十話 Iter Sisyphi. 二
ローディスは心底面食らった表情で、暗闇に立っていた。
猫背気味の姿勢のまま、顔に皺を寄せてベアトリーチェを驚嘆の眼差しで睨んでいる。
「俺の台詞だ。旅人がこんな夜中になにしてんだ」
棘のある声調。
しかしベアトリーチェは臆する事なく、芯の通った声色を吐いた。
「窓から其方が見えたからだ。やけに周囲を警戒していたようだが?」
ローディスの鼓動が、静かに速まって行く。
口ぶりからして、先程のやり取りは見聞きされていないはずであった。
言い淀む様子に、彼女の視線がより鋭くなる。ここの憲兵とは比べ物にならない、歴戦の軍人らしい目つきだ。
「夜中だ、不審者を警戒するのは当たり前だろ。俺がなんか怪しいことでもしてると思ったのか?」
口調に乱れはない。
皮肉るような声音で、両手を掲げてみせる。
「…………………………。」
「………………っ」
だがベアトリーチェの瞳は揺れなかった。
凛とした顔立ち故に、その睨みは非常に威圧感がある。
ローディスの唇が引き攣った。
重苦しい沈黙が、数秒流れる。
雫の滴る音が、石畳に響いた。
「ふむ、まあいい。すまなかった」
ベアトリーチェの目が伏せられ、肩に重くのしかかった空気が寸陰にして消え去る。
「良い機会だ、飲みに行かないか?」
「はっ……?」
唐突な誘いが、ローディスの口から素っ頓狂な声を漏らした。見れば、ベアトリーチェの顔には穏やかな微笑みしか残っていない。
――なんだこいつ……。待ち伏せでもする気か?
この状況、そして、会ったばかりの放浪者。
当然の解である。
しかしながら、彼女の表情は変わらない。
「其方とは、一度腹を割って話したいと思っていたんだ」
「なんでだ」
ローディスの目が細められる。
「……酒場での件は、押し付けるような事を言ってしまった。君の考えに共感はし難い、しかし否定をしたのは申し訳ない」
一拍の沈黙。
雲が風に流れ、月明かりがより強くなった。ベアトリーチェの青い虹彩が、綺麗な輝きを示す。
「気軽に、飲みながら談笑でもしよう」
気恥しそうに、苦笑いを浮かべた。
その瞬間だけは、屈強な軍人ではなく、一人の壮麗な女性の雰囲気を出していた。
「………………分かったよ」
ローディスは短く溜息をのこし、後頭部をかいた。
「来い、奢ってやる」
人差し指で手招きをし、ローディスはゆっくりと歩き出す。
その言葉に、ベアトリーチェは少々の戸惑いを浮かべた。
「え……? いや、大丈夫だぞ」
「見た目通り、俺は昔ながらの男だ。女に奢ってからやっとカッコつけられんだよ」
彼に追いつくように、ベアトリーチェは慌てて駆け出した。
横に並び、歩き出す。その立ち姿は、僅かにベアトリーチェの方が高く、体つきもローディスより厳つさがあった。
しかし、彼の態度にベアトリーチェは苦笑を零す。
「まさか、リュウドウ以外に私を淑女扱いする者がいるとはな」
「ブスなら断ってたぜ……。それに、お前のことは淑女と思えねぇ」
「はっ? 斬るぞ」
軽口を交わしつつ、二人並んで酒場に向かった。
――あの女みたいな青年が、こいつを女扱い……?? 余程強いのか、熟練の女誑しかだな……。
二
連れられるままに、ローディス行きつけの酒場に踏み入った。
月が真上に佇んでいるにも関わらず、漂う肉の匂いとアルコール臭は濃厚で、客達の声も非常に賑やかだ。
スムーズに注文を済ませ、早速乾杯を交わす。
ベアトリーチェは屈託の無い笑顔を湛えているものの、ローディスはやはりぶっきらぼうな雰囲気であった。
酒も回ってきた頃合いに、ベアトリーチェは静かに口を開いた。
「飲みながらでいい。其方の事を教えてくれまいか。なぜ、金に固執する」
「……………………。」
酔いで顔を赤らめているローディスは、器の縁に口を付けたまま黙り込んだ。
「あんたは、タダで依頼を受けろと言われたらどうする」
一口、麦酒を飲み下し、げんなりと吐き捨てた。
「………………内容による」
「言うと思ったよ。ま、命をかける内容でも、人助けのためなら受けるんだろお前」
ベアトリーチェは答えなかった。しかし、その脳裏で、かつての愚行、大型の古代竜に喧嘩を売ったことを反芻した。
「俺はな、"値段が付くから"やってんだよ」
そのまま続ける。
「理想と正義を追い求めるやつは、報われずにそのまま死んで行く。……経験談だ、何度も見たさ」
「………………!」
「………………友人さ。一番仲が良かった」
「聞かせてくれ……」
視線を落とし、重苦しく言葉を紡ぐ。
「守るって言葉な、便利なんだよ。負けても言い訳になる。守れなかった時、"仕方なかった"で済むからな。
それを知らずに、あの馬鹿は死んだ」
「……………………。」
「レヴィンフェルドって変な名前してたな。理想ばっかりで、臆病の弱虫だ」
「だが、こういう奴ほど親切だ。こいつもそう。俺のことばっか気にかけてたな……」
「ある日、国軍から徴兵が成された。脅されて、報酬もチラつかされて、半ば強引な勧誘だ」
「お前さんも気づいてるだろ。ここの軍はシンジケートと繋がってやがる。当然、蹴ったさ。仮病で乗り切った」
「ただ、あいつは断りきれなかった。臆病だから。故郷のエルディアス領に、仕送りをしたいがために、報酬に釣られた」
「で、阿呆で弱虫だから殉職した。死体は届いてない。訃報の手紙だけが届いた」
「………………俺は違う。国のため? 正義のため?
そういうの、腹は膨れねぇんだよ。俺一人で、嫌われても守るつもりだ」
そこまで言い切って、彼は残りの酒を一気にあおった。
掠れた溜息が、大きく吐かれる。
「俺はな、金でしか動かねぇ。金にならねぇことはやらねぇ、それだけだ」
ベアトリーチェは静かに、酒にも飯にも手を出さずに聞いていた。
沈黙のまま、視線を落とす。
「……理想だけ抱いて、憲兵や匪賊相手にしてみろ。野垂れ死ぬだけだぞ」
「……………………、そうだな、金は必要だ」
思いもよらぬ言葉が、彼女の口から出た。ローディスが一瞬止まる。
「だが、"値段で決めた戦い"は、最後に自分を裏切る」
「どういう意味だ」
「"それ以上のもの"を見た時、選べなくなる」
拳を強く握り、口を引き攣らせた。
「私は、自分の力不足で姉を失った。今も姉の思いに応えられていない。
だがな、仕方ないなどと思ったことは無い」
「……じゃあどうする。また理想を、正義を追い求めろってか?」
「守るものを選び続け、とにかく前に歩むしかない。
金で選択肢を決め、現実のみに体を預けるなど、それこそ野垂れ死ぬ」
「…………………………。」
ローディスは何かを言いかけ、視線を逸らした。
中身の無いジョッキに口をつけ、傾ける。
「………………割に合わねぇな。どこまで行っても、仕事だ……………………」
その声は、疲れきっていた。
互いの間に、深い沈黙が今一度沈みこむ。
しかし、ベアトリーチェは椅子に凭れていた姿勢を正し、視線を彼に向けた。
「妙だな……」
その言葉に、ローディスは怪訝な目つきで彼女を睨む。
「何がだよ」
「最低限の金だけが目的なら、適当な依頼を受ければいい……。現実を語る割には、身を削っているように見える」
『身を削っている』その衝撃的な台詞に、ローディスは眉間に皺を寄せた。
「逃げる選択肢もあったはずだ」
「…………………………。」
「本音はなんだ?」
「……………………は?」
「お前が金を求める、本音はなんだ」
空気が変わった。
軽口は断ち切られ、張り詰めた雰囲気が二人のテーブル周囲にまとわりついている。
「頼む……、教えてくれ」
その後は、しばらくの沈黙が続いた。
周りの喧騒は遠のき、ローディスの苦虫を噛み潰したような表情が張り付いていた。
「………………匪賊が来るたびに、街の連中は金を出してた」
ゆっくりと、声を洩らした。
「出せば……見逃されるからな」
皮肉にも似た、静かな口調だった。
「……………………今は俺が払ってんだ。もうこの領地はシンジケートに汚染されてやがる」
吐き捨てるようなその台詞に、ベアトリーチェの目がわずかに見開かれた。
酒場の喧騒は遠く、二人の周囲だけが切り離されたように静まり返る。
「足りねぇ分は、色んなところから俺が集めてんだよ。嫌われながらな……。
嫌なやつだろ? 匪賊への見逃し代を、街のやつから徴収して、裏で渡してんだ」
自嘲が漏れる。乾いた笑いは短く、すぐに息に紛れて消えた。
指先で杯の縁をなぞる仕草には、癖のような落ち着かなさが滲んでいる。
「……馬鹿みてぇだろ。やってることは結局――」
言いかけて、言葉を呑み込む。
代わりに頭を抱え、低く押し殺した呻きが零れた。
しばしの沈黙。
だがベアトリーチェは、何も言わなかった。否定も、肯定もせず、ただ静かにその様子を見ている。
「そうか……」
短い相槌だけが、重く落ちる。
「……お前も、選んでるんだな………………」
その声は静かで、押し付ける響きはなかった。
ローディスは顔を上げず、鼻で笑う。
「……………………そんな、立派なもんじゃねぇよ」
掠れた声。だが先ほどまでの強がりは、どこか薄れていた。
杯を煽る。中身はとっくにぬるくなっている。
ベアトリーチェもまた、自らの杯に手を伸ばしたが、口には運ばない。
言葉は、もう続かなかった。
ただ、沈鬱な空気の中で、二人は同じ卓を挟み――
それぞれに違うものを抱えたまま、静かに酒を交わすのみだった。
三
「とにかく、話してくれて本当にありがとう。街の事情も、君の事情も把握できた」
席を立ち上がりながら、ベアトリーチェは優しく微笑んでいた。
飲むペースは、ローディスに合わせていたはずだったが、その顔は全く酔いを示していない。
「……犯罪者の俺を見逃すってか?」
椅子に体重を預け、遣る瀬無さを吐き出した。
「…………………………。」
立ち止まり、ベアトリーチェは彼に向き直る。
「……明日の昼過ぎに、この街を発つつもりだ。それまでに、私の力が必要なら声をかけてくれ」
「……………どういう意味だよ」
「………………匪賊を、一緒に蹴散らすことくらいは出来る」
ローディスは驚嘆の眼差しで、彼女を見据えた。
「はっ……」
しかし、口から出たのは、乾いた短い笑いのみだった。
「そりゃ良い。無謀だがな」
吐き捨てるように言って、ローディスは視線を外した。
ベアトリーチェは何も返さなかった。ただ一度だけ、僅かに頷く。
「ではな」
それだけを残し、踵を返す。鎧の擦れる微かな音が、やけに静かに響いた。
やがてその背は人混みに紛れ、完全に見えなくなる。
取り残された。
ローディスはしばらく、空になった杯を見つめていた。
「……蹴散らす、ねぇ」
鼻で笑う。だが、その笑いは続かない。
指先で杯を回す。かすかな音が、やけに耳についた。
「……簡単に言いやがる」
匪賊を討つ。元を断つ。
そんなことが出来るなら、とっくにやっている。
――そう思っていた。
だが。
「……逃げてたのは、どっちだよ」
ぽつりと、言葉が零れる。
匪賊を排除すれば、報復が来る。
守りきれなければ、今度こそ終わる。
だから、金で済ませた。
血を流さずに済む道を、選び続けた。
――……合理的、だ……。
誰に言うでもなく、呟く。
だがその言葉は、どこか空虚だった。
脳裏に浮かぶ。
金を差し出す村人たちの顔。
目を逸らす者、頭を下げる者、何も言わない者。
そして。
「……ありがとう、ってか」
自嘲が洩れる。
礼を言われたことがあった。
あの金で、被害が出なかったと。
――……違ぇだろ
低く、吐き捨てる。
それは守ったんじゃない。
ただ、先延ばしにしただけだ。
それでも。
「……見捨てられなかった」
その一言だけは、やけに重く残った。
故郷だった。
友がいた。
名前を呼ぶ声が、まだ残っている場所だった。
――……だから金がいる、か。
繰り返す。だが今度は、少しだけ意味が違う。
金のためにやっていたんじゃない。
金が必要だっただけだ。
守るために。
「……はは」
乾いた笑いが、今度は長く続いた。
「どっちが綺麗事だよ」
"金でしか動かねぇ"そう言い続けてきた。
だが実際は。
「……結局、同じじゃねぇか」
あの騎士と。
守るものを選んで、そのために、自分を削って。
やってることは、何も変わらない。
「………………くだらねぇ」
そう吐きながら、ゆっくりと立ち上がる。
足取りは重い。だが、止まらない。
扉の方へ視線を向ける。
さっきまであの女が立っていた場所。
――……昼過ぎ、か。
小さく呟く。
行く理由なんてない。
関わるほど、面倒になるだけだ。
それでも。
「……割に合わねぇな」
苦笑する。
それが、どちらに対しての言葉なのか。
自分でも、もう分からなかった。
四
「どーしたの?」
「いや、なんでもない……」
街の外れ、ベアトリーチェは後ろを振り返ったまま歩を止めていた。
刻は昼過ぎ、一同は身支度を済ませエルディアス領を去る途中であった。雲ひとつ無い、澄み渡った空から降り注ぐ陽光が、石畳と建物の壁を白く照らしている。
ルルに声をかけられたベアトリーチェは、どこか心残りがあるような表情で、再び歩き出した。
結局のところ、ローディスが彼女の前に現れることはなかったのだ。
「…………………………。」
お節介。
そう表現してしまえば、それで済む話だ。
しかし、ベアトリーチェの胸中には、煮えくり返るような不安感が消えずに居座っていた。
足は前へ出ているはずなのに、どこか地に根を張ったように重い。
「もう少し観光して行きます?」
その様子を訝しむように、アルヴィスが優しげな声を投げかける。
「……すまない、大丈夫だ。行こう」
ベアトリーチェは苦笑いを小さく浮かべ、アルヴィスの背中を軽く押した。
「フェンネちゃんと、リュウドウ君は、本当に待たなくていいのかしら……」
「後で追いつくらしいよ。飛んで行くって……」
ルルの知らせに、アルヴィスは苦笑いを称える。
「まさかの飛行魔法……?」
そんな軽口を、聞き流しながらベアトリーチェは足を踏み出す。
進む。進むしかない。
そう言い聞かせるように、一歩を踏み出す。
だが――。
その足が、わずかに鈍る。
振り返る理由などない。
呼び止められるはずもない。
それでも、胸の奥で何かが引っかかり続けていた。
――……来ないのか。
ふと、そんな思考がよぎる。
その瞬間。
「おい」
背後から、無遠慮な声が飛んだ。
全員の足が止まる。
振り向くと、路地の陰から一人の男がこちらを見ていた。
粗雑な身なり。だが、ただの通行人とも違う、どこか場慣れした気配。
男はベアトリーチェを一瞥し、口の端を歪める。
「お前がベアトリーチェか?」
間を置かず、続けた。
「ローディスが呼んでるぜ」
その一言に、空気が変わった。
ルルがその男を睨みながら呟く。
「あのおっさんのこと?」
「誰だ。ローディスがどうしたんだ」
語気強く、ベアトリーチェが問う。
しかし、男は何も答えず、手招きをするのみだ。
「……案内してやる。ついてこい」
愛想の無い、低い声色。
突拍子もない事態だが、ベアトリーチェは冷静にアルヴィスへと耳打ちをした。
「……どうする? ついて行くか」
アルヴィスは小声で、
「お任せします。流石に、余程の事が起きることはないでしょう……」
「挨拶でもして帰る?」
ルルの無邪気な声があがった。
その声に毒気を抜かれたように、ベアトリーチェは肩の力を抜く。
「まぁ、会ってみるか」
しかしその心境は、昨夜の話し合いで埋まっていた。
決心がついたのか、それとも別れの挨拶か。
匪賊を蹴散らしたくなったのか。
どこから湧いてきたのかも分からない、淡い期待を抱きながら、ベアトリーチェはその男について行った。
五
案内されたのは、酒場でも、建物でもなかった。
街の気配は去って行き、気づけば昨日の農場付近。木々がチラホラと除く平野に来ていたのだった。
何処に連れて行かれるのか、どこが目的地か質問しても、男は一切声を発さなかった。
やがて、数人の男が群がっている様子が視界に映る。
「……何のつもりだ」
ベアトリーチェの、低く心の底から"憤怒"の混じった呻き声が洩れた。
数人の輪の中央に、彼がいたのだ。
「馬鹿か……。さっさと出立してろっての……」
自嘲気味に、乾いた笑いを零すローディスが、手を後ろで縛られ、膝をついて座り込んでいた。
顔には打撲痕や裂傷がある。
「彼を離せ。でなきゃ斬る」
顔に青筋を浮かべながら、ベアトリーチェは剣を躊躇なく抜きさった。
続けて、アルヴィス、ルルが武器を構え、セレスは錫杖の準備をする。
「おいおい、こんな俺にそんなマジになるなよ」
咳き込みながら、苦笑いを零すローディス。
それに対し、ルルが声を上げた。
「一緒に戦った仲でしょ、おっさん」
言いながら、ジリと砂を鳴らして距離を縮めようとする。
ベアトリーチェが今一度、匪賊に対して怒鳴った。
「何のつもりかと訊いた」
歯を噛み締め、殺気を込めた視線で睨みつける。
しかし、匪賊らは卑下た笑いを零すのみだ。
やがて、一人の男が口を開いた。
「ボスのお出ましだ。解散するぞ」
その声を皮切りに、彼らはゆっくりと後ろに下がり始める。
全員の姿が影に消えるその瞬間、
「………………!!」
星のように綺麗な、黄色髪が影から現れた。
ゆったりとした歩幅で、ローディスに近づく。
――…………あぁ、最悪だな…………。
再び、ローディスが諦めにも近い自嘲を漏らした。
先頭のベアトリーチェを見据え、無理に笑顔を貼り付ける。
「ローディス……――」
「ありがとよ」
最初に発せられたのは、純粋な感謝の言葉。
そのまま、彼は続けた。
その佇まいには、いつもの倦怠は無く、清々しいと言わんばかりの覚悟が滲んでいる。
「あんたのお陰で、自分を見直せた……。ただ、決心がもう一声足りてなかったみたいだ」
「待て……!」
「その結果だ。本当にすまない、面倒事に巻き込んじまった……。俺に構わず、逃げてくれ」
「おっさん……?」
ルルの押し殺した声が響く。
「じゃあな。頑張れよ」
そんな声とともに、笑顔を称えた。
その刹那、鋭い風切り音が鳴り、笑顔が――、ローディスの頭部が地面に転がり落ちた。
「!!!!――!」
ベアトリーチェと、他三人が息を飲む。
ローディスは、回転する世界をぼんやりと眺めながら、胸中でかつての友人を思い浮かべていた。
――あぁ……。レヴィー、俺は結局、逃げてばかりだったな……。お前のほうが、よっぽど勇敢だよ。
ローディスの体が、ゆっくりと傾いだ。
遅れて、理解が追いつく。
音が消えた。
否、耳が拒絶しているのか、何も聞こえない。
首の断面から噴き上がる血だけが、やけに鮮明に目に焼き付く。
地に落ちる鈍い音すら、遠い。
その瞬間、場の空気が変わった。
まるで、見えない何かに押し潰されるような圧。
肺が勝手に浅くなる。喉が閉じる。立っているだけで、全身が軋む。
――強い。
そんな言葉では到底足りない、"何か"が、そこに立っていた。
「ッ………………、みんな、下がれっ……」
ベアトリーチェの声が、低く絞り出される。
自分でも驚くほどに、声が重い。
全員の体から、同時に冷や汗が噴き出していた。
誰一人として、視線を外せない。
目の前の、剣士から放たれる威圧感。
影の中から、一歩、姿を現す。
「貴様か、新任の大英雄とは」
若い男の声。
だがその響きには、温度がない。感情の欠片も乗っていない、乾いた音。
ゆっくりと、全容が露わになる。
髪は、陽光を弾くような淡い黄金。
だがその輝きは温かさを持たず、刃の反射のように冷たい。
整った顔立ち。
彫刻のように均整が取れているが、そこに人間らしい柔らかさは一切ない。
視線は細く、鋭く――対象を測るための器官のように機能している。
瞳は澄んでいる。
だがその奥には、何も映していない。
手にしたのは、細身の剣――レイピア。
無駄を削ぎ落とした流線形の刃は、血を吸うことすら当然とするかのように静かに構えられている。
構えは低い。だが、隙がない。
わずかに重心を移しただけで、空気が震える。
その立ち姿は、あまりにも完成されていた。
技量ではない。
経験でもない。
ただそこに立っているだけで、"斬る"という行為に最適化された存在。
人ではない。
誰かが、無意識にそう思った。
男は、微かに首を傾げる。
その仕草すら、どこか機械的で。
「……なるほど」
淡々と呟いた。
その声音には、興味すら含まれていなかった。
「報告通りだな」
温度のない視線を落とし、自らのレイピアを眺める。
そして、音もなくその血を払った。
「貴様…………、何者だ!!」
詰まる息を押し殺し、ベアトリーチェは一歩前へでる。
レイピアの男は、その声に視線だけを寄越した。
剣を下ろし、手を胸に当てる。
「……剣士として、名乗りをあげておこう。
私は、アウソル=ドムニコ・アンジェロッド」
その声は氷のように温度がなく、鋭利に空気を突いた。
「ロードスクヴェルト、貴様を殺すために、一戦交える」
「なんだと………………」
目的はどうやら、ベアトリーチェのようである。
突拍子の欠片も無い事態に、戸惑いを隠せていなかった。
「ねぇ、あいつ絶対強いよね」
戦斧を前に構えながら、ルルが微笑を称えた。
「気を抜けば、最悪死にますね……」
アルヴィスが、ベアトリーチェに呟きを残す。
その言葉に、ベアトリーチェは僅かに頷き、小声で告げた。
「幸い、レイピアだ、ルルと相性は良い。……セレスさん、ルルに防御のバフを全開にしてくれ」
「……っ、分かったわ」
すかさず、錫杖の先が青く輝く。
「任せてよ。戦斧の猛威をみせてやる」
犬歯を覗かせて、笑顔を称えたルルは、躊躇なく先頭に立った。
「アタシが、攻撃を受けるから、二人であの野郎を横からボコす。そんな感じの作戦でいいね?」
ルルは笑っていた。
その笑みは強がりではない。覚悟を決めた者の、それだった。
「ああ、頼んだぞ……!」
アルヴィスの声が背を押す。
次の瞬間、セレスの魔力が流れ込んだ。
青白い光がルルの身体を包み、筋肉の一本一本にまで力を行き渡らせる。
地面を踏みしめる。
ぐ、と靴底が土を抉った。
「ローディスの仇だ……」
低く、ベアトリーチェが呟く。
その声音には、押し殺した怒りが確かに滲んでいた。
対するアウソルは、動かない。
ただ、レイピアを――静かに、構える。
無駄のない一動作。
それだけで、空気が張り詰める。
「…………!」
ルルが、踏み込んだ。
爆ぜるような加速。
脚力に任せた直線的な突進――だが、それを支えるだけの強靭な体幹がある。
奥歯を噛み締め、戦斧を振り抜く。
横薙ぎ。
空気が裂ける音が遅れて響いた。
だが。
当たらない。
視界から、消える。
否、ほんの紙一重、身をずらしただけ。
それだけで、必殺の一撃は虚空を薙いだ。
「チッ……!」
だが止まらない。
振り抜いた勢いをそのまま利用し、ルルは即座に体を回転させる。
戦斧を頭上へと持ち上げ、
「ッらァ!!」
叩き下ろす。
重力と体重を乗せた、真上からの一撃。
大地すら砕く軌道。
その瞬間。
光が走った。
何かが"閃いた"としか認識できない速度。
音は、ない。
ただ一瞬、空間に白い線が引かれた。
いや、文字通りの、流星のような黄金の閃光が走ったのだ。
次の瞬間。
ルルの動きが、止まった。
戦斧は、振り下ろされないまま宙に留まり。
その身体が、わずかに前のめりに傾く。
「……………………え」
誰かの声が、間の抜けた音で零れた。
ルルの身体に、一筋の線。
胸元から、腰へ。
綺麗すぎるほど、真っ直ぐな。
そして。
ずれる。
上半身と下半身が、噛み合わなくなるように。
ゆっくりと、離れた。
血が、遅れて噴き出す。
「…………あァ」
ルルの口が、何かを言おうとして。
言葉になる前に。
その身体は、完全に二つに分かれて、地へと崩れ落ちた。
「ごめん……」
上半身が崩れながら、ルルは涙を浮かべて声を洩らす。
「やっぱ、タンク……、むいてなかったよ」
悲しみに、顔を歪めた。
――……皆ごめん……。ボド爺、ごめんね…………。
重い音。
戦斧が、遅れて転がる。
静寂。
あまりにも一瞬だった。
理解が、追いつかない。
斬られた。
そう認識できたのは、ほんの僅かに遅れてからだった。
アウソルは、既に元の位置に立っている。
レイピアは、血すら付いていない。
ただ、僅かに刃先が震えていた。
それだけが、今の一撃が現実であったことを示していた。
ルルの血と涙が、アルヴィスの顔に容赦なく飛び散る。
「………………………………。」
三人は言葉を失った。
ルルの、敵陣に突っ走っていく姿、無邪気な笑顔。
そして、竜の国に行くという言葉が、彼らの脳裏に浮かび上がっていた。
だが、いま地面に転がっているルルは、動かない。言葉も発しない。
「ルルッッ!!!!」
アルヴィスの、喉が張り裂けるほどの絶叫が耳を突いた。
絶望の表情を浮かべながらも、彼は全速力でルルに駆け寄って行く。
そして、
「お前ェェエエっ!!!」
激怒、絶望、そして涙を流しながら、アルヴィスはアウソルに斬りかかった。
「アルヴィス、よせ……!!」
ベアトリーチェの制止も叶わず、またも黄金の一撃が放たれた。
「……………………ッ!!!――!!」
その斬撃は、アルヴィスの胸に線を形作る。
そして、彼の肩から上が、崩れ落ちた。
「……………………。」
声はなかった。
ただ、悲しげな、悲壮に歪んだ表情のみが、ベアトリーチェの視界に映っていたのだった。
どちゃ――
赤黒い血溜まりが、茶色の地面に広がる。
瞬間、ベアトリーチェの怒号が響き渡った。
「ッ貴様ア゙アアァァッッ!!!」
涙を堪え、力任せに一撃を繰り出す。
――『聖王・巌戸開』!!
アウソルの体、真正面に強大な衝撃が爆発した。
巨岩をも玉砕するかのようなその衝撃は、アウソルを高速で吹き飛ばす。
レイピアでガードをしていたものの、その体は遥か後方まで真っ直ぐに飛んでいった。
「セレスさん……!!!!」
はち切れんばかりの鼓動。
滝のように止まらない冷や汗。
ベアトリーチェは後ろに控えるセレスを呼んだ。
「………………っ!」
その声に、セレスは我に返ったかのように、駆け寄った。その目には大粒の涙が溢れている。
「かっ、回復魔法を……! 彼らに……ッ」
ベアトリーチェは涙を堪えながらも、二人の体を寄せた。
「え、えぇ、分かった……わ」
セレスの顔は血の気が引いて真っ白だ。
震える手で、回復魔法の準備をするが、
「……ッ、でも、この傷じゃ………………」
傷という程度ではない、二人の体は両断されており、大量の血が流れている。
「うっ、……うぅ………………っ」
涙を袖で拭いながら、セレスは呻き声を漏らしていた。
「た、頼む……! 何とか………………!」
ベアトリーチェも震える手で、傍らに身をかがめる。
歪めた表情には、後悔と絶望が張り付いていた。
「すまない……、すまない……!!! わた……、私の、私のせいで………………!!!」
堪えていて涙が、頬を伝った。
喉奥から、嗚咽が漏れる。
「ベアトリーチェさん!」
瞬間、セレスの声が響き、ハッと目を見開いた。
「ダメよ、自分のせいにしないで……! 今はとにかく、あの剣士を止めて……。
まだ希望はある。全力を尽くすから……!」
言いながら、回復魔法の光が強まった。
「あぁ、ああ……! 分かった……!」
ベアトリーチェは直ぐに立ち上がり、迎撃の姿勢を取る。
「回復に、専念してくれ……! 私に、構うな……」
「でも……、大丈夫なの……?」
無理矢理に、息を整えるように、ベアトリーチェは深呼吸をした。
視線を落とし、二人を見る。
息をしていない。
「彼の狙いは私だ……。何とかしてみせる」
押し殺した声。だが、その奥には明確な決意が宿っていた。
その言葉に、セレスは何かを言いかける。
止めるべきか、共に行くべきか――一瞬の逡巡。
しかし次の瞬間、唇を引き結び、強く頷いた。
「気をつけて……!」
それ以上は言わない。
託すと決めた者の、短い祈り。
ベアトリーチェもまた、わずかに頷きを返す。
踏み込む。地面が爆ぜた。
踏み切りと同時に土が抉れ、衝撃が遅れて空気を震わせる。
一瞬で距離が縮まった。
視界の先、わずかに揺れる影――アウソルだ。
その軌道を読み切り、剣を振り抜いた。
刹那。
火花が影を照らした。
耳をつんざくような金属音が炸裂する。
「……私の目的は、元より貴様だ」
冷え切った声が、すぐ間近で響いた。
レイピアが、そこにある。
細い刃が、ベアトリーチェの一撃を正確無比に受け止めていた。
止められている。
全力の斬撃が、微動だにしない。
「ッ……!」
腕に、更なる力を込める。
筋肉が軋み、骨が悲鳴を上げる。
それでも、押し切る。
押し潰すように。
顔には青筋が浮かび上がり、呼吸が荒れる。
だが、その瞳は――
逸れない。
ただ一心に、目の前の敵を射抜いている。
怒り。
後悔。
そして――失ったものの重み。
全てが、そこに宿っていた。
剣へと、魔力を流し込む。
白い光が刃を覆い、空気が震える。
圧が、周囲を押し広げるように膨れ上がる。
地面が軋む。
空気が、悲鳴を上げる。
それでも、なお。
足りない。
この程度では届かないと、直感が告げている。
だからこそ。
更に、踏み込む。
力を込める。
全てを、叩き込む。
そして。
はっきりと。
低く、だが震えることのない声で告げた。
その咆哮は、もはや言葉ではなかった。
怒りが形を持ち、刃となって叩きつけられる。
ただ一人を、斬り伏せるためだけの、純粋な殺意だった。
「殺してやる……!!!!」
アウソルの参考人物は、詳しい人なら言わずもがな、近代フェンシングの父「ドメニコ・アンジェロ」。 中世イタリアの剣術家「フィオーレ・デイ・リベリ」です。




