第4章 天の意思なのだ、令嬢よ、天の意思なのだ、私のこの理不尽な、理不尽な覚醒を、私のこの転生を完了させたのは
どくりと心臓が嫌な音を立てた。
――待って。この声は今、香りについてだけではなく『味も美味い』と言ったわ
最初にこの男の声が聞こえた瞬間から、二時間近くアンドリアは警戒を続けていた。魔力感知の範囲は最大まで広げ、周囲の気配や音、視線等も絶えず探っている。にも拘わらず、彼は再びこうして声だけを届けてくるのだ。独りごちただけのようにも思えるが、それでも異常な事態であることに変わりはない。
アンドリアの中の時間が引き延ばされた。テーブル上の二つのグラスを注視するが、テルツァと自分以外が口を付けた痕跡は見付けられない。
(この男が姿を隠蔽している状態で飲んだというならば、それは提供前? けれどグラスの中身が不自然に減っているようには見えなかった……まさか)
――認識阻害、もしくは幻覚を抵抗できなかった?
背中に氷を差し込まれたような感覚がアンドリアの中を駆け上がった。噴き出る冷や汗の不快感で眉を動かしそうになるも、淑女の微笑みを貼り付け続ける。
(神器や魔道具によるものだとしても、相手との実力差はそこまで大きいの?)
それ程の相手ならば、何を狙ってアンドリアに近付いているのかが解らない。暗殺が目的であれば、とうに完了できている筈なのだ。
(人間は、解らないものや得体の知れないものを恐れ嫌悪する……今のわたくしにはよく解るわ)
漏れ出しそうになる魔力を無理やり抑え込む。そうでもしなければ、中庭はおろか周囲一帯を吹き飛ばしかねないからだ。
(何たる未熟、この程度のことで心乱されるなんて。おまえは恥ずべき人間よ、アンドリア)
唇を噛みしめたい衝動に襲われる。だが淑女にそのような真似は許されない。アンドリアの内で焦燥だけが大きくなっていった。
そんな彼女の〝耳〟に、再び窺うような男の声が入ってくる。
(……あの、俺も今気付いたんだけどさ。多分俺、君が思ってるようなやつじゃないと思うんだ)
今度こそアンドリアは何事かを口走りそうになった。
それでも何とか平静を保ち、淑女としてにこやかに問い掛ける。動揺を晒して隙を見せることは命取りだ。
――どなたでしょうか。生憎、わたくしは貴方を存じ上げませんわ
初めて明確にこちらへ話し掛けてきたことで、いよいよアンドリアの練り上げる魔力が高まっていく。このときアンドリアは、自身が口を開かず会話をしていることに気付いていなかった。
(正直、俺も何かの間違いとか嘘だったらいいなって思ってるんだけど……俺、君の中身っていうか、君の記憶や感覚がそのまま共有されてるんだよね)
――どういうことですの?
アンドリアが慎重に尋ねると、男の声は答える。
(俺、君に憑依したか、前世なんだと思う。君の)
アンドリアはこの男が何を言っているのか全く解らなかった。言葉は解る。だが言っていることが理解できない。
――憑依……貴方は悪霊等の不死者、または悪魔ということかしら?
瞬間、アンドリアの魔力が暴力的に膨れ上がった。焦った男の声が制止に掛かる。
(ちょ、待った待った待った!)
――気付かぬうちに死霊術の類いを使われていたなど、恥ずかしくて死ぬにも死ねないわ……たとえ刺し違えてでも葬ってさしあげる
男に実体があれば、頭を抱えて天を仰いだに違いない。物騒な声音と発言に、男は泣きそうな声で訴えた。
(マジで違うから! 別に俺、恨みはないし君の身体を乗っ取ってどうこうしたいとか全然考えてないから! だから悪霊でもないし、悪魔とか全然違うから! 確かに俺、死んだし不死者って言われても否定できないよ? けどちゃんと人間なんだよ!)
――では何だと言うの?
男の声に嘘は感じられない。アンドリアは怪訝な顔を浮かべぬよう苦心しながら続きを待った。
(悪い奴認定は一応外してくれるんだ、ありがと。君が本気出したら、メルフィどころか周りの街や村とかもまとめて更地になるんだろ? 俺が原因で大量破壊と殺人の犯人にはなってほしくないから助かったよ)
――わたくしが考えなしでそのようなことをするわけがないでしょう。侮辱もいいところだわ……それよりも、わたくしの問いに答えてくださる?
記憶や感覚がそのまま共有されていると彼は言った。ゆえにアンドリアの実力を知っているといった口ぶりである。あながち虚偽とも感じられなかった。
(その、この国には〝生まれ変わり〟とか〝前世〟の概念がないから理解しづらいだろうけど……俺は一度死んでる。で、何でか分かんないけど、今日になって意識が目覚めた。俺は自分が物心付いてから死ぬまでの記憶はきちんとある。でも、君が物心付くぐらいからの記憶や感覚とかも大体知ってる。ここまでは大丈夫?)
――ええ、何となくでしょうけれど理解したわ
(オッケィ。で、これは俺の推測ね。君は俺の生まれ変わりで、でも俺の記憶っていうか人格が強くて、憑依してるのに近い状態なんじゃないかなって思うんだよね。けど答えに大分近いってか、正解じゃないかと思ってる)
アンドリアは腕組みをして首をひねりたくなるのを堪えながら尋ねる。
――つまり、わたくしにはわたくしとしての人格と、貴方の人格が同時に存在しているということかしら
(そうなるね。君には申し訳ないと思うよ、前世が俺みたいな男で。せめて女の人だったらまだマシだったし、何ならこのまま俺が目覚めない方が良かったよね。ごめん)
二人の間に僅な沈黙が落ちる。
言い淀みつつ、アンドリアが言葉を発した。
――……けれど、自発的にわたくしの中に存在し、目覚めたわけではないのでしょう? 確かに、わたくしの中に男の方がいるだなんて、正直に言えば困惑しているわ
(そりゃそうだと思うよ。赤の他人、しかも性別の違う相手がいきなり〝あなたの前世です〟って言ってきたら、誰だってヤバい奴だと思うし。〝頭おかしい、気持ち悪い、死ね〟とか言われても文句言えないもん、俺。それと、自発的じゃないって信じてくれるのはマジで助かる)
そのような暴言は淑女として口に出せる筈がないし、無論アンドリアは口にするつもりもないので、あくまでも内心で生理的嫌悪感を抱かれてもやむなしという話である。
(むしろ、こうやってきちんとハナシ聞いて理解しようとしてくれてる君が凄い)
生理的嫌悪は、何故かそれ程感じていない。不思議に思いながらアンドリアは〝口〟を開いた。
――貴方の姿が見えないからかもしれないわね。それに、まだ完全には理解しきれていないからだわ
笑い声が上がる。
(ははっ、確かにそうだ。唐突すぎる。わけ分かんなくて当たり前だよ。……まあでも、そのうち実感や現実感が追い付いて、俺に消えろって思うことになる)
自嘲的な笑みを含んで語る、確信めいた予言にアンドリアは戸惑った。
――人ごとのように言うのね。消えてと言われたら消えるの?
(だって前世とは言え、自分の中に他人の人格がいるんだよ? 気持ち悪いだろ。俺は君であって君じゃないし、逆も然りだ。それに、一度死んでる身だからさ。今生きてる君に迷惑掛けてまで存在していたくない。それこそ悪霊だよ)
アンドリアは直感的にこの言葉が本心からのものであると解った。胸の内がじりじりと焼かれる心地を覚えながら彼女は言う。
――すべてを諦めているのね、あなた
(諦めるも何も、今言ったように死んでるんだよ俺。生きてる人間の方が大事に決まってるじゃん。……そもそも、君と違って俺は存在してもしなくても大差ないからさ。価値のある人間でもないんだ、俺)
何故だか無性に息苦しさを覚える。〝これは不快感だ〟、そう気付く前に男が指摘した。
(気を悪くさせてごめん。けど、ほんとだから)
男はアンドリアの記憶や感覚を共有していると言った。こちらの感情など、手に取るように相手は分かってしまう。ここに来て「俺は君であって君じゃない」という言葉が真実で、またそのことを煩わしいと思わされるとは。
――感情的になってしまうのは、わたくしが混乱しているからなのかしら
(だと思うよ。まあ、俺はなるべく君に迷惑掛けないようにするつもりだし、もしかしたらそのうち勝手に消えてなくなるかもしれないから。それまでは居候になっちゃうと思う、ごめん)
――だからどうして貴方は消える前提で話をするのかしら
不快感が増していく。自らの感情が制御できなくなりそうだ。これまで受けてきた教育、自身がしてきた努力を台無しにしてしまいそうな自分にも腹が立つ。
――そもそも貴方はどなたなの? 名くらい名乗りなさいな
(あ、そうだった。俺、藤崎峻也って言うんだ。前世は日本っていう島国で生まれて、会社員やってた。君より倍以上の年上だよ、君からしたらおっさんかな。しばらくよろしくね)
それきり男の声は聞こえなくなった。アンドリアは内心で溜息をつく。
(何だか、言いたいことだけを言って去っていかれたようだわ)
事実その通りである。
(名前はフディサキ・シュニア、フディサキが名前かしら。ニホンという国は聞いたことがない。会社員ということは商人だったのかもしれないわね)
言語の問題で、アンドリアは彼の名前を正確に発音できなかった。彼の情報を頭の中で整理していくうちに、一つの疑問に行き当たる。
(フディサキは〝記憶や感覚が共有されている〟と言ったわ)
嫌な想像が浮かび、アンドリアは色を失った。
(それはつまり、わたくしの湯浴みや着替え等を全て把握しているということではないの)
事実であればアンドリアの名誉に関わる。彼はアンドリアであってアンドリアではないのだ。
(何としても確かめなければ。もし彼がわたくしの予想通りであったなら、彼の言う通り消えてもらわなければならない――)
そこまで考えて、アンドリアは激しい頭痛を覚えた。こめかみが脈打っている。
(一つの頭の中で二つの人格がこれだけやり取りをしていて、わたくしはと言えば冷静な状態になかった)
高速思考と並列思考の魔法、身体強化の魔術を同時に発動していてなお、アンドリアの脳に過負荷が掛かったのだ。これ以上続ければ意識が暗転すると判断し、彼女は魔法の発動を切った。引き延ばされた彼女の中の時間が戻ってくる。
(ひとまず、これ以上考えるのはやめておきましょう)
実際に経過した時間は数秒であった。アンドリアは何事もなかったようにテルツァとリモナータを楽しみ、中庭にあるレモンの木や控えめに植えられた花々を鑑賞する。
一息ついたところで、回廊のアーチの向こうからフロント係が歩いてくる。見ると、フロント責任者であった。彼はやや引いた位置で優雅に一礼し、フランチェスコの許へ歩み寄ると彼へトレーを受け渡す。
「レディ・アンドリア、お部屋の支度が整いました。ご案内をさせていただいてもよろしいでしょうか」
インルームチェックインのため、客室へ移動するという意味だ。「ええ、お願いするわ」と返し、アンドリアは静かに席を立つ。テルツァもそれに続いてアンドリアと腕を組み、控えていたエンマと共にフランチェスコの案内で客室へ向かった。
アンドリアは回廊と同じ、ピアノ・ノービレ階にある高級貴賓室・一続きの部屋へ通される。主寝室と前室、応接室が続き間になっている構造だ。
修道院であった名残で壁はライムウォッシュの白さをそのまま活かしており、陽光によって陰影の美しい、涼しげな空間を作り出す。床はチェントロ近郊にある町ヴェトロ・スル・マーレの伝統工芸、マジョルカ焼きの色鮮やかなタイルが敷かれていた。
なお客室は、かつて修道士達が瞑想し寝起きしていた〝セル〟と呼ばれる小さな個室を改装によって繋げたものだ。そのため天井は穹窿というアーチ型の構造をしていた。調度品も、地元の職人が製作したクルミ材の家具を中心に配置されている。それらはやや無骨だが、伝統的な趣があった。
応接室の中央には重厚な作りのラウンドテーブルと椅子が設置されている。フランチェスコがアンドリアとテルツァをそれぞれエスコートして掛けさせていると、敲門の音が小さく響いた。
アンドリアはエンマに目配せしドアを開けさせる。入室を許可された給仕係が一礼し、ワゴンを押しながら入室してきた。エンマは彼女と連携して紅茶と焼き菓子を給仕していくが、ここでも焼き菓子の一部にスフーザト・メルフィターノが使われていると判る。
「ここでもメルフィのレモンが楽しめるのね」
「茶葉は焼き菓子の風味に合うものをご用意いたしました。お口に合えば幸いでございます」
「ええ、いただくわ」
着けていた手袋を外して膝へ置き、焼き菓子を口へ運んだ。リモナータとはまた違った味わいが感じられ、テルツァと二人でそっと顔を綻ばせる。紅茶も彼の言葉通り、レモンとの相性が良いものであった。
「これはずるいわ、虜になってしまったもの。どうしましょう」
「他のレモンでは物足りなくなってしまいました」
「それは良いことを聞きましたな、レディがお褒めくださったと広めねばなりますまい」
フランチェスコは心から嬉しげに破顔する。
誰もが一様に「わーい転生だー! バ美肉ならぬ異美肉しちゃったぜうぇーい笑 チートで人生やり直しィ!」となるとは限らないと思うんですよね
……という話
記憶だけで自我がなければ成立するとは思いますが、本作の前世は立派に自我も持ち合わせた記憶なのでハードモードだとは思います
果たしてここから二人が「あらすじ」通りに混ざり合うのかどうかをご覧いただければ幸いです
【登場人物】
アンドリア
└主人公。
ランペドゥーザ公爵令嬢でトゥスクルム家長女。15歳。
教育修道院(修道院の寄宿学校)を2年早く修了した。
フルネームは「アンドリア・カロリーナ・トゥスクルム・ディ・ランペドゥーザ」。
藤崎峻也
└アンドリアの前世の記憶であり人格。
日本人の会社員だった。30代で死亡。
アンドリアからはフディサキ・シュニアと呼ばれる。
テルツァ
└トゥスクルム家のダーマ・ディ・コンパニーア(レディーズ・コンパニオン)。
ストルニウム前男爵未亡人。
フルネームは「テルツァ・ガッロ・バロネッサ・ヴェドヴァ・ディ・ストルニウム」。
エンマ
└トゥスクルム家のカメリエーラ・ディ・ペルソナーレ(レディーズ・メイド)。
フルネームは「エンマ・モンティ」。
フランチェスコ
└ホテル・ルナ・クレシェンテ・コンヴェントのオーナーであり支配人。
フルネームは「フランチェスコ・フォレスティ」。




