第43扉 大樹
今日は平凡。
この言葉が一番似合う日だった。
朝のルーティンとして猫と鳥のエサやりをこなし、家を出る。
満員電車に揺られ、会社に行き、いつものように仕事をする。
少しはみ出た分は残業でカバーし、買い物をしてから遅めの帰宅。
最後は鳥とじゃれながらビールを呷り、程々の時間に寝た。
翌日。
足にのしかかる猫の重みで目を覚ました男は、猫を起こさないようにするりとベッドから抜け、起き上がる。
着替えをしてからダイニングに向かい、猫と鳥にエサを用意していると、鳥が肩に降りてきた。
テーブルに置いておいた菓子パンで朝食を済ませ、扉に向かう準備でリュックサックを部屋から持ってくると、鳥はエサ箱に飛んで行った。
そして、リュックサックに着替えや雨具、飲み物や食べ物を詰め込み、それを背負って扉へと向かった。
今日の扉は丸太を縦に組み合わせ、金属の帯で固定した簡素な扉だった。
その金属は、見る角度によっては虹色に輝き、なんの材質か分からない。
取っ手の部分は、樹皮を削り取っただけの凹みで、簡素な造りだった。
男はその凹みに手を掛け、扉を押し開いた。
扉の先から一陣の風が流れ込んできた。
深緑の香りと舞い込んできた葉が、男の体に纏わりつく。
風が止んで落ち着くと、鳥が肩に止まった。
鳥のピーピーと鳴く声が、先を急かす言葉に聞こえた。
扉をくぐると、カサリと足音がした。
足元には葉が散乱している。
目の前には一面の幹。
あまりにも大きな幹と根に、周辺の木々を一瞬意識することが出来なかった。
扉から離れ、辺りを見回す。
周辺の木々と違い、目の前の木は異彩を放ち、貫禄を纏っていた。
見上げると、木の葉を縫って漏れ出る太陽の光は淡く、森の湿気と相まって清涼感がある。
枝と木の葉に覆われ、空を見ることはできなかった。
肩に乗っていた鳥は、男の背の丈ほどの高さに張り出した根に飛び移る。
根の上で飛び跳ね、ピピッと鳴いた後、肩に戻ってきた。
男はここから見えない側へ向かって歩き出した。
地面は柔らかく、ふわふわとした感覚で少し歩きづらい。
転ばないよう、注意しながら足を進めた。
途中、木の実を抱えたリスが木の上から降りてきた。
両手に収まるほどの大きさのリスと、親指程の木の実で、男が思い描く大きさだった。
リスは木の実を口に含むと、遠くの方へ走り去っていった。
鳥はそれを追うように肩から飛び立ち、先へと進んでいった。
男も続いてリスと鳥の向かった方へと歩き出した。
木漏れ日で照らされている中、時折爽やかな風が吹く。
それでも、だいぶ歩いてきた男の額には汗が滲んだ。
木の根の片隅に腰を掛けるには丁度いい岩を見つけ、男は腰を下ろす。
後ろ手をつき、上を見上げて、ふぅーと息をついた。
陽射しの加減か、風で揺れている木の葉がキラキラと輝いているように見える。
男はその光景を幻想的に感じた。
そうして一息ついていると、上から何かが降りてきた。
近づいてきたそれは、膝の上に止まる。
鳥だった。
何か赤い実をつけた枝を咥えている。
その枝を膝の上に下ろすと、つんつんと実をつついていて、遊んでいるように見えた。
一通り遊ぶと落ち着いて、うとうとしだす。
膝から落ちた枝には、もう関心がないようだった。
それを見届けた男は、起こさないよう慎重にリュックサックを肩から降ろし、飲み物を取り出すと呷った。
飲み物をリュックサックに仕舞い、しばらくボーっとしていると、鳥が肩に乗る。
その仕草は、もう次に行こうと急かしているようだった。
男は立ち上がり、先へと足先を向ける。
肩の上で鳥の飛び跳ねた仕草が出発の合図かのように思い、男は歩き出した。
進んでいくと、木の葉の揺れる音やサクサクという足音に水音が混ざりはじめる。
周りの木々がまばらになり、視界が開けていった。
そこには小さな湖が広がっていた。
男の視界にすべて収まる程度の大きさの湖は、半分以上が大樹の影に覆われていたが、残りの湖面はキラキラと光を反射している。
大きな根に男は背を預け、湖を眺める。
遠くの方でシカが、湖面の水を飲んでいた。
鳥は湖の浅瀬に近づくと、おっかなびっくりしつつ、水浴びを始めた。
男はその様子を見ながら、リュックサックに詰め込んだ食べ物のおにぎりを取り出すと、かぶりついた。
飲み物も取り出して飲み、おにぎりを飲み込むと、ゆっくりとしゃがんだ。
不意に湖面で反射した光が、男の視界を奪う。
目を細め、視界を取り戻すと、鳥は水浴びをしていたが、シカはいなかった。
しばらく男が呆けていると、鳥は肩に戻ってくる。
着ていたシャツが少し濡れた。
男が指で鳥をつつくと、鳥は飛んでくるくるっと旋回してから反対側の肩に止まった。
ふと視線を空に移す。
太陽は隠れ、広がった雲は白から灰色へ移り変わっていった。
男は飲み物のボトルとおにぎりの包装をリュックサックに突っ込むと立ち上がった。
家からの道の方へ体を向けると、鳥はピッピッと鳴いた。
陽が木の葉で遮られても明るかった道が、時間が経つにつれて暗くなっていく。
木の葉の揺れる音が、サラサラからパラパラと変わっていった。
葉から伝ってきた雫が、男の頬を濡らす。
男は一度止まり、リュックサックから雨具のポンチョを取り出すと、肩に止まっていた鳥ごと羽織る。
鳥はもぞもぞと動き、肩から男の首元に這い出てきた。
パラパラと音が響く中、湿った地面を慎重に…それでもなるべく濡れないように歩を進める。
慣れない地面に何度か滑りそうになりながらも、なんとか扉の前に辿り着いた。
男は辺りを見回すが、動物の姿はない。
ポンチョのフードについた水滴を払うと、男は扉をくぐる。
…そして、意識を失った。
男が意識を取り戻し、自分の姿を確認する。
ポンチョは着ていなかったが、頬や肩は濡れていた。
周りを見渡して場所を確認すると、自室のベッドの上に横たわっていたことが分かった。
ポンチョは椅子の背もたれにかかっている。
猫は足元で寝ていたが、鳥の姿は見えない。
男は起き上がり、ダイニングへ向かうと、鳥はエサ箱に掴まってうつらうつらとうたた寝をしていた。
窓からは陽が射している。
男はダイニングを離れ、玄関から外に出ると、外は青空が広がり、虹がかかっていた。




