第37扉 酒蔵
今日は雨のち晴れ。
天気だけではなく、男の生活もそんな日だった。
眠りが浅く、まどろみの中、猫の重みで起こされる男。
カーテンの隙間から覗く空は、陰鬱な曇天が広がる。
上半身を起こし、首を傾けてコリをほぐすと、ベッドから這い出るように起きてダイニングへと向かう。
猫と鳥にエサを用意していると、外からサァーっと雨音が聞こえてきた。
男は雨や湿気、日々の疲れに辟易しながらも傘を持ち、玄関のドアを開けた。
駅に着き、いつもの満員電車に乗る。
朝に似つかわしくない暗い車内に、雨で張り付いたスラックスが不快度を上げていく。
車内の端の方では、諍いの声も聞こえてきた。
諍いには巻き込まれず、なんとか電車から出て、ホームに降りる。
改札口から空を見上げると、雨は上がっていたが、暗い雲が広がっており、日差しは男に届いていなかった。
会社に着き、自席に座って仕事の準備を始める。
社内にも空模様と同じような、どんよりと陰鬱な雰囲気が広がっていた。
隣席の後輩から話しかけられ、事情を聞くと、いつも明るくて愛嬌のある上司がミスをしてしまい、隣課のお局様たちに嫌味を言われたとのこと。
ムードメーカーでもある彼女が落ち込んでいることで、雰囲気が悪くなっていた。
トボトボと自販機の方に歩いて行く彼女を見掛け、急いで後を追う。
会議室を通ってショートカットし、先回りして自販機コーナーへ着いた男は、彼女の好きなはちみつレモンを買って渡した。
そして、自分の分としてブラックコーヒーを買い、落ち着かせようとベンチに座るように促した。
しばらく無言の時間が続く。
隣でちらりと横顔を窺うと、俯いた彼女の表情が先程よりは明るくなっていた。
突然、『よしっ』と一声あげて立ち上がった彼女は、『…ありがとう』と小さく言葉を残し、自席に戻っていった。
ベンチに座ったまま見送る。
しばらくボーっと休憩してから席に戻ると、靄がかかったような暗い雰囲気だったオフィスは、幾分か晴れていた。
残業して今日の分の仕事をなんとか終えた男は、帰り支度をしていると後ろから声を掛けられた。
その声で振り向くと立っていたのは、少し照れ臭そうにしている上司と、それに付き添っているらしい同僚。
今日のお礼に奢るから飲みに行こうとの誘いだった。
男は彼女らの誘いに乗ることにして、途中だった帰り支度を済ませ、外に出る。
空を仰ぎ見ると雲ひとつなく、上弦の月が辺りを照らし、星々が瞬いていた。
翌日。
カーテンの隙間から漏れ出る陽の光で目が覚めた男は、両手を上にあげて伸びをする。
脛辺りにいた猫を器用に避け、起き上がると頭の上に鳥が止まった。
男は頭の上に鳥を乗せたまま、ダイニングへと行き、猫と鳥にエサを用意した。
鳥はエサに目もくれず、頭の上で小さく飛び跳ねて遊んでいた。
男が冷蔵庫へ行き、ゼリー飲料を取り出すと、鳥は飛んで行ってエサをついばみ始めた。
朝食はゼリー飲料だけで済ませ、出掛ける支度を始めた。
リュックサックにいつもの道具が入っていることを確認して、タオルや着替えを詰め込んだ。
冷蔵庫から飲み物を取り出し、それもリュックサックに詰め込む。
そして、準備が終わったリュックサックを背負い、扉へと向かった。
今日は重厚な石造りの観音開きの扉だった。
外壁と扉は白く、扉の中央には黒い鉄の取っ手とその上に大きな閂がかかっている。
男はその閂を慎重に外して外壁に立て掛けると、ゴトリと低い音が辺りに響いた。
取っ手を掴むとヒンヤリとした金属の感触が手に伝わる。
力を入れ、扉を開くと、中から年季が入っていそうな木造りの引き戸が現れた。
石が積まれて敷居が一段高くなっていた引き戸は、格子状の戸枠で内側に網が張ってあった。
その戸の先から見える中は暗く、奥まで見通すことができない。
男はおそるおそる引き戸の取っ手を握って力を込めると、ガラガラガラという少し建付けが悪そうな音を立てて扉は開いた。
扉の先から、乾いた炭のような匂いと少し冷たい空気が流れてくる。
慎重に足を踏み入れて扉をくぐると、上の方にある窓から光が射し、ぼんやりと部屋の内部が見えてきた。
最初に目に入ったのは、立派な梁だった。
その梁は黒ずんでおり、年季の程がうかがえる。
視線を移して床を見ると、何か大きなものが置いてあった形跡があり、空っぽの部屋は今ではもう使用されていないようだった。
正面に視線を移すと、奥の方にもう一つの扉があった。
その扉は家から来た時の扉と同じ造りだが、引き戸からは光が漏れ出ており、観音開きの扉は既に開いているようだった。
引き戸を開け、外に出た男は、陽の光に目がくらんだ。
そこで一陣の風が吹き抜ける。
その風は甘さを含んだ酒精のような独特の香りをはらんでいた。
視力が回復し、辺りを見回すと、出てきた蔵と同じ大きさの蔵が横に並んでいる。
そのほとんどは扉が固く閉じられているようだったが、端の蔵だけ扉が開いていた。
男はその蔵に近づき、中を覗くと、中の引き戸は閉じられていた。
引き戸に手を掛け、横へスライドさせると、開くことができた。
中に入ると、先程感じた香りが、ここではより強く感じられ、この香りが苦手な人ならすぐに蔵から出てしまうぐらいだった。
薄暗い室内を見渡すと、自分の背丈を超える高さの木樽が、左右にズラリと並んでいる。
その木樽のひとつをよく見ると、注ぎ口が開いているにもかかわらず水跡がなく、中身がないことがうかがえた。
男は他はどうかと奥まで進んでみたが、すべての木樽が空のようで、それ以上の変わったものはないようだった。
中身がないのにこれだけの香りが漂っているのは、長年使用されて染み付いているからだろうか?
これ以上は無用だと蔵から出て、入口に腰を掛けると、空を仰ぎ見る。
空には薄いうろこ雲が掛かっており、ちらちらと陽の光を和らげていた。
改めて正面を見ると、母屋のような建物があり、手前には木彫りのキツネや馬、蛇のモチーフが飾られていた。
建物の正面には入れそうなガラス張りの戸があって、そこから中の様子を少しだけうかがい知ることができた。
戸から中を覗くと日本家屋で見られるような神棚が設けられており、その中心部の御神鏡がキラリと光った気がした。
その途端、背筋に寒気が走り、姿勢を正してしまった。
なんとなく居心地が悪くなった男は帰ることに決め、最初の蔵を目指して足を向けた。
蔵に着き、入る前に振り返って空を見上げると、雲が消え、日差しが強くなっていた。
その空に一羽のノビタキが飛んでおり、そのまま通り過ぎていった。
蔵に入り、家への扉に辿り着くと、男は顧みることなく扉をくぐる。
…そして、男は意識を失った。
男は意識を取り戻すと、上半身を起こし、辺りを見回して確認する。
自室のベッドで横になっていたようだ。
窓に視線を向けると、茜色の光が射していた。
伸びをしてからベッドを降りると、猫が足元にすり寄ってくる。
男はエサを用意するために、ダイニングへと向かった。




