ほどきや身づくろいに人手が足りないのではなくて?」
レディズ・コンパニオンという職業はやや特殊で、なり手は主に没落した貴族家か中産階級の女性だ。彼女達は雇われているものの〝対等な話し相手や友人〟が建前であり、使用人ではない。そのため使用人からは一定の敬意を払われ、ハウスメイドや下働きの女中に最低限の世話をされている。だが入浴や着替え、化粧や髪結いは自力で行なわなければならない立場であった。
そしてレディズ・メイドは〝専属侍女長〟や〝高級侍女〟に当たり、エンマはアンドリア専属だ。アンドリア以外の誰の下にも就くことはない存在である。だがアンドリアがエンマへ視線を送ると、意図を汲んだ彼女は一礼して応えを返した。
「かしこまりました、お嬢様。喜んでガッロ夫人のお手伝いをさせていただきます」
これに眉をひそめたのはテルツァだ。「いけませんお嬢様、エンマに領分を侵すことをさせてはならぬとご存じでしょう」と硬い声で諫めるものの、アンドリアは素知らぬ顔で答えた。
「あら、わたくしがこれまでに学んできた成果を見せる良い機会ではないの」
彼女はランペドゥーザ領と聖カタルド教育修道院で王妃教育に相当するものや帝王学に始まり、使用人の業務から夜営、遭難や災害時の生存技術といった内容まですべて修めている。傅かれる立場ではあるが、自分のことはすべて自らの手で完璧にこなせるだけの知識と技量の持ち主でもあった。だがテルツァにしてみれば――彼女に限ったことではないが――作法や規則といったものを蔑ろにしても良いということにはならない。厳しい声で彼女は訴えた。
「公爵家の秩序を乱してはなりません、エンマにも矜持がございます。そしてわたくしのことは、わたくし自身が行ないます」
「知っているわ、けれどわたくしは合理的である方が好きよ。問答の時間が無駄ね、二人とも出ていってちょうだい」
テルツァの言葉を受け流し言い放つアンドリアの顔と声は、淑女の微笑みから温度のないものへ差し替わっている。
「お嬢様」
「聞こえなかったのかしら、二度も言わせないで」
言い縋るテルツァの肩を優しく抱き、アンドリアはエンマが開いているドアの向こうへ連れ出した。前室に入り廊下側のドアを開けると、そこには騎士達の荷物を運び終えたブルーノが控えている。視界の端でアンドリアがこちらを見たことを察知した彼は、主人へ向き直り静かに会釈した。
「ブルーノ、テルツァがエンマを追い出さないように彼女の部屋も見ていてちょうだい。アントニオが戻ってきたら、交代で悪いけれど晩餐に備えておいて」
視線を下げてアンドリアの言葉を聞き終えると、会釈し一瞬だけ目を合わせる。ブルーノは視線を再び下へ落とし「承知いたしました。温かいお気遣いをいただき、深く感謝申し上げます」と答え一礼した。
閉められたドアの前で、テルツァは置いていかれた迷子の顔をして立ち尽くしている。廊下に人気がないことを確認したエンマが労しげな微笑みを浮かべて声を掛けた。
「ガッロ夫人、お気を落とされないでくださいませ。さあ、参りましょう」
「……ええ」
疲れた面持ちのテルツァを誘い、エンマは彼女を部屋へと連れていく。レディズ・コンパニオンであるテルツァには一続きの部屋ではない、小さめの隣室があてがわれていた。
ドアを施錠したアンドリアは身に着けていた淡茶色の仔山羊革――ただし魔山羊の幼体である――製の手袋を外してグローブボックスに入れ、ボンネットをヴェールごと、外套も手早く脱いでホールスタンドへ掛けてから応接室に戻る。ここからは晩餐に向けた身づくろいの時間であるのだが、彼女にはやることがあった。防音の魔術を発動し峻也へ呼び掛ける。
「フディサキ、聞こえていて?」
(おー、荒れてんね。偽悪的なお嬢様は自己嫌悪で八つ当たりしたい感じ?)
やはり内心の状態は筒抜けであった。面白がる様子を隠しもしない峻也の声音に、舌打ちしたくなる衝動を宥めながら答える。
「八つ当たりなどしないわ。それよりも訊きたいことがあるの」
(テルツァに一人で全部やらせたら、年齢的にもしんどいだろうしちょっとでも休んでほしいからってことっしょ? 普通に言えばいいじゃん)
アンドリアは彼の言葉をないものとして続けた。(スルーすんのも八つ当たりじゃね?)と考えつつも峻也は黙っておくことにする。
「貴方はわたくしの記憶や感覚を共有されていると言ったわね」
(あ、着替え中のこととかも俺が知ってるかどうかって話? ……あー、これ、言っても信じてくれんのかな)
本題を切り出す前に、アンドリアの思考も把握している峻也が先んじて尋ねてくる。だが肝心の答えの段になって彼は言い淀んだ。
「信じるかどうかはわたくしが決めることよ。答えなさい」
(まあ言うだけ言うわ。何かさ、君が見せたくない、見られたくないって思うことは俺に共有されてないっぽいんだよね)
アンドリアは目を瞬かせる。「そのような都合の良いことがあって?」と尋ねずにいられなかった。
(〝そのまま共有されてる〟とは言ったけどさ、〝全部〟じゃないんだよ。ちょいちょい記憶や感覚に欠けてるとこあって、そういや着替えとかのプライバシーに関する系は全然記憶にねーなあって)
「プライバシー……」
おうむ返しで呟かれたアンドリアの言葉に峻也は慌てた。
(ああごめん。俺ら普通にコトバ通じてるけど、翻訳が完璧ってわけでもないっぽいなこれ……えっと、〝他人にむやみに知られたくない私的な事柄や感情〟とかを指す言葉なんだけど解る?)
「ええ。比較的歴史の浅い概念ね」
その発言に峻也は引っ掛かりを覚え、共有している記憶を浚っていく。
(……あのさ、ハナシ変わるんだけど、今って一八二〇年の九月十八日……月の日? ああ、月曜ね……で合ってるよな?)
「ええ、そうよ」
あっさり肯定されたことで、峻也は存在しない足元が崩れる感覚を覚えた。
(俺フツーにプライバシーって言ったけどさ。前身とも言える法概念は十七世紀にできて、プライバシーそのものとしての概念が提唱されたのって十九世紀末なんだよ)
今度はアンドリアが片眉を上げる番である。
「今世紀末? おかしいわ、既に存在している概念よ。それに貴方の言葉が事実であるとして、何故未来のことを知っているの」
(そりゃあ知ってるよ、俺は二十一世紀に死んだんだから。やっぱ魔法がある時点で異世界ってやつかここ……まじかー)
両手で顔を覆って嘆いているような声の峻也であるが、顔を覆って嘆きたいのはこちらの方だとアンドリアは言ってやりたかった。
「貴方はつまり、わたくし達とは異なる世界の人であるというの? ニホンという国をわたくしが知らないのは当然だったのね」
(こっちでも異世界って概念通じるんだ。確かに疑問だったんだよな。見る限り十九世紀、それも初頭か良くて前半っぽいのに、あちこちチグハグなんだよ。俺がいた世界じゃ、この時代にスカレッラに相当する街からメルフィに相当する街まで馬車で行き来できる道はできてなかったし、そもそも沿岸道路だって全線開通してない。この街だって、当時はまだ寂れてた)
徐々に深刻さを増していく彼の声に、アンドリアは黙して耳を傾けている。
(いっそここが全然違う世界だったら良かったのにな。気持ち悪いぐらい似てんのに、歪んでるとこも多くてちょっとしんどい)
軽い調子で彼は言うが、アンドリアには〝絶望〟という言葉が脳裏をよぎった。
「フディサキ、正気を保てていて?」
峻也が不安定になる理由が解らない。彼は〝自分であって自分ではない〟アンドリアの十五年近い量の記憶や経験を共有しているにも拘わらず、そのことによる負荷はなさそうに見える。変化や新しい環境を受け入れ慣れることが得意な質なのであろうとアンドリアは考えていた。
「貴方がそこまで揺らぐ理由がわたくしには思い付かないわ。どうしたというの」
(……色々前倒しになってる部分が多いのが気持ち悪い。俺が知ってる今の時点で運命の修正とか、バタフライエフェクトみたいなことが起きてる)
寸時の沈黙の後、峻也がアンドリアの知らない単語を口にし始めたことに彼女は疑問をぶつける。
「その〝運命の修正〟や〝バタフライエフェクト〟が何を意味する言葉であるかわたくしには解らないのだけれど、良くないことが起きていると言いたいのかしら」
(そうなるかな。魔法とかがある世界だから、俺が知ってる歴史の通り進むかは判んないけど……ここまで前倒しな物事が多い以上、世界大戦とかが俺の世界より早く起こるかもしれないんだよ)
良くないどころではない単語が飛び出してきたことに、然しものアンドリアも面食らった。
「世界大戦ですって?」
(戦争とかを直接経験した世代じゃないんだけどさ。爪痕って世界中に山程あるんだよね、俺が生きてた時点でも過去になってないぐらい。俺のいた国って敗戦国なんだけど、当時で言えば戦略級、今に換算しても戦術級の兵器が二回もぶつけられてんだわ。被害者的な言い方は語弊あるかもだけど)
アンドリアは彼の言葉に戦慄した。こちらの世界における〝戦略級〟とは、低位神級魔法か禁術指定の超級極大魔法、神級神器を指している。いずれか一つであっても、二度受ければ国家としての機能はおろか、国土すべてが焦土と化す。その後に人間が生きていることも衝撃であるが、それ以上に戦略級兵器を持ち出し使用する次元の戦争が起こる可能性を語られたことは看過できなかった。
(ビビらせること言ってごめん。そもそもこっちの世界の歴史って、ちょいちょい俺の知ってるやつと変わってるからさ。世界大戦やあれらに関する諸々なんて、起こんないかもしんない)
とうとう溜息を堪えきれなくなり、アンドリアは吐き出す息と共に椅子へ腰掛ける。テーブルに肘を突き手を組むと、そこへ額を乗せて呻くように彼女は言った。
「聞きたくなかったわ、とても」
アンドリアの、こちらを責める感情が文字通り伝わってくる。峻也は続きを口にすべきか逡巡していると、彼女が先に声を発した。
「貴方の言葉を妄想と切り捨てられれば楽なのにね。わたくしの立場では、そうしたくともできないの」
(うん、解ってる。ごめん)
「ぬるま湯に浸かっているつもりはなかったわ、世界情勢がこの先変わらないなどと思ったこともない。それなのに貴方の言葉に動揺してしまうだなんて、情けないにも程がある」
吐き捨てるアンドリアの姿に、峻也は激しく後悔する。どれ程優秀であろうと彼女は十五歳の未成年だ。そのような相手にするべき話ではなかったし、自らの浅慮にいよいよ消えたくなった。
(あー……いい大人がまじでクソみてえ。ほんとにごめん、俺のエゴでやらかした)
会話が途切れる。しばらくして、顔を上げたアンドリアが息を吐いた後、できの悪い生徒を見守るような微笑みで尋ねた。
「フディサキが何に絶望して揺らいだのかが判ったかもしれないわ。自分が違う世界に来てしまったことよりも、貴方の知る凄惨な歴史が、こちらでも起きてしまうことを恐れたのではなくて?」
身の置き所がないあまり、峻也は奇声を上げて転げ回りたい衝動に駆られた。
(もおぉぉさあぁぁ、俺の思考とか読めてんじゃないの? まじで消えたい、頼むから今すぐ消して俺のこと!)
実際に奇声に近い喚き声を上げたものの、どうにか落ち着き咳払いで切り替えて続ける。
(……まあそうだよ、俺としては起こってほしくない。今だってあんだけ苦しんでる人がいて、記録からだけでもどれだけめちゃくちゃ沢山の人がえげつない殺され方して死んでったか解るんだよ。あっちと気持ち悪いぐらい似すぎてるこの世界でも、いや似てなくても、またあんなことが繰り返されんのは絶対駄目だ)
「非戦闘員も大勢巻き込まれたのね」
峻也はこれに答えなかった。アンドリアが眉根を寄せる。つまり巻き込まれたのではなく、最初から虐殺が目的だった事例もあったということだろう。
「わたくしに大した力はないわ、わたくし一人にできることなど微々たるものよ。だから今聞かされた話を誰に、どのように伝えるか。それが問題ね」
(普通に考えりゃ妄言甚だしいもんな。君の家の人らなら真剣に聞いてくれるとは思うけど、他の連中はなあ)
「けれど、起こらないように動いてほしいのでしょう? 貴方は」
間を置いて(……まあ、うん。起こらないのが一番だし、十五歳の子に何頼んでんだって話ではあるけど。ごめんな、こんな役立たずの三十路でさ)という答えが返される。アンドリアは片頬を上げて告げた。
「フディサキにも働いてもらうに決まっているじゃない。消えるだとか消してだとか言っているけれど、甘くてよ」
(へ?)
壮絶な笑みで彼女は言う。
「貴方が言ったような未来が起こらないために、貴方はわたくしと手を尽くさねばならないの。貴方が知るすべてをわたくしは知らねばならないわ、だから勝手に消えることなど許さない」
(……はッ)
思わず笑みを漏らしてしまった。現世の自分はとんでもない人間に生まれたものだと峻也は思う。
(そっかー、そっか。俺、許してもらえないんだ。……ま、元社畜なりに頑張りますよお嬢様)
「シャチク?」
(こっちの話)
煙に巻かれた感はあるが、ひとまず峻也の精神状態も安定したようなのでアンドリアは良しとした。そして本来の問題も解決していないため彼女は話を戻す。
「この話は今これ以上議論したところで解決するものでもないわ、だから措いておきましょう」
(あ、俺が脱線したもんな。その、証明しろって言われても無理なんだけどね)
顎に指を添え、視線を伏せてアンドリアは考える。そんな彼女へ峻也が続けた。
(いくら現世の自分っつってもさ、十五の未成年なんて俺からすれば年の離れた親戚だよ。そんな子の着替えやら何やらをわざわざ見たくないし、そういう趣味もない。まじでそのテの記憶だけ抜け落ちてんだよ)
困ったように話す彼の言葉に後ろめたさは感じられない。これが芝居ならば相当な役者である。
「解ったわ、貴方の言い分を信じましょう」
(まじで?)
「わたくしが信じないことには話が進まないものね。仕方がないと言えば仕方がないし、フディサキが嘘をついているようには感じられないわ」
彼が安堵から脱力したような雰囲気をアンドリアは感じた。だが信じることに決めた根拠はもう一つある。アンドリアに峻也の記憶や感覚が共有されていないことだ。無意識であっても、自身が彼を別個の存在として認識しているためではないかと彼女は自己分析していた。峻也の場合、自分であって自分ではないとしながらも自らをアンドリアの前世の記憶や人格であると位置付けている。アンドリアの一部であるという自覚を持つがゆえに、記憶や感覚、感情といったものを共有している可能性が高いと見ていた。
(はー……良かった、疑われっぱなしはちょっとな。ありがと)
「どういたしまして。ではわたくしの疑問も解決したことだし、そろそろ荷ほどきと晩餐のための支度に入るわ」
アンドリアは席を立つ。(りょーかい、俺は引っ込んどくわ)、そう言うと峻也の声は聞こえなくなった。
時計を見れば十八時に近い。窓の外では金色の夕日が周囲をカナリアイエローに照らしながら沈んでゆく。アプリコットとサーモンピンクを織りまぜた空を、夕闇がオーキッドやモーヴへ染め替えていく。アンドリアはそのさまを僅かの時間眺めた。やがてカーテンが引かれ、室内には魔石灯による光のみが残る。
メルフィの夜が始まろうとしていた。
【登場人物】
アンドリア
└主人公。
ランペドゥーザ公爵令嬢でトゥスクルム家長女。15歳。
教育修道院(修道院の寄宿学校)を2年早く修了した。
フルネームは「アンドリア・カロリーナ・トゥスクルム・ディ・ランペドゥーザ」。
藤崎峻也
└アンドリアの前世の記憶であり人格。
日本人の会社員だった。30代。
アンドリアからはフディサキ・シュニアと呼ばれる。
テルツァ
└トゥスクルム家のダーマ・ディ・コンパニーア(レディズ・コンパニオン)。
ストルニウム前男爵未亡人。
フルネームは「テルツァ・ガッロ・バロネッサ・ヴェドヴァ・ディ・ストルニウム」。
エンマ
└トゥスクルム家のカメリエーラ・ディ・ペルソナーレ(レディズ・メイド)。
フルネームは「エンマ・モンティ」。
フランチェスコ
└ホテル・ルナ・クレシェンテ・コンヴェントのオーナーであり支配人。
フルネームは「フランチェスコ・フォレスティ」。
ブルーノ
└トゥスクルム家の従僕。
フルネームは「ブルーノ・ラッケ」。




