第2章 記憶の回廊は檸檬の木に突き当たりて
今回地味に飯テ○回かもしれない(飲料が飯であるかはさておき)
瞬間、アンドリアの中の時間が引き延ばされる。
(何者)
車内に存在する筈のない者の声が〝耳〟に飛び込んでくるまで、まるで気配を感知できなかった。
(わたくしの感知が及ばない相手)
アンドリアは常時、感知の魔術を発動している。であるのに侵入を許したならば、考え得る理由は多くない。
(わたくし以上の実力者か、または抗魔の魔道具を使用されたか)
だが感知の魔術は発動し続けており、打ち消された感覚もなかった。
(感知をすり抜けられる魔術だとしても魔道具だとしても、血脈の秘術や神器級の性能だわ。けれど五年の間にそのような代物が完成したとは考えにくい)
教育修道院在籍中、令嬢達は俗世から切り離される。他の教育修道院では書簡や面会、差し入れを許可されているところが大半であるが、アンドリアが出院した聖カタルド教育修道院は緊急時を除き全て禁止されていた。そのため、彼女の手元にこの五年間の情報がない。手札の不足にアンドリアは内心で歯噛みする。
(いずれにせよ手強い相手ね)
魔術による感知だけでなく、空気の揺らぎや空間の歪みも感じられなかった。集音の魔術を発動してみるが、騎士や従僕達に異状はない。
(殺意や敵意、魔力や視線も完璧に隠蔽している。それなのに声だけを届けた。目的は示威?)
引き伸ばされた時間が戻ってくる。にわかに激しくなる心悸を気力でねじ伏せながら、アンドリアは鋭利な警戒をおくびにも出さず平然たる体を崩さなかった。
(泥縄もいいところだけれど……相手の出方が不明である以上、わたくしに取れる手段は少ない)
「アンドリア?」
「胸が詰まってしまったみたい、問題ないわ。それより、二人とも泣かないで。目が溶けてしまっては大変よ」
不自然に言葉が切れたことを不審に感じ、テルツァが声を掛ける。アンドリアの言葉を受け、二人はハンカチで目元を押さえながら頷いた。
「そうね……年を重ねると涙脆くなってしまって」
「申し訳ございません」
泣き止むのを待つ間、膝に置いたままの書簡を片付ける。二人が落ち着いた頃合いを見計らい、アンドリアは微笑み掛けた。
「スカレッラまで来たのだもの、景色を眺めてはどうかしら。ルーピエは華やかで美しいけれど、この辺りもまた違う素晴らしさがあるわ」
カントリーハウスに当たるトゥスクルム家のパラッツォはルーピエに存在する。ランペドゥーザ公爵領副都であるルーピエは、古代より二千年以上続く古都だ。人口や経済規模は南部第二位の商業都市である領都アルトゥーラに及ばないが、王国内でもルーピエの荘厳さは名高い。
「ええ。眺めが良いし、静かで落ち着いた場所ね」
彼女達はそれぞれ車窓へ視線を向けた。麓のロッカ・プリマとは、標高差があり九十九折りを繰り返す坂道で繋がっている。四頭立ての馬車で進むのは熟練の御者や騎乗御者、山道に慣れた馬の組み合わせであっても横転の危険性が高く、速度を上げることができない。車窓からの眺めはゆるやかに過ぎていく。
(お父様の目的も判っていないというのに、歯痒い)
警戒度を最大まで引き上げたまま、アンドリアは声の主の正体とランペドゥーザ公の真意を探り続けた。
約一時間後、ロッカ・プリマへ到着した一行はここから沿岸を西進する。カーヴァ・デ・マルキーノから西側へ広がるラクタリア山脈の裾がそのまま切り立った断崖であることから、チェントロとアッフルアンザを結ぶ沿岸街道は幅員が狭く七曲り。標高差も激しいため、スカレッラから陸路で北上する際の選択肢には入らないのが常であった。
(スカレッラからエテルナへ向かうには、アリモーネかその近郊を経由する。わたくし達が指示されているのは、アッフルアンザへ向かってからアリモーネを目指す遠回りの経路)
アッフルアンザよりもアリモーネに近い集落は小さいながらもいくつかあり、アッフルアンザを通る意味がないように見える。だがこれには宿駅と集落の場所、馬の数と馬車の大きさ、アンドリア達の身分という理由があった。
四頭立ての馬車を安全かつ効率的に制御するには、御者二名のうち一名が先頭の馬に騎乗して前列二頭を操作し、もう一名が御者台で後列二頭と制動装置の操作を担当する。山道や沿岸道路等の難所では、馬と騎乗している御者の消耗が平地以上に早い。だが休憩を取ろうにも地形や敷地等を理由に不可能である場所が多く、まして宿駅や集落などあろう筈もなかった。
馬と御者を潰さず進むためには休憩を挟まねばならないが、それは騎乗の護衛や御者台の御者、従僕と馬車の乗員も同様である。
人間も馬も、それぞれ一定の勾配から移動困難となる。荷物と人間を載せた馬車は重量物であり、それを牽く馬に掛かる負荷は大きい。馬の数を増やしたとて、斜度そのものの物理的・生物学的な限界を引き上げることはできない。そのため勾配四ペルチェント(パーセントに同じ)からは全員が下車して歩く必要があった。
長距離移動では宿駅や集落の場所を踏まえて経路を決定する。長距離乗合馬車を利用するのであれば運営会社が設定している経路任せだが、個人所有の馬車となるとそうはいかない。
馬と騎乗する御者の負担を軽減し、且つ日行距離を稼ぐには宿駅で馬を交換するのが最も合理的だった。騎乗御者も交代で雇うのは、騎乗する御者の負担軽減だけでなく、返却した馬を元の宿駅へ引き返させるために道案内や引受人として同行が不可欠であるからだ。また、その地域に所属している騎乗御者の方が地理に詳しいという理由もある。
そして四頭立ての高級長距離用馬車と騎乗御者、護衛の馬達を交代または休憩させ、貴族の一行が宿泊できる規模と格の宿駅や宿は多くない。宿駅または集落への立ち寄りが必須である以上、日没までに宿泊地へ到着することも計算した上で行程は立てられていた。
(……というのが一般常識であり貴族の体面なのだけれど、トゥスクルム家の人間は正直に言えば気にしないし、どうにでもできてしまうのよね)
アンドリアが再び集音の魔術を発動してみたところ、馬と騎乗御者の息や心拍数が上がっていると判る。
(低山と言っても山は山、このような道を登ってすぐ下りることはきついに決まっている。手前にあるレジンナの宿駅で交代したきりでしょうし、無理もないわ。出発のときに掛けておけば良かった)
車外の全員に向けて回復の魔法を発動し、彼等の状態が落ち着いたことを確認したところで集音の魔術を切る。そうして思考の海へ潜り直した。
(とは言え元王弟が当主であり、王室派閥の長であり、領民がいる以上、体面はそれなりに保たねばならないというのが現実)
アンドリアだけならば、それこそ身体強化の魔術を掛けながら昼夜走り通しても構わない。だが各検問所を正規に通らねば問題であるし、通れば貴族令嬢が供回りも付けずに行動していることが発覚し問題となる。
(どのみちこうするしかないのだから、考えるだけ無駄なのかしら)
ロッカ・プリマから沿岸街道を西へ二十分程進み、アンドリア達はメルフィ海岸へ辿り着いた。ここには約千年前に興ったメルフィ公国の首都であり、貿易拠点として栄えた街メルフィが存在している。約七百年前に滅びた後は急速に衰退し寂れた漁村となっていたが、エノトリア王国統一後に沿岸街道を開通させたことで、現在は観光地への発展の途上にある地だ。
「お嬢様、予定通り本日はメルフィで宿泊いたします」
「ええ。日没に間に合って良かったわ」
三人が居住まいを正したことで車内は公の空間へ戻る。テルツァの言葉にアンドリアは頷いた。
街に入ってすぐの岩盤上にある、修道院と思しき建物の前で一行は停止する。ホテル・ルナ・クレシェンテ・コンヴェントと書かれた小さな看板が掲げられているそこは、約六百年前に建てられた修道院が前身であり、メルフィで最も早くに開業したホテルだ。
対向の馬車を防ぐため、騎士達は馬車の脇へ一列で並ぶ隊列に変更する。エントランスにはオーナーでもある支配人とポーター達が待機しており、従僕であるブルーノ・ラッケとアントニオは即座に動き出した。
アントニオは従僕用の昇降踏み板から飛び降りると、解錠した車体のドアへ手を掛け静かに開く。ブルーノは屋根と車体後部の荷台に固定していたトランクの革ベルトをほどき、次々に降ろしていった。
車内からは初めにレディズ・メイドであるエンマが降りてくる。彼女は手にしていた日傘を開き、主人の降車を待った。次にレディズ・コンパニオンのテルツァが降り、続いてアンドリアもアントニオにエスコートされてエントランスへ降り立つ。ここでもエンマは素早く主人の身なりに乱れがないか確認し、日傘を差し掛け夕日を遮った。三人が馬車から離れたことで、アントニオは車内の荷物を運び出す。ポーター達も馬車と騎士の荷物をホテル内へ運び入れていき、狭い街道を占有しないよう、荷下ろしは丁重ながら疾風の如き速さで終了した。
「お待ちしておりました、レディ・アンドリア」
オーナー兼支配人のフランチェスコ・フォレスティが最敬礼をもってアンドリアを出迎える。
「出迎えありがとう」
「それではご案内いたします」
ドアマンが開け放っているドアを潜り、アンドリアはホテルへ足を踏み入れた。彼女はテルツァと腕を組み、エンマがその後ろに続く。アンドリアが同性と腕を組むのは、未婚の貴族令嬢は親族以外の男性にエスコートされて歩くことが許されていないためだ。従僕の二人は荷運びのために部屋へ先行しており、フィリッポと騎士達は宿駅に馬と騎乗御者を引き払い、馬車を一晩預けるため別行動となった。
なお身分制度とは無情なもので、御者は専門職として上級使用人の地位にあるにも拘わらず、屋外使用人という性質から宿泊等における待遇は最も悪い。そのためフィリッポのみ、別で手配された安宿に宿泊することとなっている。宿駅であれば厩舎で寝泊まりしなければならず、求められる職能の高さに見合わぬ立場であった。
(わたくしが不合理だと感じてしまうのは傲慢なのだろうけれど)
身の内に黒色のインクが滲む心地を覚えながら、アンドリアは視界の端で彼等を見送り歩いていった。
フランチェスコはレセプションを通りすぎ、回廊へと進んでいく。貴族がカウンターに並ぶこと、人前で書類に署名する行為は〝不作法で不名誉なこと〟とされるためだ。
やがて回廊のアーチから中庭が見えてくる。四方を回廊で囲まれたそこは、切り取られた四角の空から射し込む夕日でマリーゴールドを思わせる黄色に染められていた。他の宿泊客の姿はなく、まるで目の前の空間だけが修道院時代から時を止めているようだとアンドリアは感じる。
「レディ・アンドリア、どうぞこちらにお掛けください」
設置されたテーブルセットへ案内され、アンドリアはフランチェスコが引いてくれた椅子に腰掛けた。テルツァも同じようにして着席すると、やって来た給仕係がウェルカムドリンクを提供していく。続いてオイルランタンをテーブルへ置くと彼は下がっていった。途端、オイルの匂いを感じさせない程の、瑞々しく爽やかでありながら甘やかさも感じさせる香りが辺りを包み込む。フランチェスコは温かみのある微笑みで告げた。
「当敷地内で採れるレモンを用いて作りました、リモナータでございます」
リモナータは新鮮なレモンの皮の黄色い部分だけをすり下ろすか薄く削り、砂糖と共に指ですり合わせて香りとオイルを引き出す。そこに果汁をすべて絞り、砂糖が溶けるまで混ぜた後、水または炭酸水で割って作る伝統的な飲み物だ。
メルフィでは独自品種スフーザト・メルフィターノを栽培しており、一般的なレモンと異なり酸味が非常にまろやか、果皮は厚みと甘みがあり皮ごと食べられる。精油が豊富で香りは圧倒的に華やか、ジューシーでほのかに甘みを感じられる果汁という、優れた品種である。メルフィ公国時代には交易品や医療品として重宝された逸品だった。品良くグラスを傾け口にするなり、アンドリアはぱっと目を輝かせた。
「美味しいわ。メルフィのレモンは初めていただいたけれど、噂に聞く以上の素晴らしさよ。テルツァもそう思わなくて?」
「ええ、これ程に美味なるレモンは初めて口にいたしました」
問われたテルツァも頬に手を当て、ほうと息をついている。
「お褒めに与り光栄に存じます」
そう言って笑うフランチェスコからは、スフーザト・メルフィターノに自信と誇りを持っていることが伝わってくる。
(うわ、すっげえ香り。味も美味いけど、香りがとにかくやばいな。すげーいい)
――また!
二度目の声だった。
セザール・リッツ氏らの流儀であるフランス語の高級ホテル文化では、非常にへりくだった挨拶(「◯◯閣下、再び私どもにお仕えする機会をいただき、この上ない光栄に存じます」等)および接遇です。
作中のホテルも同じ高級ホテルですが、こちらでは流儀が異なります。
※念の為
そしてレモンがプルースト効果っぽいのはたまたまです
【登場人物】
アンドリア
└主人公。
ランペドゥーザ公爵令嬢でトゥスクルム家長女。15歳。
教育修道院(修道院の寄宿学校)を2年早く修了した。
フルネームは「アンドリア・カロリーナ・トゥスクルム・ディ・ランペドゥーザ」。
テルツァ
└トゥスクルム家のダーマ・ディ・コンパニーア(レディズ・コンパニオン)。
ストルニウム前男爵未亡人。
フルネームは「テルツァ・ガッロ・バロネッサ・ヴェドヴァ・ディ・ストルニウム」。
エンマ
└トゥスクルム家のカメリエーラ・ディ・ペルソナーレ(レディズ・メイド)。
フルネームは「エンマ・モンティ」。
ブルーノ
└トゥスクルム家の従僕。
フルネームは「ブルーノ・ラッケ」。
アントニオ
└トゥスクルム家の従僕。
フルネームは「アントニオ・セルヴォ」。
フィリッポ
└トゥスクルム家の御者。
フルネームは「フィリッポ・コスタ」。
フランチェスコ
└ホテル・ルナ・クレシェンテ・コンヴェントのオーナーであり支配人。
フルネームは「フランチェスコ・フォレスティ」。




