十四話 生存持論
塹壕戦──。
それは近代以降に生まれた戦術ではなく、この過酷な世界においては、既に半ば常識として確立された戦争形態であった。
最大の要因は、「魔導」の存在である。
汎用攻撃魔法。
軍事教本上では『魔導火砲』と総称されるそれは、術者個人の力量差こそあれ、従来の城壁・盾列・密集陣形を容易く吹き飛ばした。
一度、空を灼く魔力弾が降り始めれば、平原に立つ兵はただの的でしかない。
加えて、降り注ぐ長弓と弩箭。実戦投入が進む火器。テルシオ陣形と長槍密集隊形の普及。騎士による局地決戦から、国家総力による消耗戦への移行。
それら全てが、「地中へ潜る」という結論へ収束していった。
それが幾度もの戦場で自然発生的に辿り着いた答えであったのか、あるいは名も残らぬ誰かが最初に提唱した軍略であったのか──。
ただ一つ確かなのは、平原に立ち続けた兵から先に死んでいった、という事実だけである。
兵は土を積み、銃眼を穿ち、泥の中で生き延びる。
塹壕とは防衛設備ではない。
次の一秒まで死なないための穴である。
そして、その塹壕構築において最も重宝された道具が、『軍用掘削鋼匙』──通称、"軍用スコップ"であった。
本来は工兵装備として支給されたそれは、やがて、土木工具、簡易鍋、即席の盾、白兵武器、埋葬器具として扱われるようになる。
兵士たちは半ば冗談交じりにこう語る。
「銃を失っても生き残れる。だが、スコップを失えば死ぬ」
と。
なお、戦時条約なる概念が未だ曖昧な現代において、工兵部隊の損耗率は極めて高い。
敵陣へ最初に近づき、最初に塹壕を掘り、最初に砲火を浴びるからだ。
特に魔導火砲が投入された会戦では、先遣工兵隊の半数以上が帰還しなかったという記録も珍しくない。
そう、ヴェリアブルガは――。
二
「最悪……、だと?」
その異様すぎる肩書きに、自然とベアトリーチェの剣が正中線に掲げられる。
しかし、等のヴェリアブルガは主武装であるスコップを担いだまま、頭をポリポリとかいているのみ。
「……なるほど、"同僚"ってことね」
目元にある古傷を指先で撫でながら、低い声色で呟いた。
目を凝らせば、若々しい顔立ちを貼り付けた顔と肩から腕にかけて傷跡が残っている。その古傷の数々、そして冷たい殺気を放つ視線だけで、歴戦の軍人と悟ってしまう。
「……あ、ああ。私も、同じ聖七天大英雄だ」
戸惑いつつ、ゆっくりと剣を傾ける。
その様子を目敏く見抜いたのか、ヴェリアは今一度短くため息を残した。
「だから、戦う気は無いって。さっさとしまえよ」
中々にぶっきらぼうな物言い。
可愛げの残る声と顔立ちからは、違和感しかない態度であった。
圧倒されつつ、ベアトリーチェは素直に剣を仕舞う。
「…………新任の大英雄、ね。重役が呑気に散歩か」
皮肉が飽和したような言い方。
ベアトリーチェはその台詞に唇を顰めながらも、
「君こそ、大英雄ならばこんな所で何を……」
彼女の言通り、ヴェリアの見た目は威厳ある大英雄などとは予想がつかない。
戦場渡りの、泥臭い傭兵にしか見えなかった。
「……いやいや、なん――」
その問に、彼女の顔は辟易するような色が滲む。
まるで愚問か、分かりきっているだろと言わんばかりの表情。
しかし、その語尾は断ち切られた。
「…………は?」
これまで人間らしい感情が乏しいヴェリアだったが、初めてその顔に驚愕が浮びあがる。
その目はベアトリーチェの背後を睨みつけていた。
「いやはや……。こんな繁茂の中を進むとは、せわしいお二方だ」
ガサガサと草木を掻き分けて、和かな呟きを吐く青年。リュウドウが、ベアトリーチェの背後に歩み現れた。頭には落ち葉がくっついている。
「あっ、リュウドウ……」
歩み寄った彼に顔を向けた。
すると直ぐ後ろにもう一人の人物がいた。
「待ってくれよ嬢ちゃん……、よくそんなにズカズカ進めんなぁ。こりゃジャングルだあ、俺には無理だぜ」
バキバキと枝を折りながら、大柄な男性が近づいて来る。その口数と口調は、一瞬にして彼の陽気さを表していた。
リュウドウが振り返って、彼の様子を窺っている。先程の口ぶりから、合流前に知り合ったのであろうか。
「おぉッいたいた。ヴェリアさん、置いていくのは違ぇって」
現れたのは高身長の青年。
緋色と濃紺の派手な髪に、爽やかで明るい笑顔が特徴的だ。
しかし、彼が背負っている武器は異色そのもの。
エグゼキューショナーズソードである。
呼びかけられたヴェリアは、依然として険しい表情でベアトリーチェの背後――否、リュウドウを見ていた。
「なんで、魔王と一緒にいる」
口を歪ませ、警戒するような声色。
動揺を滲ませない、抑えられた口調だが、その引き攣った表情が感情を表している。
「え?魔王って?」
ヴェリアの表情に、青年が怪訝な顔で歩み寄った。
当然ながら彼女の言葉が理解出来ないように、その陽気な態度は変わらない。
「そのガキのことだ」
目を細め、睨みつけながら指をさした。
何食わぬ顔で立っているリュウドウは、丁寧な手つきでベアトリーチェの衣服に着いた草葉を払っている。
「……えぇウッソ」
青年は眉間に皺を寄せながらも、気の抜けた声を漏らした。
並び立つ大柄の青年と、最悪の大英雄とやらを眺め、ベアトリーチェは小さくため息を吐いた。
――……どうやら、互いにじっくりと話す必要がありそうだ。
三
「……一旦、近くの集落を探さないか。落ち着いてから話そう」
ベアトリーチェが口火を切った。
誰も反論はしない。
ヴェリアは黙ったまま視線を逸らし、レヴィンは周囲を見回してから小さく頷いた。
リュウドウは何も言わず、ただ穏やかな顔で立っていた。
道中、名を交わした。
「一応名乗っておく。ベアトリーチェ=アウレリア・ロードスクヴェルトだ。新任の大英雄で、今は修行旅の途中だ」
努めて平静に告げたつもりだったが、ヴェリアの目が一瞬だけ細くなった。
品定めするような、しかし関心とも取れない、奇妙な色の視線。
「……私は」
ヴェリアは一拍置いた。
それから、僅かに目を伏せる。
「名乗らなくていいか」
「俺はレヴィンフェルド・バンディヘンケルン! よろしく頼むぜ!」
大柄な青年が、弾けるように声を上げた。
その笑顔は、この場の重さを気にも留めていないのか、あるいは意図して吹き飛ばそうとしているのか、判然としない明るさだった。
三人の視線が、自然とリュウドウへ向く。
彼は少し前に出た。
柔らかな所作で口を開こうとした、その瞬間。
「……あの、さ」
レヴィンが遮った。
声のトーンだけが、先程と打って変わっている。
「魔王って、ほんとなのか?」
恐る恐るという他ない言い方だった。
しかし目は真剣で、その大きな体が僅かに固まっているのが分かった。
「私が言ってるんだから、嘘なわけ」
ヴェリアが吐き捨てた。無気力な、面倒を抑え込んだような声色。
しかしその目はリュウドウではなく、どこか遠くを見ていた。
レヴィンはしばらく黙った。
リュウドウを頭の天辺から足の爪先まで、ゆっくりと眺め回した。
穏やかな顔立ち。
整った立ち姿。
背丈は自分より随分低い。
とても、という言葉がその顔に滲んでいる。
それから正面に向き直った。
「…………マっジか」
それだけ言った。
言葉は続かなかった。
しかし、腕を組んだまま小さく口を動かしている。
何かを咀嚼しているようだった。
当のリュウドウは、その一部始終を静かな目で受け止めていた。困った様子も、苦笑する様子もなく、ただ穏やかに、そこに立っていた。
それがかえって、ベアトリーチェには落ち着かなかった。
「えっと、私は行商人の……――」
フェンネが恐る恐る、肩を縮こませながら名乗ろうとした直後、
「行くならさっさと移動しよう」
ヴェリアが踵を返した。
そのまま、歩を止める気などない様子だ。
「アゥ」
言葉を詰まらせたフェンネは、俯きながらも歩を進める。ベアトリーチェとレヴィンが戸惑いつつも、彼女を慰めるように両脇へと寄り添った。
森を抜けると、なだらかな起伏の続く野道が現れた。
昼過ぎの陽は傾きかけており、空の青に僅かな橙が滲み始めている。
風は穏やかで、草の匂いを運んでいた。
先頭を行くのはヴェリアだった。
スコップを背に担いだまま、振り返りもせず進む。その足取りは淀みなく、確かで――迷いというものが、最初から存在しない歩き方だった。
その後ろをレヴィンが続く。
時折ヴェリアの背中を、次いでリュウドウの背中を、交互に盗み見ている。
どちらを眺めるときも、その表情は微妙に違った。
「……ほんとに、魔王なんだよなぁ」
独り言とも話しかけとも取れる声量で、レヴィンが呟いた。
「気になりますか」
リュウドウが穏やかに返した。
声には咎める色も苦笑もなく、ただ静かだった。
「いや……、まあ」
レヴィンは頭を掻いた。
「気にするだろ、普通」
「そうですね」
リュウドウは微笑んだ。
それだけで会話が終わった。
ベアトリーチェは二人のやり取りを横目に収めながら、少し前を行くヴェリアの背中を眺める。
古傷の刻まれた首筋、短く切り揃えられた後れ毛、スコップを握る手の節くれ。
どれもが、積み重なった年月を静かに語っていた。
――最悪の、大英雄。
その二つ名を反芻する。
何が"最悪"なのか。
今はまだ、分からない。
陽が低くなるにつれ、空の橙が濃くなった。
道の両脇に、まばらな草木の影が長く伸びる頃、前方の地平に集落の輪郭が浮かびあがった。
逢魔が時だった。
昼と夜の境が滲む薄紫の空の下、集落は静かに息をしていた。
「空いている小屋ある?」
村の入口に立っていた老爺に、ヴェリアが声をかけた。
愛想は欠片もなかったが、老爺は特に気にした様子もなく顎をしゃくった。
「はずれに一軒あるよ。もう使っておらんがね」
礼も言わず歩き出したヴェリアの後ろで、レヴィンが愛想よく会釈していた。
小屋は古びていたが、屋根は抜けていない。
扉を押し開けると、埃の匂いと木の匂いが混ざって鼻をついた。
しかし風は通った。
「……さてと、恒例の夕餉作りですね」
ブリーフケースをどさりと起きながら、リュウドウは笑顔を浮かべる。
ワイシャツの袖を捲り、早速準備に取り掛かる様子であった。
「頼んます」
素直にベアトリーチェは剣を立てかけ、お願いをする。
よく見る光景。リュウドウが野営の準備と食事の調理をし、ベアトリーチェはその後片付けを担当する。
その様子をみたヴェリアはまたもや眉間に皺を寄せた。
「……おいおい。魔王を顎で使うとか、どんな英雄だよ」
「確かに! ヴェリアさん、この人は最強の大英雄とかか?」
「なわけ」
元気の良い声色のレヴィンを、短くあしらう。
「その…………、私は料理が苦手で……。焦げた肉料理しか作れん」
苦笑いをし、気恥しそうに後頭部を掻くベアトリーチェだったが、論点はそこではないと言わんばかりに、
「そこじゃない。ていうかそれ料理じゃない」
乱暴にスコップを立てかけながらため息混じりに呟いた。
「第八魔王の人柄は知ってるが、さすがに謙りすぎやしないか」
ヴェリアの視線は、暖炉の様子を窺うリュウドウへと向いていた。
横に備えられた薪を設置しながら、彼は気に食わぬ顔で一瞥する。
「貴女に対する態度と、さして変わりはないでしょう。誰に対しても、こんな感じですよ」
静かに言いながら、指を鳴らした。瞬間、バチバチと火花が散り暖炉に薄臙脂色の火が踊り始める。
ヴェリアの横で、レヴィンの「すげ、魔法か」という呟きが火の弾ける音に重なった。
「ご無沙汰ゆえに、もうお忘れで?」
皮肉めいた声調。しかしその振り返った表情は穏やかそのもの。
「………………。……ま、いいや。確かにそうかもな」
肩を竦め、あっさりと引き下がるヴェリアは、どっしりと部屋の中心に腰を下ろした。
「レヴィン、普通の魔王はこんなんじゃない、覚えとけ」
「それは流石に分かるって……」
苦笑いをしながら、レヴィンは背中の大剣を寝かせた。その大きさに見合うように、ゴトっと重厚感のある音が響く。
そのやり取りを見ながら、ベアトリーチェは怪訝な顔でリュウドウとヴェリアを窺った。
「え、まさかの知り合いか」
視線を外さないまま、ベアトリーチェが呟く。
「おっ」
小さな悲鳴と共に、フェンネが立てかけたバックパックが傾いた。それを支えようとするフェンネだったが、すかさずベアトリーチェの手がそれを支える。しかし彼女の戸惑いの視線は、依然として動かない。
「……勇者パーティで魔王討伐の旅にでも出たのか」
「なわけ」
渾身の仏頂面でヴェリアが吐き捨てた。
「こんなのに勝つとか無理。あと魔王に興味は無い」
辟易したような声で、床に寝転ぶ。
その声音は、これまで散々言われ慣れてきた経験が滲んでいるようにも感じられた。
しかし、ベアトリーチェの疑念と好奇心は消火されない。なぜ大英雄なのに、最悪なのか。なぜここまで荒んでいるのか。なぜ――、自国を滅ぼしたのか。
そんな感情が渦巻く。
口を開きかけた時、後ろからレヴィンの声が上がった。
「ま、食べながら話そうぜ。空っぽの腹じゃ、腹割って話せねえからな」
口角を上げ、快活な笑みを浮かべたレヴィンはベアトリーチェにそう言った。目尻には皺が寄り、これまでの明るい好青年の雰囲気ではなく、大人びた印象が漂う。
「魔王陛下! 俺も手伝うよ」
鍋や食器を用意しているリュウドウに歩み寄り、元気よく声を掛ける。その様子は、魔王という大層な肩書きを忘れてしまったかのように、気さくでざっくばらんな態度だった。
「あっ、ああ」
戸惑いながらも、ベアトリーチェは言葉を切る。
隣でフェンネの腹が鳴った。
「私も、手伝おう」
中心に寝転ぶヴェリアを避けながら、暖炉に近寄った。
通り際に、彼女を一瞥するが、なんの反応もない。黒くサラサラとした前髪が目にかかっており、見た目だけは可愛らしさを残す若い女性にしか見えなかった。
*(閑)
「第八、これも焼いてー」
香ばしい獣脂と干し肉の匂いが蔓延してきた頃合い、突然ヴェリアが懐から何かを取り出してリュウドウに差し出した。
「えぇ……?」
その取り出した物は、それなりに大ぶりなキノコだった。オレンジに、白い縞模様が特徴的である。
しかし、あまりの唐突さと不明なキノコという衝撃に、ベアトリーチェの顔が険しくなった。
「食用ではないですね。食べるなら自己責任で」
ヒョイっと受け取ったリュウドウは、キノコを眺めながら言った。
食用ではないという台詞とは裏腹に、食べるのを止めようとはしていないようだ。
「まじか、食うのかそれ……」
青ざめたベアトリーチェに、ヴェリアは何の気なしに答える。
「私が食うんじゃない。あいつ」
親指で指した先には、笑顔のレヴィンが立っていた。
「さっき俺がとって来たんだ。美味そうじゃね?」
「食用ではないと言われたのに……」
「早く食えよ」
ヴェリアは寝転がったまま、レヴィンを煽る。
直ぐに、リュウドウから「出来ましたよ」とキノコが渡された。
塩と香草が少々振られており、焼き加減も完璧であった。
こんなの丁寧に調理するなと言いたげのベアトリーチェだったが、レヴィンへの心配がより強い。
「頂きやす!」
なんの躊躇もなく、一口。
「うわぁぁ……」
顔を引き攣らせたフェンネはかなり距離を置いてる。
「うめぇな」
予想に反する感想を一言残した。
しかしながら、数分後彼は地獄を味わうこととなる。
「オゥうぇヴぇぇぇ」
予想通り、体調不良に見舞われたレヴィンは小屋の外で盛大にリバース。ベアトリーチェが冷や汗を書きながら介抱をし、フェンネが薬の準備をする。
しかし、ヴェリアは
「おもろ」
とだけ呟き、リュウドウすら
「あれはワンカダケ。食すと吐き気、嘔吐、指先の痺れに襲われます。味は香ばしくクリーミーだそうで」
と解説をするだけで、調理の手を止めなかった。
被害者且つ自己責任を全う中のレヴィンは、青ざめた顔に冷や汗と青筋を浮かべながら、歪めた表情で叫んだのであった。
「キノコが憎い゙!!」
「お前が悪い」
*
「おおっ、豪勢だな」
テーブルが無いゆえ、地べたではあるものの、並べられた献立は野営のものより比較的多量かつ豪華だった。
主菜として、中央の鍋には根菜と肉の濃煮込みがグツグツと音を立てながら、骨の出汁と塩漬け肉の香りを漂わせている。
「保存肉を焼いたものと、炒めた芋と野菜を酒で煮込みました。主食は干し肉入り炙り焼きおにぎりです」
丁寧な解説とともに、リュウドウが鍋の横へおにぎりを数個置いた。人の拳サイズの、大柄なおにぎり。
見た目と香りをインプットするだけで、唾液腺がツンと痛むほどには豪勢である。
「ありがとな!頂きやす!」
パンと手を合わせ、豪快に頬張るレヴィン。最初に詰め込んだのはおにぎりだった。
「美味え……! 染みるぜー……ッ」
体格と性格に裏付けられるような食べっぷり。
そして横にいるヴェリアは黙々と口を動かしているが、
「………………。」
まるで貪るような雰囲気だ。
食べ方が汚い訳では無い、ただ生存を優先するかのような食い意地である。
「詰まらすなよ……」
二人の勢いに圧倒されながら、ベアトリーチェは控えめな手つきで鍋の具を口に運ぶ。
そして、視線をヴェリアへと向けた。
脱ぎ散らかした軍用ブーツ、寝転がっていた様子、加えて今夕餉を頬張る姿。
――……生活感が、かなりあるな。
それなりに有力かつ、衝撃の強い異名を持っていながら、その姿には神秘性の欠片もなかった。
――普通に飯食ってだらける、若い女性って感じか……。
しかしながら、よく観察してみれば、座り方がだらしない、食い方は雑。でも周囲への警戒は切っておらず、一見気怠げだが目だけはかなり鋭い。
まるで、"常在戦場"に身を置く野戦兵。
「……なんだよ」
ヴェリアは器に具をよそい、口にかきこみながら低く言った。
視線に気づいていたのか、億劫そうに埃を払うかのような言いぐさである。
「そういえば、落ち着いてから話すっていってたな」
もごもごとおにぎりを頬張りながら、レヴィンが呟いた。
「……聞きたいことが、幾つかある。いいか……?」
器を置きながら、低い声音で慎重に話しかける。
「別に」
杞憂だったのか、ヴェリアは淡白な即答をした。煮込みを咀嚼しながら、目線は器にしか向かっていない。
「なぜ、"最悪の大英雄"と呼ばれてるんだ。……矛盾している。聖七天は人類の、正義の象徴では……」
その質問内容に空気を察したのか、先程まで談笑をしていたレヴィンが口を噤む。
静けさが、刹那に流れた。
ヴェリアは頬を膨らませる程に咀嚼していた煮込みをごくん、と一気に飲み下した。
「国を売ったから」
即答だった。
炙りおにぎりを手にとり、そのまま続ける。
「私は"傭兵"だからな、依頼だ。防衛戦線潰して、補給焼いて、司令部落として、終わり。内側知ってたからな、スムーズだった」
武勇伝、ではなくまるで事後報告かのように、淡々と温度もなく語り終える。仕事の報告をする声色だった。
誇りも後ろめたさも、欠片も混じっていない。善悪という概念そのものを、既に処理の外へ置いているような喋り方だった。
その態度と話の内容に、ベアトリーチェの鼓動が跳ねた。息をのみ、口の端が引き攣る。
「…………ッ、なぜ、なぜだ。自国だったんだろ、なぜ守らない。依頼だけで……、なぜ」
言葉は強くない。ただ、彼女からは驚愕と動揺が感じとれた。
しかしヴェリアはその淡白な様相を保ったまま、
「自国だからなんだよ。別に、国が私を守ったことも無い。身を削って守る意味が無い」
と、残す。
国とは制度である。
人を守る装置ではなく、人を消費する装置。そう言い切るヴェリアの論理は、呆れるほど単純で、しかし崩しにくい重さを持っていた。
「故郷だろ……――」
か細い声が、暖炉の焚き火が弾ける音に重なった。
「真面目なやつから死ぬんだよ。理想とか忠誠とか掲げてるやつから順番に」
大英雄には有るまじき台詞だった。
フェンネすらも食事の手が止まり、レヴィンの表情が暗くなる。リュウドウだけが、変わらない空気感で焚き火を調整していた。
嘘ではない、とベアトリーチェ自身が知っていた。
前線で最初に消えるのは、決まって目的意識の高い者たちだった。命を惜しまぬ気概が、死を呼ぶ。
英雄の名を刻んだ墓石は、世界中に溢れている。
「…………っ……」
心無い言葉に、ベアトリーチェの表情に曇天が浮かぶ。アルヴィス、ルル、セレスの顔が、意図せず想い返された。
「だからと言って、人を裏切って良い理由にはならん! 英雄なら、尚更だ」
彼女の正義感が、声をほんの僅かに荒らげさせる。
「押し付けんな、臭い理想論だ。裏切ってない、もとから私は誰も救ってないし助けてもない」
溜息を短く吐き、ヴェリアはその正義を真っ向から叩き落としたのだった。
「…………どういう、ことだ」
喉に言葉がつっかえる程に、絶句をする。
「中央統一帝国の将軍様なら分かるだろ、野戦と塹壕戦の現実を。工兵や雑兵の現実を。隣のやつが昨日まで笑ってても、次の日には腹開いて死んでんの。臭い臓物溢れさせてな。だから他人に期待はしない、自分だけを愛でる」
空になった木製器に、鍋からよそった具材を乱暴に移しながら続けた。
慣れる、という言葉がある。
しかしヴェリアの語り口は、慣れた者のそれでさえなかった。
慣れを必要としない、もっと単純な地点に辿り着いた者の声だった。
他者の死は最初から、彼女の採算表に存在しない項目なのだろう。
「軍人なら、仲間を失ったこともあるだろ。理想と正義が如何に腹へ貯まらないか、分かるはずだ」
あまりに信じられない、冷たい言葉の羅列。
ベアトリーチェは悶えるように、眉間に皺を寄せた。
「………………ッッ……」
自然と、胸中に激痛が走る。
「どうよ、正義だけで他人は救えたか。無傷で歩いて来れたか」
感情で否定することはできる。しかし論理として返す言葉を、ベアトリーチェは持っていなかった。
正義は守れなかった者たちを蘇らせず、理想は腹の穴を塞がない。
それは"この世界"において、ほとんど事実と呼んでいい命題だった。
「………………、だが……。………………。」
否定をしようにも、過去に散って行った仲間が想起された。
悲しみを飲み下しながら、顔を俯ける。
「………………最近も、仲間を失った。長年軍に従事してきたが、仲間の死は一向に慣れない……」
沈痛な声が、部屋に消え入ってゆく。
「……薄々分かってんだろ。この過酷な世界で、最適解は金と自分の命だ」
「…………でも……」
視線を上げるが、ローディスの姿が反芻された。嫌でも、彼の首が落ちた瞬間がフラッシュバックされる。彼もまた、金を原動力に動いていたが、その私情と正義感虚しく、世界に押し潰された男だった。
「誰か守りたいなら、"死ぬ覚悟"じゃなく、"生き残る覚悟"しろ」
ここで初めて、ヴェリアはベアトリーチェを真っ直ぐに目据えた。強い口調で、スプーンを差し向けながら述べる。
しかし、その声音は穏やかに抑えられ、
「…………ま、アンタみたいな馬鹿のお陰で、助かるやつもいるけど」
と呟いた。
「………………そうだと、良いが……」
言い返す言葉もことごとく潰されたベアトリーチェは、目を伏せて俯いた。
合理的。
あまりに合理的で冷たい生き様。
この救いようが一切ない過酷な現実に、最適化されたような持論。徹底的に、生存へと特化した論理。
否定も出来ない。
しかし、ベアトリーチェには到底共感も出来なかった。
*
「傭兵として、金と自分を優先する。金にならないなら殺さないし、割に合うなら殺す。死にかけの子供がいても、私は助けない。無賃労働はゴメンだ」
現実に打ちひしがれようとするベアトリーチェに、まるで駄目押しのようにヴェリアは吐き捨てた。
完成した論理。
崩しようがない、という意味ではない。
ただ、この世界の摂理に、あまりにも忠実だった。
人が死ぬ。
弱者が踏みにじられる。
理想を掲げた者が先に消える。
その現実の上に積み上げられた持論に、綺麗事だけで立ち向かうには、ベアトリーチェはあまりにも多くを見知ってしまっていた。
「ご馳走さん」
「ご馳走様です……」
レヴィンとフェンネの、控えめな声が聞こえる。
一同は食事を終え、リュウドウが食器の片付けに取り掛かっていた。
暖炉の火は落ち着き、部屋には炭と煮込みの残り香だけが漂っている。レヴィンが何か軽口を叩こうとしたが、会話の糸口を見つけられないまま、ぼんやりと欠伸をした。
「……私は、元工兵だった」
ヴェリアが続けて、誰に向けるともなく言った。
「そん、な。そこまで強いのに……」
ベアトリーチェの声が、思わず零れる。
「本当だ。塹壕掘るだけの、使い捨て要員。死のうが腕もがれようが、塹壕を作れと怒鳴られるだけ。忠誠も糞も無い」
言葉に感傷の色はない。まるで他人の話をするように、ヴェリアは続けた。
「強さを求めたのも、生きるため。アンタみたいに、努力が好きってわけじゃないけど」
「……好き、と言うより、私にとっては義務だな……。弱いなら、どんな苦でも飲み下して積み重ねるのみ」
呟くように、しかし芯のある声でベアトリーチェが返す。
「かっけぇなぁ……」
レヴィンが感心したように身を乗り出した。
「ストイックなのは宜しいですが、少しは楽をされては?」
食器を重ねながら、リュウドウが穏やかに言う。一拍の間があった。
「……なにか言いたげですね。ヴェリアさん」
手は止めずに、視線だけをヴェリアへと向ける。
ヴェリアは横になった姿勢のまま、天井を眺めていた。
「たまにいるよなぁ、苦を我慢して、節制することが美徳だと言うヤツ」
気怠げな声だった。
批判でも共感でもなく、ただ観察したものを述べるような口ぶりで。
「……時間を鍛錬に費やした方が、その分強くなるのは事実だろう。苦を経験し、強くなる。耐性を付けるのは、昔から言われてきた……」
ベアトリーチェが、慎重に言葉を選ぶ。
「強さは、苦しいことを我慢し続けることじゃない」
短く、断言するように。
「…………!」
ベアトリーチェが、息を詰めた。
「第八、私はどれくらい強い」
天井から視線を外さないまま、ヴェリアはリュウドウへと問う。
リュウドウは布巾を持つ手を、一瞬止めた。
それからまた動かしながら、少し考えてから答える。
「……対人戦なら、聖七天でも1、2を争うのでは?」
「まじか、強っ!」
レヴィンが声を上げた。
ヴェリアは特に反応せず、再び口を開く。
声は変わらず、平坦だった。
「"ストイックであれ"、"甘えるな"、"贅沢するな"……全部ズレてる。
私は、贅沢もする、サボりもする、甘いもんも食うし男遊びもする。だが、必要なら全て捨てる」
「……捨てる…………」
ベアトリーチェが、反射的に繰り返す。
「それができるから強いんだよ」
続く言葉に、熱はない。
「お前らみたいに、"とりあえずキツいことしてれば正解"なんて思考じゃ一生、"弱いまま努力してる奴"止まりだ」
部屋が静かになった。
暖炉が低く燃えている。
「心削って、痩せ細って、それで満足か?」
誰も答えない。
「そんなもん、ただの出来損ないだ。
――私は違う。あの時の、他の工兵共とは違う。
欲しいもんは全部取る。楽もする。金も使う。嫌いな奴には優しくしないし、気に入らなきゃぶん殴る。
それでも勝つ。
だから私の方が、強い」
宣言でも、自慢でもなかった。
ただ事実を読み上げるような、それだけの声。
「………………」
ベアトリーチェは、沈黙する。
反論の言葉が、喉の奥で形を失った。
「立つ瀬が無いな……、今の私では。確かに、君の方が……合理的だ」
「だったら大人しく寝ろ。私は眠いんや」
あっさりと言い、ヴェリアは寝返りを打った。
「…………寝たいが為にその話をしたのか?」
「それもあるけど。強くなりたいなら、私の話を欠片でも覚えておくことだな、おやすみ」
返事も待たず、目を閉じる。
一秒も経たずに、静かな寝息が立ち始めた。
「寝んのはや」
レヴィンが苦笑した。
やがて毛布を引っ張る音と、フェンネが何かに足を引っ掛ける小さな気配がして、それきり部屋は静かになっていった。
リュウドウだけが、変わらず食器を片付け続けている。
ヴェリアの寝息が、ゆるやかに聞こえてくる。
「………………」
ベアトリーチェは、暖炉の火を見ていた。
「"捨てる覚悟"か…………」
呟きは、誰の耳にも届かなかった。
部屋の中で、動くものは何もなかった。
レヴィンの寝息は早く、フェンネの毛布から小さな寝返りの音がして、それきり静かになった。
リュウドウは見回りへ、外に出たままだ。
ヴェリアは宣言通りに、とうに眠っている。
ベアトリーチェだけが、天井を見ていた。
暖炉の残り火が、壁に歪んだ影を落としている。揺れては消えかけ、また揺れる。
それを眺めながら、彼女は今夜の言葉を、何度も頭の中で転がした。
――強さは、苦しいことを我慢し続けることじゃない。
否定できない。
したかったが、できなかった。
言葉が喉まで来るたびに、別の記憶が塞いだ。
ルルの胴が、断たれた瞬間。
アルヴィスの肩が、裂けた瞬間。
セレスが、生きていると思った瞬間に、心臓を焼かれた。
全部、目の前で起きた。
ベアトリーチェが正義を持っていても、義務を果たしていても、どれだけ鍛錬を積んでいても、止められなかった。
彼女の理想は、あの一夜に何一つ機能しなかった。
ローディスのことも、思い出す。
金で動いていた男だった。
感情を捨てきれなかった。それが彼の死に繋がったと、ベアトリーチェは理解していた。
しかし今夜のヴェリアの論を当てはめると、話が変わってくる。
彼は感情を優先した。
だから死んだ。
それだけのことだ、とあの女なら言うだろう。あまりに冷たく、あまりに正確に。
問題は、その読み筋が外れていないことだった。
ヴェリアブルガ。
傭兵として受けた依頼一つで、軍事国家の防衛線を真正面から潰した者。
補給を断ち、司令部を落とし、それで終わらせた。感情でも、正義でも、忠誠でもなく。金だけで、国を機能停止させた。
それが出来る人間の言葉だ。
綺麗事で返せる重さではない。
――欲しいもんは全部取る。それでも勝つ。
ベアトリーチェは目を閉じた。
自分の在り方を疑ったことは、なかった。
義務として積み上げ、苦として飲み下し、それを正しいと信じて歩いてきた。
しかしその積み上げの中で、アルヴィスは死に、ルルは死に、セレスは死んだ。ローディスも死んだ。
生き残っているのは誰か。
「………………………………。」
目を開けると、天井があった。
ヴェリアの寝息が、静かに聞こえてくる。
認めたくはない。
彼女の生き様を、まるごと正しいとは言えない。
子供を見捨て、仲間を値踏みし、金の外にある命には手を伸ばさない。
そんな在り方を、ベアトリーチェには受け入れられない。
だが。
何かを、捨てなければならないのかもしれない。
死ぬ覚悟ではなく、生き残る覚悟。
それはつまり、生き残るために何を手放せるか、という問いだ。
理想か。
誇りか。
それとも。
「………………、…………。」
答えは、出なかった。
ただ、今夜以前とは少し違う重さで、その問いが胸の底に沈んでいた。
*
翌日。
朝露が消え、温かみが仄かに立ち上り始めた頃合い。一同は出立の準備を早々に済ませた。
街道は乾いていた。
荒野が左右に広がり、枯れ草の色ばかりが続く。
集落の影も、人の気配も、どこにも見当たらない
足音だけが、単調に地面を叩いている。
「そういえば、俺らはリトリュイーズ大公国目指してるけど、同行してて良かったのか?」
集落を後にし、ベアトリーチェは昨夜の話を未だに咀嚼していたところ、レヴィンからの声に呆けた顔を正したのだった。
「……ん、方角だけじゃなくて、目的地も同じだったのか」
「奇遇で。我々も同じ場所を目指しております。何故かの国を訪れるので?」
傍らのリュウドウが訊き、レヴィンの「まじか!」という言葉を無視するようにヴェリアが口を開いた。
「……依頼だな」
頭の後ろで手を組み、いかにも面倒臭そうな態度を顕にする。
「依頼……ってことは、それなりに危険が?」
ベアトリーチェは恐る恐る質問をするが、返答は予想の斜め上のものだった。
「いや、まあまあ」
ハッキリとしない物言いだけが残される。
「個人的な事情も含むけどな」
「個人的な……?」
口を引き攣らせたベアトリーチェは重く静かな声音で問う。
「最近、訳分からん刺客が多いだろ。あんたも、近頃ちょっかいかけられてるんじゃないのか?」
「…………心当たりが、幾つか」
含みのある言い方だったが、ベアトリーチェは視線を俯けて、答えた。
「"教団"を名乗る連中が、国に潜伏してると聞いた。次いでに化けの皮でも剥ごうと思って」
「次いでって……」
レヴィンの小声が、後ろから響く。
呑気な声調で呟くヴェリアを他所に、ベアトリーチェは顔を引き攣らせていた。
エルディアス領での一件が過ぎる。
セラフィエルと名乗る男が、教団の信徒と言っていた情景を思い出し、無意識に唇を噛み締めた。
「……奴らは、何が目的なんだ。私らを狙ってなにがしたいんだ」
声に出したのは、独り言に近かった。
「さあな。知らん」
しかしヴェリアは即答した。
「ただ、全員おんなじことを言ってくる。多分聞いただろ、"聖七天を殺す"って」
沈黙が、街道に落ちた。
「……全員が、ですか」
リュウドウが静かに言う。
いつもの柔らかな声調から、僅かに何かが抜け落ちていた。
「向こうは組織だってる。こっちはバラバラに動いてる。割の悪い話だな」
ヴェリアはあくびを一つ噛み殺してから、続けた。
「まあ、だから顔合わせとくのも悪くないと思って。同じ狙われる側なら」
「……それが、今回同行した理由か」
「半分はな」
ベアトリーチェの問いに、ヴェリアは欠伸交じりに返す。
それ以上は語らなかった。
レヴィンが、居心地悪そうに首の後ろを掻いた。
「……なんか、でかい話になってきたな。俺、大丈夫か」
「自分のことは自分で守れ」
「そりゃそうだけどっ!」
青ざめた額に、冷や汗を浮かべながらレヴィンは声を上げた。
先頭を歩くフェンネが、何かにつまずいて半歩よろける。誰も転倒を指摘するより先に、本人が何事もなかったように歩調を戻す。レヴィンだけが小さく「おっ?」と言って、それきりだった。
しばらく、会話が途切れた。
荒野を渡る風が、草を低く鳴らす。
空は高く、雲は薄い。
歩くには悪くない天気だった。それだけに、胸中に残る話の重さが、余計に際立った。
聖七天を殺す。
組織立った意思を持った連中が、そう言ってくる。
ベアトリーチェは前を向きながら、その言葉を改めて反芻した。
狙われているのは自分だけではない。共通の目標として、名指しされている。
ならば、仲間を守るのか。
昨夜の言葉が、また浮かんだ。
――死ぬ覚悟じゃなく、生き残る覚悟をしろ。
「……協力して、良いか」
ベアトリーチェは、ヴェリアの横顔に向けて言った。
「嫌なら嫌と言ってくれ」
「別に、勝手にしろ。けど介護はしないからな。仲間になるつもりはない」
気怠げな返答だった。
それが、この女なりの了承だということは、もう分かっていた。
リュウドウが前方へ視線を向けたのは、そのときだった。
「……見えてきましたね」
街道の先、荒野の果てに、輪郭が滲んでいた。
城壁の稜線が、白みがかった空に浮かび上がっている。距離はまだある。
しかし確かに、そこにあった。
「リトリュイーズ……」
ベアトリーチェが、静かに呟く。
「でかいなー」
レヴィンが目を細めた。
誰も足を止めなかった。
ただ、歩く速度が、僅かに増した。
*閑話
フェンネがもぐもぐと保存食のパンを咀嚼している。道中の無聊を、小さな口でひたすら紛らわせていた。
「お前それよこせ」
そんな静寂を、ヴェリアのぶっきらぼうな声が割いた。
「ンンっ??! な、なんでですかっ?」
フェンネが飛び上がった。
「充分デカいだろ。小腹が減ったんだ、くれ」
ヴェリアは当然の顔をしていた。
「え、え、えっ、保存食なので少しずつ食べるものなんですよぉ」
パンを両手で抱え込みながら、フェンネの目に薄く涙が光る。
「さっき食べただろ……、勘弁してやれ」
ベアトリーチェが手を翳してやんわりと制した。
「小動物が襲われてるみてぇだな」
レヴィンが後方から、のほほんと言い添える。
「私の故郷はノルデリア大陸の社会主義国家だ。これは奪取じゃなくてシェアな」
「し、思想を持ってくるとは……」
ベアトリーチェが額に手を当てた。
「やめてぇ…っ、資本主義バンザイぃ……」
フェンネが情けない顔で、パンをさらに強く抱き締める。
「そのパンは皆のもの、皆のものということは私のもんだ」
「ヴェリア、今のトレンドは資本主義でな……」
「Товарищ!! Отдай немедленно!(同志よ!寄越せ!)」
「やめろッッ」
ベアトリーチェが素早く割り込んだ。
「ァァァ……」
フェンネが遠い目をした。
「(こわ……)」
レヴィンは一歩、静かに後退した。
リュウドウ「(確かに行商人は自由市場だな……)」




