第40扉 島
今日は…忙し過ぎて、それ程覚えていない。
ここ一週間、残業に残業を重ね、前日は缶詰で社泊になり、体も心もボロボロ。
家事も最低限のことだけをこなして、ベッドに倒れ込んだ。
翌日。
不自然な体勢で寝たため、体のあちらこちらが痛い。
服装も会社帰りのまま。
目覚めて時計を確認すると、正午過ぎだった。
上半身を起こして伸びをすると、そこで初めて猫が足元にいることに気付いた。
ベッドから起き上がり、ダイニングに向かおうとすると、猫も起き、足元にすり寄ってきた。
ダイニングで昨夜入れた猫と鳥のエサに問題ないことを確認し、風呂場へと向かう。
シャワーを浴びてひと息ついた頃には、もう夕方前とも思える時間だった。
男は少し迷ったが、扉に向かうことに決め、準備を始める。
ゼリー飲料を咥えながら、リュックサックにタオルや着替え、飲み物などを詰め込む。
そして、リュックサックを背負い、扉へと向かった。
今日の扉は木製で、薄くて古びた扉板の簡素な造りだった。
扉がはめ込まれた外壁も、同じような木造りになっていた。
所々煤けて、黒くくすんでいる。
取っ手は金属製でコの字状になっており、ねじで留められていた。
その取っ手も古いようで、少し錆が見える。
取っ手を握り、少し力を入れてみる。
見た目ほどは壊れておらず、これなら普通に開きそうだ。
…そして、男は取っ手を引き、扉を開けた。
開けた扉の先から、深緑の香りが流れ込んできた。
少し湿った風が、男の頬を軽く叩いた。
扉をくぐると、辺り一面に木々が生い茂っていた。
正面には踏み慣らされただけの道があり、その先へ目を凝らすと、少し開けているように思えた。
ゆっくりと歩き出す。
サラサラと木の葉がなびく音の中、遠くから鳥の鳴き声が聞こえてきた。
まだ足取りは重かったが、徐々に今週の辛さから解放されて軽くなっていくのを感じていた。
道の途中、腰を下ろすにはちょうどよさそうな木の根を見つけ、休憩することにした。
まだ、体は心に追い付いていないんだな…と感じる。
座って仰ぎ見ると、木々の隙間から快晴の空が見えた。
リュックサックからタオルを取り出し、顔を拭く。
少し陽射しは強いが、時々吹く心地よい風に身をゆだねると、あまり暑くは感じない。
しばらくして視線を道の方に戻すと、開けた場所が見えるぐらいになっていた。
男はタオルを仕舞って立ち上がると、歩き出す。
道の終点に近づくにつれ、流れてくる風はべたつく湿気をはらみ、潮の香りが強くなっていった。
森を抜けると砂浜と海が広がり、水平線の方には島らしき陸地の影が見えた。
寄せては返す波の音が心地いい。
だが、遮るもののない陽射しは、少し暑い。
男は辺りを見回して、海岸を望める位置の木陰を探し、そこまで戻る。
木陰の砂浜に座って後ろ手をつき、海を眺めた。
時折吹く海風が男の額の汗を攫っていき、波音が心を落ち着かせる。
男はリュックサックから飲み物のペットボトルを取り出し、口をつけた。
ふぅ…と、ため息が漏れる。
空を見上げると、数羽のカモメが飛び去っていった。
…ハッ、と気付くと、辺りを見回す。
男はウトウトと、少し眠っていたようだ。
仰ぎ見ると、なぜかまだ太陽は高く、サンサンと陽射しを振り撒いていた。
中身が半分ぐらい残っていたペットボトルの砂を落とし、リュックサックに仕舞う。
伸びをして立ち上がると、服についた砂を払い落とし、首を回してコリをほぐした。
海岸線に沿って視線を移していくと、砂浜の先は崖になっており、登ることは出来なさそうだった。
その崖の下に、小さな建物が見える。
自然だけの場所かと考えていた男は、少し不思議に思い、そこまで向かうことにした。
森の木々から伸びる日陰に入りながら、海岸線に沿うように歩みを進め、その建物に辿り着いた。
建物は丸太で組まれた、屋根と骨組みだけのテントのような構造だった。
中を覗くと、四人掛けのテーブル一卓が手前にあり、座面が高めの椅子が三脚、カウンターの前に並んでいた。
男は建物に入り、カウンターの椅子の一つに座ると、肘をついて頬杖をした。
カウンターの奥には棚があり、木彫りの器や樽型のジョッキが並んでいる。
大きなトレイの上には見たことのある果物、スイカやブドウ、桃などが盛られていた。
それらはどれも色つやが良く、新鮮に見えた。
そこで男の腹から、虫の抗議の音が鳴り響く。
一旦は躊躇ったが、ブドウを手に取り、光に透かしたりして確認する。
そして、一粒口に入れた。
芳醇な味と香りが口の中に広がる。
もう一粒、もう一粒…と食べていき、無くなってしまった。
あっ…と気付いたときは、もう遅い。
辺りを見回し、誰もいないことを確認すると、なぜかほっと胸をなでおろしてしまっていた。
もうここまで来たならば…と、男は桃にも手を付ける。
ジュワっと瑞々しい果肉が口の中で溶け、濃厚な甘さが味覚を刺激した。
あっという間に桃も食べ終え、近くにあった木皿にへたと種を入れた。
ふぅーっとため息をつき、食べた余韻で背を反らしたが、背もたれが低い椅子で転びそうになる。
なんとかバランスを保ち、カウンターに手をついて体を安定させると、小さな自嘲の笑みをこぼした。
少しの間、ボーっと休憩をしてから、席を立つ。
海の方に視線を移すと、見上げずとも太陽が視界に入るぐらいの位置になっていた。
今日はもういいか…と男は考え、家の方へと向かった。
砂浜を歩いていると、波音と少し違うパシャンという水音が聞こえ、視線を海に向ける。
そこには二頭のイルカが、ジャンプして遊んでいるように見えた。
イルカが見えなくなると、視線を来た道の方に戻し、男は家路を進んでいく。
その後は何事もなく、家への扉の前に辿り着いた。
男は扉の前で一度振り返り、辺りを見回す。
何もないことを確認すると、向き直って扉をくぐった。
…そして、男は意識を手放した。
男が気付くと、ダイニングの椅子に頬杖をついて座っていた。
辺りを見回すと、猫が床でだらーんと寝ており、鳥はこの部屋にいなかった。
時計を確認すると、まだ夕方に差し掛かった時間だった。
男は自分が汗臭いと感じ、風呂場へと向かった。




