第42扉 レストラン
今日は懇親会という飲み会がある日。
大変だろうな…と思っていた通りになった日だった。
朝はいつも通り。
起きるべき時間に起き、猫と鳥にエサを用意し、家を出る。
満員電車で押し込まれるように乗り、会社に辿り着いた。
隣の課が多少うるさいが、いつものこと。
淡々と仕事をこなし、定時に帰り支度して会社を出た。
部内の複数の課が合同での懇親会だ。
大勢の社員がぞろぞろと歩いていき、大手居酒屋チェーン店に辿り着いた。
中に入ると、いらっしゃいませーと威勢のいい声が飛び交う。
大部屋を一つ貸し切り、吸い込まれるように入っていく社員たち。
部屋の中に入ると、席の取り合いや雑談で、ざわざわと煩い。
ちょうどよさそうな席を探して部屋を見回していると、裾を引っ張られ、その方に振り向いたら、同僚がいた。
そちらの方に行こうとすると、『ここ、ここ!』と、席の座布団をポンポンと手で叩いている上司に声を掛けられる。
男は同僚には片手を上げて謝罪し、その上司の隣に座った。
会場全員に飲み物が行き渡ると、この場で役職が一番高い役員が声を掛け、一旦は鎮まる。
場を弁えている役員は、二言三言程度の簡単な挨拶で済ませ、乾杯した。
場が温まるにつれ、あちらこちらの話し声が大きくなり、わいわいと騒がしい。
上司の異性避けとして呼ばれた男は、それなりにお役目を勤め上げ、席の周りは穏やかな雰囲気になっていた。
しかし、そこで隣課の上司が話に割り込んでくる。
その取り巻きも周りに来て、ぎゃあぎゃあと煩い。
上司である彼女は、笑顔で華麗に躱しているが、顔が引きつっているようにも見えた。
そして、弾かれるようにその輪から追い出された男は、店の外に出て電話を掛ける。
申し訳ございません…と謝りつつ、電話の相手に動いてもらうことにした。
少し時間を置き、お手洗いを経由して席に戻ると、その席の雰囲気は穏やかになっていた。
その場にいる役員に軽く会釈をして席に座ると、彼女から怒涛の愚痴がこぼれ始めた。
じゃあな、と言って役員は席を離れる。
そこに席を移ってきた同僚が座り、愚痴の合戦が始まった。
二人とも相当に酔いが回っているらしい。
傍から見れば人気の高い二人に囲まれて楽しそうに見えるが、実態はくだまきの応酬。
二人をなだめすかし、飲みに付き合い、二人が酔い潰れてタクシーに送り込むまでの業務に疲労困憊になった。
そして、家に着く頃には酔いと疲労でふらふら。
猫と鳥にエサを用意して、そのままダイニングで寝てしまっていた。
翌日。
床の冷たさで目が覚めた男。
起き上がると、酷い頭痛が男を襲う。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲むが、気分が晴れない。
薬箱から頭痛薬を取り出し、それも飲んだ。
そして、ふらふらと自室に戻り、ベッドへ仰向けに転がった。
小一時間ほど、ぼーっとしていると、頭痛が収まって、なんとか起き上がれるぐらいまで回復した。
今日はどうするかな…と悩んだが、結局は扉に向かうことに決める男。
一度、シャワーですっきりしようと風呂場に向かった。
身支度を済ませ、扉の前に辿り着く。
今日はレンガの外壁に木製の扉がはめ込まれていた。
扉は華やかでないが、重厚な木彫りの意匠が施されている。
金色の取っ手は、シンプルだが格調が高そうに見えた。
男は取っ手を握り、扉を開いた。
扉の内側からチリンと音が鳴る。
扉の上部を見ると、ベルがついていて、それが揺れて鳴ったようだ。
扉をくぐり抜けて、足を運ぶとふわりとした感触が足裏に伝わる。
そこには質の良さそうなカーペットが敷かれていた。
壁や照明にもシンプルながら凝った意匠が施されており、高級そうな場所だと感じた。
廊下を歩き、奥に進む。
そして、広い部屋に入ると、目の前には景色を見渡せる一面のガラス窓。
外は快晴で、オーシャンビューの窓からは水平線まで見えた。
一方で室内に視線を移すと、天井には豪奢なシャンデリアが設置され、花瓶などの調度品は落ち着いた雰囲気で質が高そうだ。
窓際にはテーブルと二脚の椅子が一組となり、ゆったりとした配置で並んでいた。
部屋の中央には、八人席の大きなテーブルが堂々たる存在感を放っている。
それらのテーブルには、ワイングラスとナプキン、それにカトラリーが、全ての席にセッティングされていた。
奥側に目を向けると、小さなステージに一台のグランドピアノが鎮座していた。
男は吸い込まれるかのように、グランドピアノが見える窓際の席に座る。
反対側の席にリュックサックを置いて。
静まり返った部屋には、微かにさざ波の音が聞こえた。
男は静かに海を見つめる。
外は快晴で、明るいにもかかわらず直射日光が射さないのは、太陽が真上にあるからだろうか。
取り留めない思考から抜け出し、テーブルに視線を移す。
花瓶には一輪の花が挿してあるが、花弁は瑞々しく、手入れしてあるように見えた。
隣には水差しが置いてある。
こういう場所では水差しは置かず、ウエイターが注ぎに来るのではないだろうか…と考えたが、その思考も無為に思えた。
男は喉が渇き、水差しを手に取って匂いを嗅ぐ。
そして、一滴を手に垂らして舐めてみた。
ただの水のようだ。
ワイングラスに注ぎ、口に水を含む。
味にも問題がないことを確認すると、含んだ水を飲み込んだ。
ただの水の筈だが美味しく感じ、グラス一杯飲み干す。
まだ酔いから醒めていないのかもしれないな…と、自嘲した。
窓の方へ視線を戻し、海を見つめる。
ボーっとする時間を過ごしていると、一羽のカモメが飛び去って行った。
そこで、奥からポロンと音が聞こえた気がした。
振り返り、辺りを見回したが、変わった様子はない。
窓からの光で部屋は明るく、男は気に留めていなかったが、シャンデリアの灯りがついていて、振り向いた拍子にスプーンがきらりと光を反射した。
陽の光が窓から射してきて、テーブルと男を照らし始めた。
それで時間がかなり経ったことを感じ取った男は、すくっと立ち、リュックサックを掴む。
そして、家の扉の方に歩き始めた。
なんとなく感じた居心地の悪さが、足運びを早める。
扉の前に辿り着いた男は、周りを確認せず、そのままくぐる。
扉のベルがチリンと鳴り、男は意識を失った。
男が気付くと、ダイニングの入り口に立った状態で壁に寄りかかっていた。
照明のついていない部屋は暗く、スイッチを入れる。
時計を見ると、もう夜半過ぎだった。
男は空になったエサ皿を見て、エサの置いてある棚へと向かった。




