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本編第4話 岡山城岡山城主のはなしから人間の集団や相続に関する話になっていく(6)

二郎のプレゼンテーションのラストスパートです。

本編第4話 岡山城岡山城主のはなしから人間の集団や相続に関する話になっていく(6)


さて、小学生の教科書にも登場する関ヶ原の戦いにはいっていきます。

みなもと太郎先生のマンガ『風雲児たち』は、幕末期の風雲児を描くのが本編ですが、1巻は関ヶ原の戦いから始まります。関ヶ原の戦いでの敗戦側の不完全燃焼が、明治維新の起爆剤となったという視点です。

 なお、秀家はイケメンにはなっていません。

 このマンガでは関ヶ原の戦いは4頁で終わります。


 関ヶ原の戦いについて、東軍は正妻連合、西軍は側室連合といわれることもあります。

豊臣秀吉の正妻高台院が家康耳方したこと、淀君が秀吉の側室であるからです。


側室自体は明治期まで正規の制度でありました。

一夫一婦制が原則で妾の存在が悪いことになるのは、実は日本国憲法以後のことになります。

 

なんだか、さとわちゃんも美羽ちゃんも一夫多妻制に抵抗があるようね。


不純ですわ、と美羽の声。


宗教的に一夫一妻でないとだめでない場合と宗教的に一夫多妻でないといけない場合もあるわね。

 ただ、利害だけでみた場合、女性にとって一夫多妻と一夫一妻はどっちが得と思う。

イケメンについては妻が1人だけだと、その男は一人の女に独占されてしまうわ。

 正妻以外の女性にとっては、一夫多妻のほうがいいわけね。

 でも正妻は制度的に自分の地位が安泰なわけではないから落着けないわね。


 あと、下のほうの男には自分にも妻が持てるようになりやすいということで一夫一妻制を支持することになるわね。

 男女いずれもとっても1枚岩ではないの。利害は錯綜しているのよ。

 いまの日本だと緩やかな一夫多妻制ね。再婚可能性が男子のほうが高いからね。



関ヶ原の戦い

宇喜多騒動の発生する前より、秀家は豊臣政権内での派閥抗争において、岳父の前田利家らと協調姿勢を取っており、さらに利家の死後発生した石田三成襲撃事件の際には、佐竹義宣と共にその救出に一役買っているなど、元々同じ五大老である家康との関係は微妙なものがありました。


加えて、先の御家騒動で家中より退去した戸川・岡らが、家康の下で家臣になった事も、その微妙な関係に拍車をかけたものと見られています。


家康が如何なる思惑おもわくでこのような措置に及んだか、いずれにせよかつて自分の重臣だった戸川や岡、そして花房職秀(宇喜多騒動には直接的な関わりはなかったものの、この当時家康の斡旋で佐竹氏の元に預けられていた)らを自陣営に取り込みにかかるかのような家康の姿勢は、その思惑の如何を問わず秀家にとっては面白からざるものがあったと見る外なく、この事も西軍へくみすること繋がった要因の一つと考えられます。


慶長5年(西暦1600年)7月に、失脚した三成ら奉行衆が打倒家康を期して挙兵するに至り、秀家は予てからの秀吉への恩義などからこれに加担。西軍の副大将として伏見城や伊勢長島城の攻略に当たるなど、三成らと共にその主力を担う事となる。


しかし、前述の御家騒動による軍事力の低下は、明石による人材登用をもってしても如何ともし難いものがあり、また騒動への加担から従軍を認められなかった家臣もいるなど、最早往時のような力を発揮できる状況にはなかった。


それでも関ヶ原戦役においては、毛利勢を除けば西軍最多となる1万7000の軍勢を擁して出陣し、今一つ戦意に欠ける者が多い西軍のなかでも戦意高く事実上の主力として関ヶ原本戦では東軍の福島正則隊を相手に激戦を展開した。この折に福島以外の部隊とも激闘を交え奮戦したとの説もあるが、福島隊だけを相手にして戦ったと見れば、自軍兵力の3分の1強でしかない相手に対して優勢だったものの潰滅・敗走させられなかったのは前述のお家騒動での軍事力低下の為とする説もあります。

鉄砲の確保についても、資料が欲しいところではあります。


ともあれ、最終的には家康と通じていた小早川秀秋などの裏切り勢により、宇喜多勢の側面にあった大谷吉継隊が壊滅した事から横腹を突かれ、これにより宇喜多勢、そして西軍全体も総崩れとなります。


戦後、秀家は逃走します。現在の滋賀県の伊吹山中にて落ち武者狩りの矢野五右衛門の元に匿われ、さらに太秦への潜伏を経て、同じ西軍の島津義弘を頼って薩摩に逃れます。

しばらくの間牛根郷にて島津氏の庇護を受ける事となります。

この間に剃髪し休復と号したとされ、またあくまで伝説の域を出ないものの島津氏から兵を借りて琉球を支配しようとした、との話も残されています。


島津氏による秀家の庇護は次第に噂として広まるようになり、匿いきれないと判断した島津氏は家康の元へと秀家の身柄を引き渡す。時に慶長8年(1603年)、関ヶ原本戦より既に3年が経ち、戦後の論功行賞で宇喜多氏取潰しとなっていた。


流人時代

引渡しの後、島津氏や縁戚関係にあった前田氏からの嘆願で死罪を免れ、始め駿河久能山、次いで嫡子・孫九郎らと共に八丈島へと配流の身となります。当地では姓を浮田、号を久福と改めています。宇喜多姓より浮田姓のほうが多い原因かもしれません。


 現在の八丈島は飛行場もあり、観光開発されていて、ホテルやリゾートもあり快適です。当時は、都落ちの感は強かったことでしょう。


 お兄様、『14歳とイラストレーター』5巻を参考資料にしていましたけど、14歳のヒロインが童顔巨乳家事万能美少女というのが嫌われると思ってはずしましたね。


心を読むのはほんとにやめてほしい。でも、なんで美羽、内容を知ってんの?


秀家の八丈島での流人生活は不自由であったとされています。、当地の代官におにぎりを馳走してもらったり、偶然八丈島に避難していた福島正則の家臣に酒を恵んでもらった、などといった逸話も残されています。

他方で元々の高い身分から、他の流人よりも厚遇されていたとも見られています。

妻豪姫の実家である前田氏や、かつて宇喜多騒動で家中より退去しながらも宇喜多氏再興に尽力していた花房正成からも少なからぬ援助を受けています。

豪姫がなんでこんな援助できる権力があったのか、疑問はあるのですが、歴史的には262年間前田家から援助がなされています。

さらに戸川達安や花房職秀からも援助があった事も明らかにされている。

 試験に出るレバルの人名ではないけど、人間関係の複雑さが垣間見えるエピソードです。

 以下、大阪冬の陣、夏の陣になっていきます。

大坂夏の陣で豊臣秀頼が自害し、豊臣家が滅亡した後の元和2年(西暦1616年)、秀家に対する刑も解かれた。この時前田氏から10万石の分知と、大名への復帰を勧められたともいわれるが、島での暮らしに馴染んだのか、秀家はその勧めを辞退しその後も八丈島に留まったとされます。ただし、その後も赦免に向けて工作していたとする説もあり、真偽は不明です。


こうして50年にも亘る八丈島での暮らしの末、明暦元年(西暦1655年)の末に84年の生涯に幕を下ろした。当時からしても今においてもかなりの長寿であり、当時は既に江戸幕府も4代将軍・徳川家綱(家康の曾孫)の治世に入っていた。関ヶ原の当事者としてこの時点まで生存していたのは休福こと秀家のみであった。


『風雲児たち』では、この八丈島での最期も描かれています。

もともとは、関ヶ原合戦編に登場。やや不細工なおっさん風に描かれている。コテコテの岡山弁を喋ります。関ヶ原合戦後、八丈島への遠島が決定したところへ持ってきて、居城をよりにもよって小早川秀秋に乗っ取られたことで一時は強い希死観念を抱くが、後に遠島先の八丈島で秀秋狂死の報を知るや、再び生きる希望を取り戻します。

最期は島民に看取られて88歳の大往生を遂げます。


二代目岡山城主 小早川秀秋にも簡単にふれておきます。

 経営に興味があれば新参者の長期経営の失敗例ともいえます。


 お嬢様がたが興味を示したら話していいレベルのはなしね。

 だいたいイケメンじゃないし。


イケメン・イズ・ジャスティス

 唱和が聴こえたのは幻聴だろうか。


二代目城主小早川秀秋の狂死についても説話で、豊臣の血をひくものが根絶やしにされていくなかでの自害ではないかという説も有力です。岡山の領主となったあとの領民との手紙では良き領主として実務的なことをいろいろとしています。

ば、秀秋は備前の岡山城を接収したとみられる。

 秀家は岡山城に逃げられる状態ではまったくないわけですね。そら、簡単に接収されますわ。足元もぐらぐらだったわけですし。


このとき、備前に残っていた宇喜多氏の家臣による抵抗はなく、秀秋は無事に岡山城を開城させている。

 

 このときは竜の口本家は関ヶ原から帰れなくなっていって全国に散っていったとう家伝になっているわね。まあ、構成に適当に創作されていると思うわ。

 あ、本家の前で言ってはだめよ。



秀秋は関ヶ原戦後の論功行賞において、備前・美作・備中東半にまたがる、播磨の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山55万石に加増・移封された。秀秋は家臣の知行割り当て、寺社寄進領の安堵といった施策を行う一方で、伊岐遠江守真利・林長吉ら側近勢力の拡充を図ります。宇喜多家の色を消していきます。

慶長6年(1601年)8月頃、秀秋は重臣の杉原紀伊守を誅伐します。相前後して、家老を長年勤めた稲葉正成と対立して、美濃に追放して蟄居させます。このことが原因で、松野重元・蟹江彦左衛門・滝川出雲・斎藤権之助・天野民部・佐々路兵庫ら従来の重臣層のほとんどが小早川家を見限って出奔しています。出奔した者については史料によって差異があます。

見切りをつけられたということでしょうか。

この背景には、旧来の家臣団層と新たに台頭してきた側近層との対立が背景にあると考えられる。他方、秀秋が関ヶ原における「裏切り」を負い目に感じており、その「裏切り」を迫った重臣層を排斥し、罪を贖おうとした可能性もある。


このへんは秀秋像はいろいろです。

自分は、裏切りにそんなに良心の呵責かしゃくを覚えるというようりは了知経営や自分の将来に絶望してからじゃないかと思います。


ひとの良心をあまり信用しない、理想主義のきらいな二郎ちゃんらしい考えね。でも、お嬢様が理想主義をいったときに、否定しないでね。


秀秋は藩政を自らの手で運営し、専制体制を固めることとなります。秀秋は自らの思い通りに藩政の改革を行うことが出来るようになり、藩内では給地や蔵入地、検地、軍事編成、法制などにおいて様々な刷新策が行われている。


説話を題材にした絵画で大谷吉継の祟りに怯える秀秋

「魁題百撰相 金吾中納言秀秋」月岡芳年画、慶応4年(1868年)があります。

 スクリーンに映す。


 250年以上あとに描かれています。悪名が残ってしまっています。


慶長6年(西暦1601年)閏11月、秀秋は上京し、同月から慶長7年(西暦1602年)正月までの間に、名を秀詮へと改めている。

8月12日、秀詮は領国に下向する意思を示し、10月7日には下向したようである[64]。

10月15日、秀詮は鷹狩りを行い、日暮れに岡山城に帰城すると気分が悪くなり、そのまま臥せます。

10月18日寅の刻(午前4時頃)[65]、秀詮は岡山城で死去します。享年21。


秀詮の早世に関しては、関ヶ原における裏切りで戦死した大谷吉継の祟りによって、狂気に陥ったものとする逸話が『関原軍記大成』に記されています。このほか、『備前軍記』においても、「狂気の末に横死した」と記されています。


実際に残されている秀詮の病歴からは、酒色(アルコール依存症)による内臓疾患が死因として最有力となっています。曲直瀬玄朔が記した『医学天正記』には、慶長6年(西暦1601年)7月に酒疸による黄疸の症状が激しくなり、治療をしたことが記されています。『黄疸』の項目には、大量の飲酒による黄疸、みぞおちあたりのしこり、飲食ができず喉が渇く云々とある。『黄疸』のほか、『内傷付飲食(飲食の不摂生による内臓の疾患)』『消渇(糖尿病)』の項目に名前が上がり、食欲不振、酒を飲むと吐く、尿が赤くて舌が黒いなどと書かれています。


秀詮の死後、小早川家は無嗣によって絶家となり、秀詮に与えられていた備前・美作の二国などの領地も幕府に収公されます。これは、徳川政権初の無嗣改易であった。

小早川家の旧臣たちは関ヶ原での裏切りを責められたため、仕官先がなかったなどといわれることがある。

実際には、下方氏や岡田氏、川野氏、川口氏、岩田氏、龍野氏などが旧領に残り、新たに岡山藩主となった池田氏に仕官しています。また、 加賀藩や和歌山藩、土佐藩など他藩に仕官した者もいます。そんなに悪行とは考えられていなかったと思われます。主命にしたがって動いただけんあですから。


このほか、先の騒動で出奔した者の中では、松野重元が柳河藩主の田中吉政に仕え、松延城を与えられている。また、稲葉正成や平岡頼勝のように幕府に召し出され、大名となった者もいる。両者はそれぞれ、美濃に十七条藩と徳野藩を立藩している[73]。

 両者は家康の間諜であったとする小説もあります。

小早川家臣団は解体されました。


 う~ん、華やかさがたりないわねえ。

 ベルサイユのばらみたいに男装の麗人とかでてこないの。


 女城主もいたようですから、いろいろおられたとは思いますが、よくわかりません。だいたいオスカルだって架空の人物ですやん。


非嫡出の男子でも相続できますから、嫡出男子に限らない法制度化での男子の希少さがちがってきたのでしょう。


 あと、あの時代のフランスは男装しないと軍役につけなかったみたいです。


『ベルサイユのばら』のオスカルの男装について

                


池田理代子『ベルサイユのばら』は、1972年から1973年まで週刊マーガレットに連載された漫画作品である。通称「ベルばら」。フランス革命前から革命前期のベルサイユを舞台に、男装の麗人オスカルとフランス王妃マリー・アントワネットらの人生を描く、フィクション作品。フランス本国では『Rose de Versailles (la)』、英語圏では『Lady Oscar』のタイトルで訳されている。


フランス・ブルボン朝後期、ルイ15世末期からフランス革命でのアントワネット処刑までを描いている。前半はオスカルとアントワネットの2人を中心に描き、中盤以降はオスカルを主人公として、フランス革命に至る悲劇を描いた。


宝塚歌劇団による舞台化の大成功が作品のヒットに拍車をかけ社会現象化。1970年代末には実写映画やテレビアニメなどが制作された。


新書版・文庫版・愛蔵版など多くの単行本が発売されている。

2025年に完全新作劇場版アニメが公開された


 オスカルは何故男装しなければならなかったのか。

 軍服が男子用しかないということもあろう。

 

ただ、自分は、当時のフランスの相続法の影響が大きいと推測します。

 

 高校で世界史を選択したひとは、イギリスには女王がいるのに、ドイツやフランスには女王がいない、ということに気付かれたことがあろう。

 自分は中学3年ですが、高校の世界史の教科書と用語集と年表は予備試験の教養試験の勉強でみています。


 これには歴史的経緯がある。百年戦争の傷あとというか影響です。

 フランス王国では、他家(特にプランタジネット家)の干渉を恐れて、サリカ法を根拠として女系を含む女性の王位継承権を廃止した、そのため、女王が選出されることがなかった。ただし、諸侯にはその法は採用されていない。14世紀にフランスでカペー朝が断絶すると、イングランド王エドワード3世(母イザベラがフィリップ4世の娘)が女系の継承権を主張したために百年戦争が勃発した。戦争でイングランドが優位に立つと、ヘンリー6世がイングランドとフランスの王を兼ねると宣言されたが、結局フランスが勝利したため、ヴァロワ朝、ブルボン朝を通じてサリカ法に基づく王位継承が行なわれた。

ドイツでも一般にサリカ法が採用されていた。一例を挙げると、ハノーファー選帝侯(のち国王)は1714年以来イギリス国王を兼ねていたが(ハノーヴァー朝)、1837年のヴィルヘルム(ウィリアム4世)の没後、姪のヴィクトリア女王がイギリス王位を継承すると、サリカ法を採るハノーファーはヴィルヘルムの弟(ヴィクトリアの叔父)エルンスト・アウグストを国王とし、同君連合を解消した。

 長くドイツの影響下にあったルクセンブルクでは1815年の大公国成立以来、オラニエ=ナッサウ家のオランダ国王が大公を兼ねる同君連合が組まれていたが、1890年にオランダでウィルヘルミナ女王が即位すると、女系継承の規定がないルクセンブルクは同君連合を解消し、遠縁に当たるナッサウ=ヴァイルブルク家のアドルフを大公に迎えた。だが2代で男子が絶えてしまったため、継承法を改定して女子の継承を認めることとなり、女大公が2代続いた(マリー=アデライド、シャルロットの姉妹)。

 スペインでは、従来は女性の王位継承が認められていたが、フランスのブルボン朝(スペインではボルボン朝)から入ったフェリペ5世が1713年王位継承法を制定してサリカ法導入に踏み切った(ただし、男系が絶えた場合の女子の相続は例外的に認めた)。しかし、曾孫のフェルナンド7世には男子が生まれず、娘のイザベル(後のイサベル2世)に王位を継がせるために1830年に同法の廃止を宣言した。しかし、フェルナンドに不満を抱く保守派は宣言を無効として次弟のドン・カルロスを次期王位継承者として擁立し、1833年から3度にわたってカルリスタ戦争を引き起こした。20世紀に入っても「カルリスタ」の運動は続いたが、1936年にドン・カルロスの男系子孫が断絶すると、1713年王位継承法でもイザベルの息子であるアルフォンソ12世の男系子孫が王位継承者となるため、これを容認するかで内部分裂を起こして衰退することになった。現在のスペインの憲法体制下ではアルフォンソ12世の曾孫であるフアン・カルロス1世の子孫が男子優先長子相続制に基づいて王位を継承することになっている。

 オスカルは、ド・ジャルジェ伯爵家に男子が産まれなかったため、オスカルが男の子として育てられる設定であり、サリカ法典の影響を受けたのである。

 ラスト前、民衆のためバスチーユ襲撃を決意するオスカルは伯爵家の地位を捨てることを宣言する。宝塚歌劇でもアニメでも見せ場になっている。中西久美子『かげきしょうじょ!!』では宝塚歌劇ファン(作品内では紅華)の主人公さらさがこのシーンを再現するところがある。

 伯爵家存続のための男装で軍服であったが、伯爵家よる身分は捨てても、民衆のための自己犠牲としての軍服は捨てなかった。

 やはりかっこいいですねえ。

 自分も女子なら惚れると思います。


 まえにでてきた佐藤賢一『王妃の離婚』と教会法についても触れておきます。


佐藤賢一『王妃の離婚』は時代小説で法廷小説です。法廷ミステリとか推理小説とは章によるネタばれがあるので、いいにくい小説です。第121回(1999年上半期)直木三十五賞(直木賞)受賞作品です。

新潮社からの単行本は1999年、新潮文庫に2002年にはいっています。


1990年代だと塩野七生『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』も新潮文庫の定番であり、投書の読者は、本書でのフランス、チェーザレはイタリアにおける同時代の出来事と検討がつき、ある程度歴史的事実の先読みが読者のほとんどにみえていたことであろう。そのためか、法廷ものだが、章ですぐ内容がわかるようにはなっている。

 ただし、以下のあらすじではふれていないどんでん返しがあって、読後感がさわやかになる。


あらすじは以下のとおり。

目次をみれば裁判のゆくえはわかってしまう。


プロローグ

1478年、パリ大学の学僧:フランソワ・べトゥーラスは、カルチエ・ラタンで同棲中の恋人:べリンダ・オブ・カニンガムに結婚を申し込む。しかし、べリンダは修道士であるフランソワの将来を思い、求婚を言葉巧みにかわす。フランソワは、カルチエ・ラタンの伝説であるアベラールとエロイーズに自らを重ね、べリンダへの情愛を抑えられずにいた。


第1章

1498年9月13日、トゥールはサン・ガシアン教会(英語版)に設置された特別法廷に、フランス王ルイ12世の「婚姻の無効」を争う裁判で王妃:ジャンヌ・ド・フランスが出頭するため、世間の注目を大いに集めていた。大勢の傍聴人の中には、暴君であったルイ11世の配下の襲撃により失脚させられ、その娘であるジャンヌ王妃の苦しむ姿を見ようと、今はナントの弁護士となったフランソワの姿もあった。王妃は、全面的に争う姿勢を見せ、裁判は膠着する。


フランソワは、後輩で今はソルボンヌ学寮の副学監となったジョルジュ・メスキや、べリンダの弟で今は近衛隊長となったオーエン・オブ・カニンガムと再会する。オーエンは、フランソワをジャンヌ王妃に対面させるが、フランソワは弁護の依頼を断る。


10月12日、今はアンボワーズのサン=ドニ教会で行われる裁判で、国王と王妃の結婚が肉体的に成立していたか否かの証明として、検事は王妃に「処女検査」を要求した。屈辱的な要請に、王妃は新たな弁護士を立てることを判事に申し出る。圧倒的に不利な状況の中、傍聴人の中からフランソワが名乗りを上げる。


第2章

フランソワは「処女検査」の条件として、公開検査と国王の「男根検査」を要求した。一同が唖然となる中、フランソワは大胆かつ雄弁にその必要性を語り、充実感を得る。フランソワと王妃は、裁判の打ち合わせを重ねる中で、二人は王妃の侍女となったべリンダのことを思い出す。フランソワはやがて、「結婚が完成された」証明として医師コシェの証人喚問と、その内容によりルイ12世自身の召喚を認めさせた。世論は不遇な王妃寄りであり、フランソワの活躍を称える。


ジョルジュ、そしてフランソワ襲撃の実行者であったオーエンの協力を得て、フランソワはパリで医師コシェを捜索する。中でもジョルジュの教え子である学生フランソワ・オブ・カニンガムは協力的であった。学生フランソワが下宿している部屋は、かつてフランソワとべリンダが同棲していた部屋であり、フランソワは思い出に浸る。


10月26日、医師コシェは証人として、国王と王妃の「結婚が完成された」場所、日時、その様子を証言する。


第3章

国王は再婚を予定していた、先王シャルル8世の王妃アンヌが領地へ引き上げたことに焦り、フランソワを自分側へ引き抜こうとするが、全てを他人のせいにする国王の器量の小ささを目の当たりにし、フランソワはこれを断る。さらにローマ控訴院からも声がかかるが、これも断る。


11月4日、非公開となった裁判に赴く途上、フランソワと王妃は襲撃を受け、護衛のオーエンが死亡する。翌日、フランソワは過去の経験から、優位に立ちすぎたことに不安を覚えながらも、法廷で攻撃的な弁護を継続する。興奮し我を失った国王は、ジャンヌ王妃との肉体関係を否定する。ところが、打ち合わせに反し、王妃自ら国王の発言を否定し暴れ始めてしまい、休廷となる。


その夜、ささやかな愛の思い出さえ否定された王妃は意気消沈し、フランソワは裁判の継続を勧め、王妃を励ます。ジャンヌ王妃は、フランソワに自分を抱いてほしいと伝えるが、フランソワはそれが「できない」理由を明かす。二人は裸になり、肉体関係なしに愛し合うことで互いの心の傷を癒す。そして王妃は、国王との離別を決心し、フランソワにある事実を告げる。


エピローグ

12月17日、裁判は陳腐化し、「結婚の無効取り消し」が認められた。フランソワは名を上げ、アンヌ新王妃からも顧問弁護士の依頼があっただけでなく、再びパリ大学での学問の道が開かれようとしていた。そして、フランソワ・オブ・カニンガムと再会し、二人は未来への歩みを始めるのだった。


 カトリックの国では20世紀なかばくらいまでは離婚禁止であったはずで、そもそも離婚ができるのか?という疑問がわくことであろう。チェーザレ…を読後のかたは答えも検討がつくはずである。

 離婚ができなければ婚姻を無効にすればいいのです。取り消せなければ無効にしよう。

のだ。

 チェーザレ…では妹を何度も政略結婚させるために何度も婚姻無効にしている。

 本書も離婚概念には婚姻無効を含めて、離婚としているのである。日本民法の離婚概念は将来効力のみであり、婚姻無効は含まれていない。


 同じ用語が意味を異にすることは法律ではよくあります。


 婚姻障害には親族関係(あとでわかったが近親だったということです)のほかに性行為がなかったというものもある。

 そこで、性行為がなかったことにしてしまうおうと国王側がはかったが、今度はそれなら国王の性的不能を証明して無効になるのがさきではないか、と王妃側が反論する。

国王が性的不能だと婚姻が無効となっても、次なる婚姻が認められないことになり、国王の政略結婚の目的はかなえられないことになります。。

となると、ここの争点以外で、国王側は穏便にまとめていくしかないわけである。


再婚をするためにはローマ・カトリックと縁切りをしたヘンリー8世とは違ったやりかたをしたわけである。ヘンリー8世は16世紀、本書は15世紀であり、コロンブス交易によって商業が強くなり、相対的にローマ・カトリックの力が弱くなる前の時代であった。

 官僚機構や会社組織を王様や民間商人が自前でもつまえの段階でした。


婚姻無効や相続のありかたは、法学部の国際私法の講義を受けているとよくわかります。


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