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本編第4話 岡山城岡山城主のはなしから人間の集団や相続に関する話になっていく(4)

二郎の宇喜多直家に関するプレゼンテーションが進みます。

本編第4話 岡山城岡山城主のはなしから人間の集団や相続に関する話になっていく(4)

 とりあえず、自分のもとから考えていたプレゼンテーョンに戻す。


 戦国武将マニアとか歴史マニアでしたら、以下の点について調べたうえで現地調査というのは、如何いかがでしょうか。岡山の図書館で郷土資料をあされば1週間なんですぐです。

 そのあと関連の土地をまわっていきます。

 備前だと天神山城・奈良都城・沼城・高取山城・砥石山城・乙子城・明善寺城・石山城・中島城・舟山城・竜の口城・金川城・彪倉城・忍山城・高松城です。

 高松城の場合は秀吉の水攻めと中国大返しの関連遺跡もまわれます。


 城と戦場の跡でしょ。おしゃれなものとかあるの。美羽の声だ。お嬢様といっしょに楽しめるイベントのほうがそりゃいいだろうし、美羽は戦場マニアでも城マニアでも戦国武将マニアでもない。日本史の知識も中1だと乏しいだろう。


お兄様、わたくしの歴史知識が乏しいと思いましたね。


心を読むのはやめてほしい。あと、やはり、お兄様呼ばわりは、まわりの眼が怖い。眼の壁を感じる。




 おしゃれなスポットは自分にはわかりませんが、ないと思われます。。でも、ここにしかないものがあるわけです。


 リムジンタクシーやマイクロバスを使えば簡単にまわることができます。


あ、いい忘れていたけど、庶民レベルなので、原則公共交通機関のみの利用ね。これは田舎の県ほど不利かもしれないわ。


 モーターリゼーションの発達した時代に何よんなら。


 犬山の声だ。おもわず地がでて方言になったのかもしれない。


自動車なしではやっていけない県として岡山県・長野県・沖縄県があるのに、なんでそんなことすんの。


まあ、しょうがないわね。歩いていける範囲で考えておくことね。


Bプランを余儀なくさせられるということか。

城跡とか城の歴史はプレゼンテーションの用意があったのに、ちくそー。

 岡山図書館までは徒歩または路面電車でアクセスできます。

 岡山城・岡山県立図書館で学芸員に説話と現段階の歴史資料とでの直家像につい説明してもらいます。


どんなものが出てきそうなの。


 Bプランを話していく。

 直家の幼少期から死亡時まで、説話との対比もしてみました。


BGMバックグラウンドミュージックに映画『砂の器』1974年よりピアノと管弦楽『宿命』が流れる。



幼少期

直家は、享禄きょうろく2年(西暦1529年)に4代目当主・宇喜多興家の子として生を受けます。名家のぼんぼんです。しかし、天文てんもん3年(西暦15344年)に先代当主で祖父の宇喜多能家が、播磨の赤松晴政の手の者により砥石城にて殺害されてしまいます。さらに、この少し後には父・興家も、同じ浦上家中の島村一族の子供衆との諍論の末に殺害されます。

結果として宇喜多氏の惣領は分家の宇喜多大和守に移ります。

幼少期の直家は後ろ盾のない状態で不遇の日々を過ごす事になります。牛の世話をしていたという説話もあります。

 裏切りを繰り返し、『信長の野望』で義理のパラメータが3になってしまうのは、幼少期に裏切りによる暗殺で祖父と祖母をうしなったせいかもしれません。宇喜多家復興の期待は彼ひとりに集まっていました。


 チェーザレ・ボルジアはその点、暗殺にせよ、イタリア支配欲にせよ、なんでそうなったのかはよくわからないところがあるわね。単に戦争とか暗殺とか謀略が好きなだけだったのかしら。


 まあ、そういうひともいるでしょうね。


おさらいですが、直家の祖父と父の相次ぐ横死については、これまで軍記物などで次のように語られてきた。

 祖父の能家は、当時宇喜多家と険悪な関係にあった島村盛実と、能家の異母弟であった浮田国定らの奇襲に遭いやむなく自害した。この時父・興家は直家と共に備後に逃れ、放浪の末に当地の豪商であった阿部善定を頼る。阿部家に身を寄せた興家は善定の娘を娶り、直家の異母弟に当たる忠家、春家の二人の男児にも恵まれたが、家臣らからは「父(能家)とは大違いな愚か者」との批判にさらされ、そのストレスを苦に病死もしくは自害という形でこの世を去った…とされています。重野なおき『殺っちゃえ、宇喜多さん』はこの説を採用しています。


しかし、以上の説話についてはいずれも同時代の史料上にて確認出来るものではなく、実態としては能家の死はあくまで主家である浦上氏と、敵対関係にあった赤松氏の抗争に関連してのものに過ぎない。島村・浮田の関与は不明。

た興家が亡くなった経緯についても、説話と実際の記録との間で明らかな相違が生じており、傷沙汰の調停に盛貫が当たっていた事が、いつしか説話へと転じていったのではんないでしょうか。歴史の真実はおもしろくないほうに転ぶようです。


美羽は退屈そうで、紅茶のおかわりをしている。

中学生には事実認定がひっくりかえることのおもしろさは通じないのかもしれない。

まだ芥川龍之介『藪の中』をおもしろくは読めないだろうなあ。


お兄様、なにか失礼なことを考えていますね。


心を読むのはやめてほしい。


また。宇喜多氏や浦上氏に対する研究が進むにつれ、そもそも直家と能家の間柄についても、本当に実の祖父と孫の間柄であったのか、そして直家の父が本当に興家であったのか、という従前からの「前提」に対しても疑問が呈されれいるようです。


 成人後の直家

浦上氏との関係

成人した後、直家は備前天神山城主・浦上宗景の傘下に加わります。天文13年(西暦1544年)には、かつての浦上氏の主筋でもあった赤松晴政との合戦で初陣を飾り、ここで武功を立てた事で吉井川河口の要衝・乙子城を与えられたと伝わっています。

 乙子城はいまでは河口までの距離がありますが、当時は海に面しており、交通の要衝でした。残念ながら公共交通機関でと徒歩ではいきにくい場所ですし、自動車でもけっこう大変です。


 あ、調べたことを全部いいたいのはわかるけど、ボツになったものにそうそう固執しないでね。


 ぐぬぬ。

 当時の浦上氏は、先代当主・村宗(宗景の父)が大物崩れ(赤松政祐(晴政)・細川六郎(晴元)連合軍と浦上村宗・細川高国連合軍の戦い)にて戦死し、宗景の兄の政宗が家督を継いでいた時期です。

天文20年(西暦1551年)より始まった尼子晴久の備前侵攻への対応を巡って、兄弟間で意見が対立していました。

 政宗は尼子晴久・松田元輝らと結託し、宇喜多大和守もこれに従う一方、宗景は毛利元就や三村家親ら「備中衆」と同盟し、浦上氏は分裂状態に陥ったのです。

当時、宗景と従属的な同盟関係にあった直家も宗景方に属してこの両者の抗争に従軍します。直家は、浦上家臣団の中で頭角を現していきます。


弘治2年(西暦1556年)頃には、政宗方であった宇喜多大和守の籠る砥石城を攻めこれを討滅します。直家は、祖父の横死以来大和守家に移っていた宇喜多氏の家督を回復したのです。

その後家中の有力者であった島村盛貫、そして舅の中山勝政が、前述の通り浦上兄弟の和睦に伴って相次いで殺害されるに至り、直家は父祖の地である砥石城、さらに勝政の領していた沼城をも手に入れます。


Aプランで用意していた城跡の画像をうつしておく。


直家の勢力拡大

その後、永禄9年(西暦1566年)には備前や美作に侵攻し、備中の三村家親を、美作興善寺での軍議中に暗殺します。ちなみにこの家親暗殺は鉄砲を用いた日本最初の暗殺であり、暗殺を実行した遠藤秀清・俊通兄弟は後に宇喜多家中で重臣に取り立てられます。


さらに、翌年の明善寺合戦では家親の子・元親率いる2万もの軍勢を、5000の兵で4倍もの兵力差を覆して討ち破った、

これが説話です。

そもそもこの明善寺(妙善寺)合戦で、直家が実際に干戈を交えたのは三村元親らではなく、毛利方の備中国人である石川久智(三村家親の岳父、清水宗治の旧主)です。

家親の横死を経て宇喜多方に包囲されていた龍ノ口城(この頃は久智の配下が城を守備していた)の救援のために石川勢が出陣したところ、宇喜多氏や松田氏らの軍勢に破れた久智ら500名余りが討死したと、比較的成立年代の早い中島氏の奉公書には記されています。40倍盛られていることになります。


明善寺合戦の折、直家の長女(『宇喜多の捨て嫁』では初)を嫁がせ姻戚関係にあったのにも係らず、松田元輝(左近将監元堅)・元賢親子が援軍を寄越さなかった事で、直家からの不興を買う事となります。不吉な前兆ですね。っこわいですね。おそろしいですね。


 ベタな盛り上げはしなくていいから。

 犬山は冷たい。


また。松田親子が狂信的な日蓮宗徒となった事で、領内では他宗の寺社や領民が日蓮宗への改宗を迫られ、これを拒んだ寺社を打ち壊しに及ぶ事もしばしば見られるようになった。領内は大いに荒れ、領民や家臣達も徐々に怒りを募らせるようになっていった。


そんな中、2年後の永禄11年(西暦1568年)に松田氏の居城・金川城付近で行われた鹿狩りの折に、直家は松田家臣団の中心人物である宇垣与右衛門を手の者を使い射殺。下手人は「鹿と間違えた」という弁明し、元輝も宇喜多氏との関係を考え黙認するが、与右衛門の兄・宇垣市郎兵衛は激怒し絶縁状を突きつけて出奔しました。

元輝と家臣団との関係にも更なる不協和音を生じさせる結果となった。


しめしめ、これを好機と見た直家は、元輝と対立していた松田氏重臣・伊賀久隆を寝返らせ金川城を包囲させると、元輝を鉄砲で討ち取ります。

代わって指揮を執った元賢も懸命に防戦するも衆寡敵せず、城を捨てて逃亡を図るも程なく敗死に追い込まれた。この時、元賢の妻として嫁いでいた直家の長女も自害に及ぼ、あそた・

と説話で語られています。『宇喜多の捨て嫁』もこれを採用しています。

明善寺合戦の実際の推移、それに「誤射」で落命したとされる宇垣与右衛門の名が、直家晩年~秀家若年の頃の宇喜多家臣団の中にあったとする資料などから、例によって現在では多分に創作が入っているものと見られています。


 夫のために殉死したことを美徳と考えるかどうかね。儒教道徳にしばられてなければ、さっさと逃げ落ちればいいのにね。

 犬山はドライだ。


元亀元年(西暦1570年)には、石山城主の金光宗高を毛利氏への内通を口実に切腹させます。後に直家はそれまでの沼城から石山城を宇喜多氏の新たな居城と定めます。これに伴う西国街道の付け替えや、備前福岡・西大寺などからの商人誘致による城下町の整備など、積極的な経済振興策も行っています。このへんは現在の表町などのもとになるので、お嬢様がたを岡山城や後楽園にいったついでに案内してはいかがでしょうか。


表町にお嬢様がたが気に入るようなものがあるかしら。


自分にはわかりません。若い人向けには問屋町のほうがいいかもしれません。バスで行けるとは思います。


ちょっとふてくされた返答だったかもしれない。


プレゼンテイターが感情をもろに出してはいけないわ。スマイル、スマイル。


失礼しました。


むりやり口角をあげる。暗殺のはなしをしながら笑顔というのも、自分がサイコパスになった感じだ。


浦上氏との抗争

直家は浦上家中きっての実力者へとし上がりました。

支配体制を巡る見解の相違や、浦上氏が毛利氏のみならず室町幕府とも対立するようになった事から、それまで同盟関係にあった宗景とも袂を分かつ事となる。

 まあ。音楽性の相違でバンドがぎくしゃくするようなものでしょうか。


 お兄様、さすがに、それは違うと思います。

 ボケについて、もう少しいいツッコミが欲しいところだ、妹よ。


直家が最初に宗景との抗争に踏み切ったのは永禄12年(西暦1569年)の事で、この時は西播磨の赤松政秀や、それまで敵対関係にあった毛利氏、そして上洛して程ない織田信長・足利義昭と結託して宗景に対抗するが、政秀は黒田職隆・孝高親子との合戦で敗北し弱体化します。また信長が派遣した池田勝正らの軍勢も織田氏の越前出兵への動員のため撤兵し、孤立状態に陥った直家は、共通の脅威たる毛利氏への対抗のため宗景との和睦を余儀なくされました。

その後の直家は宗景とともに毛利氏と対立しつつも、こちらも宗景と引き続き対立関係にあった義昭・信長政権に臣従しその縁を通じて、浦上氏と毛利氏と間の和睦に漕ぎ着けました。この一件はそれまでも同盟相手とはいえ従属的な立場にあった宇喜多氏が、明確に独立する契機ともなったと見られている。


天正年間に入って足利義昭が織田信長と対立し京都を追われ、一方では宗景が信長に接近して、備前・播磨・美作の3カ国の支配権を認める朱印状を得た事は、幕府を後ろ盾としていた直家の立場を揺るがすことになります。

 信長包囲網がしかれていく時期ですね。

 進退窮まった直家は、朱印状の件などで信長への不信感を抱きつつあった毛利氏からの支援を取り付け、また密かに美作や備前国内の国人らへの調略を進め、天文2年(西暦1574年)に再び宗景への対立姿勢を鮮明に打ち出します。

 昨日の敵は今日の友。


いや、そんなさわやかな話やないし。

犬山、いいつっこみをありがとう。


事前の調略が功を奏してか、美作・備前の浦上方国人も相次いで宇喜多方に与し、緒戦では直家が戦局の主導権を握る格好となった。しかし、宗景も配下の国人らの引き止め工作に努めて反攻に転じ、戦線は膠着状態に陥いります。

膠着状態を打破すべく、直家は毛利氏との連携を強め、宗景方に与していた備中の三村元親を討滅。さらに天正2年末から翌天正3年(西暦1575年)春頃にかけて、宇喜多氏と浦上氏が実質的な休戦状態に入っていた間、直家は当時播磨の小寺政職の元にあった浦上氏の一門・久松丸(浦上政宗の孫)の備前入りを政職に打診し、その身柄を確保する事にも成功します。

久松丸という旗頭を得た直家は、天正3年(西暦1575年)4月に再び宗景打倒を期して挙兵。当初は頑強な抵抗を続けていた浦上方も次第に劣勢に追い込まれ、同年夏頃には本拠である天神山城に籠城せざるをえなくなった。そして8月に入ると明石行雄ら宗景の重臣らも内応に及び、直家は天神山城を攻めて宗景を播磨へと追放。ここに下克上を果たした直家は、備前・備中の一部・美作の一部を領する戦国大名の一員へと伸し上がりました。

講談とかドラマならここでおわればいいのですが、実際は領土はとるようりも維持するのが難しい。これからも試練が直家の襲い掛かります。


その後も坪井氏・馬場氏など備前国内に残る浦上氏旧臣らの抵抗は根強く、宗景らも播磨からこれら旧浦上勢力を密かに支援するなど、こうした動きは数年に亘り直家を悩ませつづけます。さらに天正6年(西暦1578年)末には幸島を拠点に浦上氏の残党が一斉蜂起し、一時は天神山城をも手中に収めるなど猛威を振るいました。


だが直家は、この機会に備前・播磨の旧浦上勢力の一掃を図り、さらに宗景を支援していた美作鷲山城主・星賀光重や周匝茶臼山城主・笹部勘二郎らが討たれるに至り、宗景の領主復帰の野望も敢え無く挫かれる事となる。時に天正7年(志歴1579年)4月頃の事であったと伝わる。このころ直家満で50歳くらいです。


最晩年の直家

その後も宇喜多氏による旧浦上勢力の駆逐は続き、天正7年(西暦1579年)5月には旧浦上勢力と結託していた東美作の後藤勝基を、本拠である三星城を宇喜多軍によって陥落させられた末に自害に追い込みます。またこの頃には羽柴秀吉率いる織田氏の中国方面軍が中国路にまで進出しており、直家も毛利氏との同盟関係からこれに対抗していました。

しかし、信長の勢威にこれ以上抗し続けるのは不可能と判断したのか、程なく毛利氏と手を切り織田氏に臣従の意を示した。


その後は美作・備前を中心に毛利軍と干戈を交えるも、この頃から直家は「尻はす」と呼ばれる重い病に悩まされるようになったとされ、死期を悟った直家は嫡男・八郎(秀家)の事を秀吉に託す一方、義弟の伊賀久隆を毒殺したとされるなど、後顧の憂いを断つべく動いていた節がいくつも見られます。そして天正9年(西暦1581年)の末に居城・岡山城にて52歳で死去。但し、その死はしばらく伏せられていたため、公式な忌日はそれよりさらに後の天正10年1月9日(1582年2月1日)とされた。


主な家臣とししられるものは以下のとおり。

墓をめぐるのも…


さえぎられがたスクリーンにはリストを遷した。


戸川秀安…「宇喜多三老」の一人。侍大将として各地を転戦。最終的に筆頭家老となる。

岡家利(岡利勝)…「宇喜多三老」の一人。刀槍の達人で朝鮮で陣没するまで戦に明け暮れる。その数40余。

長船貞親…「宇喜多三老」の一人。主力部隊を率いて各地を転戦。上月にて黒田官兵衛を撃破した程の実力者。

花房正幸…元赤松家臣。弓の名手にして教養人。その功績は忠家や三老に劣らない。

明石行雄(明石景親)…元浦上家重臣。宇喜多家客分。妹婿説あり。明石全登の父。

延原景能…元浦上家重臣。知勇兼備の名将。美作上山城主。

遠藤秀清…元阿波細川家臣。「遠藤兄弟」の兄。鉄砲の名手。

遠藤俊通…元阿波細川家臣。「遠藤兄弟」の弟。鉄砲の名手。

角南重義(角南如慶)…美作出身の外交官。日蓮宗徒。

小西行長…堺出身。豊臣秀吉の家臣として知られるが当初は宇喜多家臣だった。


う~ん、イケメンの数とかロマンスがたりないわね。


それは秀家で行けると思います。

秀家のプランはAプランでもいれていた。


二郎は地図を示しながらはなしているんですが、地図表記の描写は省略しています。

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