第38扉 鍾乳洞
今日は終始落ち着いた日だった。
先月の追い込みを終え、今週の仕事は穏やか。
そんな中で迎えた朝は、疲れが少なくてすっきりと目覚めることができた。
ダイニングでエサを用意し終えて朝食を摂っていると、猫と鳥がやってきてエサを食べ始める。
朝食を食べ終わり、出勤の準備をする途中でも、鳥と遊ぶ余裕があった。
駅に着き、電車に乗る。
いつもより数本前の電車のためか、満員ではなく車内に若干の余裕があった。
会社に着いて自席に座り、辺りを見回すと、空席が多い。
予定表のホワイトボードに視線を移すと、大きな文字で『有給休暇奨励日』と書いてあった。
会話が少なく、キーボード入力の音だけがオフィスに響く。
男は静かな事務所で淡々と仕事を終え、定時で退社した。
帰り道、スーパーマーケットに寄り、自分の夕食と猫と鳥のエサ・おやつを買い込む。
缶ビールを買うことも忘れない。
定時退社で機嫌のいい男は、おやつを少し良いものにした。
明日のために用意するものを買い忘れかける小さなハプニングはあったが、問題なく買って店を出た。
家に帰り、着替えてからエサを用意し、落ち着いてから晩酌を始める。
ビールを飲みながら猫と鳥に与えたおやつは、概ね好評のようだった。
翌日。
耳元で囁く鳥の鳴き声で目が覚めた男は、上半身を起こし、両手を上げて伸びをする。
ベッドから降りてダイニングに向かおうとすると、鳥が肩に乗ってきた。
ダイニングに入ると猫がいて、昨日残したエサを食べている。
鳥のエサ箱に目をやると、まだ十分な量が残っていた。
男は冷蔵庫を開け、朝食に何かないか確認しようとかがむと、鳥はエサ箱に飛んでいった。
冷蔵庫の中には、昨日食べ忘れた夕食用のパスタが残っていた。
それを食べることにした男は、冷蔵庫から取り出して電子レンジで温めた。
そして、男が朝食を食べ終えた頃には、猫も鳥もダイニングにはいなかった。
男は着替え、扉へ向かう準備を進める。
リュックサックを持ってきて、中身を点検した。
いつもの道具が入っていることを確認してから、着替えやタオル、飲み物や食べ物を詰め込む。
そして、そのリュックサックを背負い、扉へと向かった。
今日は丸太を組み上げた外壁に、鉄格子の扉がはめ込まれていた。
鉄格子は黄色と黒の縞模様に塗られている。
格子の隙間から覗く奥は暗く、見通すことができない。
男が鉄格子の取っ手を握り、扉を開いた。
氷室のような湿気をはらんだ冷気が、扉の先から流れてくる。
扉をくぐって辺りを見回すと、そこはコンクリートのようなもので固められた無機質な廊下が続いていた。
天井には誰が管理しているかも不明な蛍光灯が並び、廊下を照らしている。
男が廊下を進んでいくと、カツーン、カツーンと足音だけが響く。
少し進んだところで、廊下が途切れていた。
途切れた箇所の床や壁、天井には、鉄格子と同じように黄色と黒の縞模様に塗られている。
男はその場所の手前に立ち、前の方へと目を凝らす。
そこから先は洞窟になっていた。
岩肌の壁はうっすらと光っていて、男が通れそうな大きさの空洞が続いていた。
不思議な光景に疑問を抱きつつも、先に進もうと心に決めた。
男は立っていた場所から一段下がっている洞窟の地面に、ゆっくりと慎重に足を降ろす。
地面も壁と同じく岩肌だったが、踏みしめた感触から、なんとか歩けそうだとわかった。
滑らないように足元を確かめ、ところどころ壁に手を掛けながら、ゆっくりと歩いていく。
しばらく進むと遠くから、水滴が落ちる音が聞こえてきた。
更に進み、音の方に近づくにつれて、地面の濡れている箇所が多くなり、足元が不安定になっていく。
そして、水滴だけではなく、水の流れる音も聞こえてきた。
ふと下を見ると、足元から少し離れた場所に、手のひらほどの幅の小川が流れていた。
その川に沿って、更に奥へと進んでいく。
歩いていると、急にひやっとした感覚に襲われ、背筋を伸ばす。
洞窟の水滴が、首筋から背中へと入り込んだようだった。
男は上に視線を向けると、そこには小指程度の鍾乳石ができていた。
辺りを見回すと、鍾乳石だけではなく、石筍もあちらこちらにできており、不可思議な光も相まって幻想的な雰囲気を醸し出していた。
立ち止まって、その光景を眺める男。
水音と、ひんやりとした空気が流れるだけの、そんな時間が過ぎていった。
しばらく経って、先の方に視線を移すと、洞窟は続いていた。
しかし、幼稚園児が辛うじて通れる程度の大きさで、男は実質ここで行き止まりだな…と思った。
引き返すか…と視線を外そうとした直前、白い何かが洞窟の先の方へ、壁伝いに走っていく。
その何かは一旦止まってこちらの方を見たが、向き直ると奥の方に消えていった。
イモリか何か…どのような動物かわからなかった。
男は気を取り直して、入口の方に足を向けた。
来た道を辿って、進んでいくと、気が抜けたのか、足を滑らせそうになる。
男は一度止まり、気合を入れ直して慎重さを取り戻す。
そこで自分の体がかなり冷えていることに気付いた。
リュックサックからタオルを取り出し、首に巻き付ける。
寒さに気付いてからは少し足早になりつつも、慎重に道を進んでいった。
男はなんとか廊下の前まで辿り着き、両手をついてよじ登る。
廊下に入った男が振り向くと、洞窟の中では数匹のコウモリが飛び交っていた。
その一匹が天井に止まり、こちらを見る。
そこで男とコウモリの視線が合ったが、男の方から視線を切り、家の扉の方へと歩いていった。
扉の前に辿り着くと、そのまま止まることなく、扉をくぐる。
…そして、男は意識を失った。
気付くと男は、ダイニングの椅子に頬杖をついて座っていた。
時計を見ると、夕方近くだった。
入口に視線を移すと、猫も鳥も、男を見て寄ってきたが、すぐに離れていった。
なんだろうかと考え、自分の服装を見るとかなり汚れており、泥臭さも感じた。
そこで男は、自室に戻って着替えを用意し、風呂場へと向かった。




