表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/12

本編第4話 岡山城岡山城主のはなしから人間の集団や相続に関する話になっていく(5)

二郎のプレゼンテーションが続きます。イケメン成分ましましの宇喜多秀家ではいかがでしょうか。

男子優遇の相続について疑問がでてきたりします。

本編第4話 岡山城岡山城主のはなしから人間の集団や相続に関する話になっていく(5)

 水運を握り、いかに宇喜多直家が豊かになっていたか、とかは、いまの3人の興味をひけそうにないのでプレゼンテーション用のCプランはつかわずにすみそうだ。

 

Bブランを続けていく。

 宇喜多直家の嫡男の宇喜多秀家及び正室豪姫については、いかがでしょうか。

 いずれもドラマや映画でイケメン俳優や美女が演じています。


直家イケメンリストを役者の顔写真とともに映していく。


なんか、きゃーという声が聴こえる。叔母さんが出すとは思えない声だ。


『大坂城の女』(フジテレビ、1970年、演:大月正太郎)

『関ヶ原』(TBS、1981年、演:三浦友和)

『おんな太閤記』(NHK大河ドラマ、1981年、演:角田英介→阪本良介)

『徳川家康』(NHK大河ドラマ、1983年、演:浜田光夫)

『真田太平記』(NHK新大型時代劇、1985年-1586年、演:石濱朗)

『徳川家康』(TBS大型時代劇スペシャル、1988年、演:五代高之)

『女たちの百万石』(日本テレビ橋田壽賀子時代劇スペシャル、1988年、演:田中健)

『愛に燃える戦国の女―豊臣家の人々より―』(TBS、1988年、演:多賀基史(少年期)→野村宏伸)

『姫将軍大あばれ』(テレビ東京、1995年-1996年、演:住吉正博)

『秀吉』(NHK大河ドラマ、1996年、演:浅利陽介→西手武)

『葵 徳川三代』(NHK大河ドラマ、2000年、演:香川照之)

『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』(NHK大河ドラマ、2002年、演:芦田昌太郎)

『功名が辻』(NHK大河ドラマ、2006年、演:安田顕)

『戦国自衛隊・関ヶ原の戦い』(日本テレビ、2006年、演:大沢樹生)

『天地人』 (NHK大河ドラマ、2009年、演:須賀貴匡)

『江〜姫たちの戦国〜』 (NHK大河ドラマ、2011年、演:斉藤悠)

『軍師官兵衛』 (NHK大河ドラマ、2014年、演:武田航平)

『真田丸』(NHK大河ドラマ、2016年、演:高橋和也)

『どうする家康』(NHK大河ドラマ、2023年、演:柳俊太郎)

『家康と三成のスマホ』(NHK、2023年、演:佐藤峻輔)

映画

『梟の城 owl's castle』(東宝、1999年、演:櫻木誠)

『関ヶ原』(東宝、2017年、演:生島翔)


 イケメン・イズ・ジャスティス、と3名が唱和している。


豪姫のほうのリストは女優の顔は省略しておいた。どうも受けが悪いのが予想されたからだ。

豪姫(1992年4月11日公開 松竹 原作:富士正晴 監督:勅使河原宏 豪姫:宮沢りえ)

大坂城の女(1970年 フジテレビ) 北林早苗

おんな太閤記(1981年 NHK大河ドラマ) 金子曜子→高梨路子→岩崎良美

女たちの百万石(1988年 日本テレビ) 浅野ゆう子

愛に燃える戦国の女(1988年 TBS) 小川範子

豊臣秀吉 天下を獲る!(1995年 テレビ東京) 根本宗子

姫将軍大あばれ(1995年 テレビ東京) 上村香子

秀吉(1996年 NHK大河ドラマ) 松尾恵理香→坂田麻衣子

利家とまつ〜加賀百万石物語〜(2002年 NHK大河ドラマ) 梅澤美優→大田ななみ→斉藤千晃→須藤理彩

寧々〜おんな太閤記(2009年 テレビ東京) 西本利久


自分は水をのみ、3人は紅茶をおかわりしている。茶葉を入れ替えて別のものにしているようだが、自分にはよくわからない。


お兄様、接待する側かるすると、せめて日東紅茶かリプトンかくらいは意識してほしいものですわ。日東紅茶は日本の三井物産の系統で開発されていますのよ。ブリカス(ブリティッシュのカスな歴史)とは切り離されているので、わたしのときは日東紅茶計のものを出していただいてますのよ。


心を読まないでほしい。


 でてきた俳優は、ちょっと古いひとばかりかもしれませんね。

 叔母さんが殺意のありそうね眼で自分をつきさす。なんだかいけないことを言ってしまったようだ。犬山も美羽も非難のまなざしだ。


 男系相続のはなし自体をお嬢様が嫌うということはないの。

 美羽の声がする。


 歴史で西洋史・東洋史だとほとんど男系血統主義での相続よねえ。

 例外はいえる?さとわちゃんは2年だから古代史レベルはいけるかしら。

 中国だと唐朝の則天武后とかエングランド史のエンプレス・マチルダとかヴィクトリア女王とかエリザベス1世・2世とかでしょうか。

 日本だと推古天皇とか。


 まあ、数えられるくらいね。戦場で突撃できないといけない、という感覚があると女性がトップにたちにくかもしれないわね。


 お嬢様がたは3姉妹のあとに男の子がでているから、男の子が生まれるまで子作りしていた感じで、自分は親の第二希望だったという感覚があるかもしれないわね。ウィンストン・チャーチルの自伝でマールボロ家は男系血統主義だから、自分が生まれたあと姉たちにねたまれて意地悪をされるエピソードがあるわ。

抗争を前提とした場合、体力優先だったのかもね。


そういえば『サピエンス全史』で関連したものがあったかな。

アドリブを加える。

 Y.N.ハラリ著・柴田裕之訳『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』上・下・河出文庫2023年は20万年からの人類が複数いた時代から現代までのサピエンスの通史であり、認知革命(虚構を信じうることにより大きな集団を維持できる)により他の人類を圧倒し、農業革命・科学革命によって変わっていく姿を描いた本です。

未来を予言するものとされています。どれも歴史上の定説ではなく新しい視点を提供する。ユダヤ教の負の部分とかは語られていないし、ロシアのウクライナ侵攻についてはまるではずしてしまってはいる。

 同書の13章では科学革命による医療の進歩で死の恐怖から人類が遠ざかってきたことを描いています。

イングランドス国王エドワード1世(1239~1307)とその妃エリナ(1252~1490)の後継者つくりの苦労を描いている(下巻・107頁以下)。当時の最高の環境で育てられたこどもたちは16人、男の子で成人したのは、末子で、のちのエドワード2世ひとりだけだった。16人のこどものうち10人が10歳未満でなくなった。

40歳を超えて生きたのは3人だけだった。

当時の相続法のサリカ法典では、嫡出男子にのみ継承が認められるので、エリナは夫に世継ぎを与えるという王妃の根本的使命を果たすため、16回の試行を必要とした。

 エドワード2世は後に妃に殺されるのとは対象的である。


……というところで、『サピエンス全史』でのエドワード1世とエリナーの子孫のはなしはおわっている。

 エドワード1世の子孫はヨーク家とランカスター家に分かれて血族どうしで殺し合う薔薇戦争(1455年5月にヨーク公リチャードがヘンリー6世に対して反乱を起こしてから、1485年にテューダー朝が成立するまでプランタジネット家傍流のランカスター家とヨーク家の間で戦われた権力闘争です、ヨーク家とランカスター家は、ともにエドワード3世の血を引く)の時代を経て、チューダー朝が成立します、ここでエドワード1世からの男系の血は途切れる。

 しかし、ハノーバー朝以降はエドワード1世の娘の血がはいっており、これは現在のチャールズ3世にも継承されています。

 直系王位の男性の系統は途絶えたにせよ、子孫がイギリス国王になるというかたちでは情熱と努力は報われたともいえる。

 もっとも800年もさかのぼれば系図のどこかでつながるのはあたりまえなのかもしれませんが。


 あと、かならずしも純愛といえるかどうか、エドワード1世は再婚していますし、再婚後のこどもは3人のうち2人成人しています。


うわ、サイテーな情報ね。

犬山がジト目で自分をみていた。愛をささげて子孫が報われたいいはなしだったのに。


 なんとかこいつらのイケメンびいきとか純愛妄想をぶち壊してやりたくなってしまった。

 ヘンリー8世のかっこいい肖像画を見せる。


 叔母さんは誰だかわかったようだが、犬山と美羽は嬉しそうに

イケメン・イズ・ジャスティス!

と叫ぶ。


 晩年の肥満体の晩年の肖像画を見せる。

 イケメンだって、いつまでもイケメンなんじゃないぞ。

 犬山と美羽がちょっとしゅんとする。いい気味だ。


 叔母さんは、バカねえ、時分の花だからこそ、いっそう愛しいものなのよ。

 二郎ちゃんが客観的は6歳で賞味期限切れていても、捨てたりはしないのといっしょね。


なんか、時分、ものすごく恐ろしいことを聴いた気がするんですが。家庭というのは未成年に安心安全を提供するもんじゃないんですか。


 愛情が報われなかったヘンリー8世の最初の后、キャサリン・オブ・アラゴンの子孫が途絶えていることについては、話さないことにしよう。


 歴史は歴史だし、不都合だろうが嫌いだろうが真実は真実でしょう。


お兄様、それがおもしろいかどうかは、受け手次第ですわ。


 まあ、好き嫌いでボツになる可能性はあるけど、続けてね。


 なんか、アウェイ感を感じます。


 話がそれたあとなので、おさらいをしながらいきます。

 まずは生涯のアウトラインです。

宇喜多秀家は、端的には、中国地方の戦国武将。謀将として名高い宇喜多直家の嫡子に当たり、後に豊臣秀吉の猶子ゆうし(と実の親子ではない者同士が社会的に親子関係を結ぶ制度で、養子とは異なり相続を目的としない)して豊臣政権における「五大老」の一角を担った。関ヶ原の戦いで西軍に属し敗軍の将となった後は、八丈島に流刑となり残る半生を当地にて過ごした。

生没年は、元亀3年(西暦1572年) ― 明暦元年11月20日(西暦1666年1217日)です。

幼名は八郎ですが、八番目かどうかは不明です。

通称は備前宰相、備前中納言です。岡山市北区に中納言という電車の停留場がありますが、こちらからきたのかどうかは自分は知りません。


知らんのか~い。

犬山、ナイスなつっこみありがとう。


猶子で寵愛って、BL?

なんだか不穏な声がする。


義経のときは稚児時代がはっきりしているけど、秀吉の場合はどうかしら。司馬遼太郎『義経』だとそういうシーンがあるわね。痛そうね。


 なんだか唾をのむ音がした。いやだなあ。


百姓出身という背景もあるから、生産性のない性行為は嫌だったと思われるし、そういう関係はなさそうね。

残念という小声がした。妹の声でなければいいのだが。自分、ちょっと泣きそうになった。


秀家の異父兄は三浦桃寿丸です。桃寿丸の父は、美作高田城主で浦上宗景の同盟者の一人であった三浦貞勝です。この貞勝が三村家親との抗争で落命した(異説もあり)折、その妻が桃寿丸を伴って再嫁した先が宇喜多直家です。秀家が生を受けたのはその後の事です。『宇喜多の捨て嫁』でててくる4姉妹、初・楓・小梅・於葉は異母姉にあたります。


 二郎ちゃんは自分が読んでいる本は当然きいているひとが読んでいると思っているわね。中学3年ならしょうがないけど、中学1年の美羽ちゃんがいることを意識しておいてね。法律の勉強とかでやる気のあるひとしかいない状態なら、スピーカーが読んでいるものは聴衆も読んでいると期待していいけど、実際の会議では無知蒙昧むちもうまいな輩がいいくらいってもわからないし、資料も読まないし、ましては資料に書いていないことなんてよんでもいないし、わからないものなのよ。


何か会議でいやなことでもあったんですか。


そんなことしょっちゅうよ。それより美羽ちゃんを無知蒙昧といったようなニュアンスでとらないようにしてね。美羽ちゃんは無知なところはあっても蒙昧ではないわ。


道理にくらくはない、ということですね。BLは道理をはずしていないのか心配だ。


本題にもどります。

おさらいですが、秀家が10歳となった天正9年(西暦1581年)、父・直家の病没に際して羽柴秀吉の斡旋により、その遺領の相続を織田信長から許されています。秀吉にはこの頃から目を掛けられていたようです。翌年の備中高松城攻めにおける羽柴・毛利間での講和後には、備前・美作・備中三カ国の57万石を秀吉より安堵される。


木下昌樹『宇喜多の楽土』ではこの段階で豪姫に気に入られるという設定になっています。


若年であった事から、これら両国の統治については叔父の宇喜多忠家や、先代以来の重臣が秀家を補佐する体制が取られています。

「宇喜多三老」と呼ばれた戸川秀安、長船貞親、岡家利に加え、花房正幸・正成父子、馬場職家、角南如慶、明石行雄ら、直家以来の家臣団が健在だったこともあり体制が揺らぐことはありませんでした。前回のプレゼンテーションで流されてしまった家臣のhなしです。


プレゼンテーションは相手にあわせるものよ。オタクが調べた言いたいことを全部いう場ではないわよ。中学生にいうことじゃないかもしれないけど、ビジネスの場では7割以上は捨てるつもりでやりなさい。


 心を読まないでほしい。


その後も秀吉からの寵愛ぶりが揺らぐ事はなく、時期は不明だが元服に際して秀吉より偏諱へんき(この場合は名前を一文字いただくこと)を受け、初名である家氏から秀家へと改名。また小牧・長久手の戦いや紀州・四国・九州の平定など、豊臣政権下での主要な軍事行動にも参加し数々の戦功を上げており、天正16年(西暦1588年)には羽柴改め豊臣秀吉の養女である豪姫(前田利家の娘)を正室に迎え、豊臣一門衆に列せられることとなり「豊臣秀家」の名乗りを使うようにもなった。なお、秀家も秀吉の養子になったとされるのが通説です。

実際には秀家本人が秀吉の養子であったわけではなく秀吉溺愛の養女である豪姫の婿であったために養子同様の待遇を受けたとする説もあります。

だから猶子という表現をとりました。


文禄年間に入り、朝鮮出兵が開始されると秀家も大将として渡海します。

実際問題あまり備前にいないんです。

碧蹄館へきていかんの戦いなどで活躍し、文禄3年(西暦1594年)にはその功績に報いる形で権中納言に昇叙。その後の慶長の役でも左軍の総帥を務めるなど、引き続き遠征軍の中枢を担っています。

朝鮮より帰国後の慶長3年(西暦1598年)には、まだ20代後半の身でありながら「五大老」に列せられます。秀吉存命の間における秀家に対する異例なまでの厚遇ぶりは、同じく養子でありながらも非業の最期を遂げた豊臣秀次や、厄介払いに近い形で他家に出されるなど不遇をかこつ格好となった小早川秀秋らとは、全くの対照的であったとさえ言えます。小早川秀秋の名前がここででてきますね。


宇喜多騒動

このように武将として多大な実績を残し、豊臣政権下で盤石の地位を確立した反面、政治面においては問題がありました。

やがて自身の足元を揺るがす事態にまで発展します。

軍人としては大成功したが、政治家としては青かったということでしょうか。


領国経営においては幼少期より秀家を支えていた重臣らが、その成長後も引き続き交代で国政を執るという体制が長きに亘って続いていました。

やがて長船綱直(貞親の子、紀伊守)や中村家正(次郎兵衛)など、新参の家臣に対して秀家が重きを置くようになり、さらには秀吉の後援の元行われた家中の統制や中央集権の強化、それに太閤検地の推進などを通して、相対的に立場を弱められた旧来の重臣らの間で、次第に秀家に対する不満や反感が醸成じょうせいされていきます。

よくある話で成人になった領主が重臣に反抗的になるわけですね。


宗教の面でも、元来日蓮宗徒の多い家臣団に対し、妻がキリシタンであった事から改宗を強要したとされ、この事も家中の分断の要因の一つとなったと見られています。

ウエストファリア条約以前のはなしで領主の宗教=領民の宗教という感覚がキリスト教にはありました。

 文禄3年(西暦1594年)、当時国政を担っていた戸川達安(秀安の子)を執政の座から解き、新たに綱直や家正を国政の最高責任者に据えた。すると翌年、傾き者で知られた重臣・花房職秀が宇喜多家中より退去するという事件が発生する。


これ以降、宇喜多家中での不満・対立の鬱積うっせきは、秀家の頼みの綱であった秀吉の薨去こうきょや、石田三成ら奉行衆の失権に伴い秀家の権力が後退するに至って、いよいよ本格的に噴出していきます。


長船綱直は慶長4年(西暦1599年)に死去するが、この頃より家正の専横がひどくなり、達安や岡貞綱(家利の子)ら有力な重臣らが、家正に対する処分を秀家に迫ります。

さあさあ、さあさあ。というわけです。

この要求に対し、秀家は拒否するばかりか首謀者を達安とみなし、暗殺を謀ります。まあ、ひとのクビを狙う以上は自分のクビを覚悟しないといけない時代でした。

これまでの不満を爆発させた達安や貞綱らは、秀家と折り合いが悪かった従兄弟の宇喜多知家(忠家の嫡子、後の坂崎直盛)が持つ大坂玉造の屋敷に立てこもるに至った。所謂「宇喜多騒動」の勃発ぼっぱつですね。

 事態の重さを受け、大谷吉継と榊原康政(徳川家臣)が当初両者の調停に当たるも、各々の事情から吉継・康政の両名ともこの一件から手を引かざるを得なくなった結果、徳川家康自らが調停に乗り出すに至ります。ようやく、翌年の慶長5年(西暦1600年)にひとまず騒動は終息します。達安・貞綱・知家らは他家にて預かり・蟄居という処分が命じられます。まあ、この程度でおさまるわけがありません。5月頃まで、秀家と重臣らの対立は続きます。共通の敵がいなければ仲間割れをするのが人類の集団なのです。


なんだか達観しているようなことを言っているわね。


なお、知家については一旦、秀家の元に帰参したものの、秀家から会津征伐の先鋒隊として徳川家康率いる征伐軍に合流するために関東に派遣されたます。

後に秀家の西軍での挙兵によって実質切り捨てられたとも言われています。

会津征伐の決定直後は家康に協力する気持ちがあったのか、初めから家康を油断させるための策略であったのかは不明です。秀家の性格からは前者と思われますが、なんともいえません。

なお、関ヶ原の戦いの直前となる同年8月に戸川達安から明石全登(行雄の子)に充てた書状には、一連の騒動の原因は秀家のやり方にあることを明記されています。古文書を読める人には面白い資料です。


 お嬢様が古文書をよめるかどうかね。和歌の心得と草書。行書の崩し字がよめることが必要ね。年齢的にはしんどくない?


ぐぐぐ。続けます。

どうにか内乱という最悪の事態こそ回避できたものの、この御家騒動を通して先代からの有力な重臣である戸川達安・岡貞綱・花房正成・角南如慶らのみならず、秀家の信任厚かった中村家正ら直属の奉行人までもが家中を去る羽目になりました。

宇喜多氏は軍事・政治両面において著しい人材不足に陥る事となったのです。


騒動後の領国経営は、中立派として家中に残留した客将の明石全登に委ねられ、上方を中心に人材の登用に務めるなど傾いた支配体制の立て直しに腐心する事となるが、この時宇喜多氏を取り巻く情勢は既に抜き差しならぬものとなっていきます。

 このときどうすればよかったかは経営の勉強にもおもしろそうです。


 お嬢様型が戦争と経営に興味があったらのはなしよねえ。


自分、ほんとにアウェイを感じます。



関ヶ原以降の秀家については次回になります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ