第36扉 山頂
今日は色々と立て込んだ日だった。
仕事が忙しくて残業が続いていた今週は、疲れが溜まっていて朝の起床もぎりぎりになった。
そのせいでろくに身だしなみを整えられず、猫と鳥にエサを用意してから、飛び出すように家を出た。
駅に着き、滑り込むように満員電車に乗る。
繁忙期のせいか、電車もいつもより人が多く、混み具合は二割増しといったところだ。
足が浮いたかのような状態で、女性に手が当たらないよう必死に両腕を上げて、会社の最寄り駅に辿り着くのを待つ。
駅に到着すると、雪崩を打つかのように降車する人たちにもまれながら、這い出るように改札を出た。
なんとか会社に着き、へとへとになりつつも自席に座ると、待っていたのは書類の山だった。
はぁ…とひと息つき、うんざりしつつも書類を手に取って、仕事を始める。
ちらりと周りを見渡しても、みんなが仕事に没頭しており、重い空気が広がっていた。
カタカタとキーボードを叩く音だけが響く中、男は首を回し、背中を伸ばすように両手を上にあげて伸びをする。
時計に視線を移すと、定時を過ぎていた。
そこで突然、軽く肩を叩かれる。
振り向くと、上司が缶を二つ持って立っており、その一つを男のデスクの上に置いた。
無理しないように声を掛けてから、離れていく上司。
こういう気遣いにも、社内で人気がある理由の一端を見た気がした。
なおも残業が続き、ようやく一区切りついて辺りを見回す。
それでも、まだ残っている人がちらほら見受けられた。
隣の後輩の席に手伝った分の書類を置き、帰り支度をサッと済ませて会社を出る。
帰ろうと駅の方へ足を向けたところで、後ろからカツカツカツと次第に大きくなってきた足音に気付いて、振り返る。
そこには、いつもの落ち着きを失った同僚が居た。
普段は忙しくとも凛として清廉な雰囲気を持つ彼女らしくなく、はぁはぁと息を切らし、首筋に汗がきらりと光る。
少しだけ驚いた男は、同僚が落ち着いてから用件を聞くことにした。
同僚からの話としては、単純に仕事を手伝って欲しいということだった。
ただ、その仕事の内容は、他課の上司のミスで面倒事が起こっていて、その課がてんやわんやになっているとのことらしい。
困っていたときに、男が帰るところを見かけた同僚は、慌てて追ってきたそうだ。
貸し一つだと冗談交じりに同僚へ言葉をかけ、頭を掻いてから会社へ足を向けた。
会社に戻り、詳細を聞くために嫌々ながらミスした本人を探していると、その事態を収めるべく現場を差配していたのは何故かうちの上司だった。
上司である彼女に原因の当人はどうしているかと尋ねたら、取引先との接待に行って連絡がつかないとのこと。
はぁ…とため息をひとつつき、これ以上に混乱を引き起こしそうな要因がいないからいいか…と思い直して、手伝うために気合を入れて腕まくりした。
同僚や他課の人の奮闘と上司のきめ細やかな気配りや正確な指示があり、なんとか終電前に仕事を終わらせることができた。
急ぎ片付けて会社を出ると、最終電車へ間一髪で乗り込んだ。
ほうほうの体で帰宅した男。
猫や鳥の世話もできず、すべての家事を放棄してふらふらと自室に向かい、気を失うかのような勢いでベッドへ倒れ込んだ。
翌朝。
昨日のままの服装と倒れたようなうつ伏せの体勢に気付き、目が覚める。
強張った体をほぐすように伸びをしてから辺りを見回すと、ベッドで猫が諦めたかのように丸くなって寝ていた。
まず何をしようかと考えてから立ち上がり、ダイニングに向かった。
猫と鳥にエサを用意していると、男は服装から漂う嫌な臭いと汗で張り付くような着心地の悪さを覚え、風呂場に向かう。
シャワーを浴びて着替え、すっきりした男は、ダイニングに戻り、椅子に座った。
ほっとひと息入れると、今日の準備を何もしていないことに気付き、コンビニに向かうことにした。
食べ物や飲み物、そしてストックが切れていたビールを買い込み、家に戻る。
ダイニングで買ってきた朝食を開けていると、猫が入ってきてエサを食べ始める。
鳥はつついていたエサ箱から離れ、朝食を食べている男の肩に止まった。
朝食を食べ終えて、今日の準備でリュックサックの点検をしていると、鳥は飛んでダイニングを出ていった。
確認が終わってリュックサックを背負うと、扉へと向かった。
今日の扉は樹皮を剥がさず丸太の素材のままで使っている簡素な造りだった。
細い丸太を何本も並べ、鉄のバンドで固定してある。
その武骨な扉の取っ手は鉄製で、その上に小さな閂がついていた。
男はその閂を横にスライドさせ、取っ手を握って前へと押し開いた。
少し肌寒い澄んだ風が、扉の先から舞い込んでくる。
目の前には青と白のコントラストが映える空が広がり、雲間から遠慮がちに覗く太陽が辺りを照らしていた。
扉をくぐって一歩踏み出すと、じゃりっという音が鳴り、小石を踏んだ感触が足裏に伝わった。
岩肌に近いような硬い感触の地面に立って、辺りを見回す。
まばらに生えている草木が風になびき、サラサラと音を立てていた。
目の前にある道は緩やかな登り坂で、整備されていない凸凹の道が上まで続いている。
男は少し気合を入れ、ゆっくりと歩き出す。
転ばないよう慎重に歩いていると、坂の終わりが見えてきて、その先に何か建造物があることが分かった。
平地に辿り着くと、男の額に汗が滲む。
顔を上に向けたところで一陣の風が吹き、その汗を攫っていった。
辺りを見回すと、眼下には森が一面に広がり、遠くに川や湖も見て取れる。
この山の中腹に薄い白い靄のようなものがまばらに見えるが、それは霧だろうか。
正面に視線を移すと、先程見えた建造物は鳥居だった。
人がギリギリすれ違うことができる小さな鳥居の先に、祠が見えた。
坂を登り切った達成感から気が抜けて疲れを感じた男は、腰を掛けるのにちょうどいい岩を見つけ、そこへ歩み寄ると腰を下ろして後ろ手をついた。
仰ぎ見ると、空には暗い色が混ざった幾ばくかの積雲が流れており、男は山らしい天候の不安定さを感じた。
リュックサックから飲み物を取り出し、口をつけて落ち着くと、ふぅ…とため息をついた。
その場でゆっくりしていると、雲が増え、辺りの明るさが減っていく。
これはまずいかな…と感じた男は、飲み物をリュックサックにしまうと、すくっと立つ。
一応、雨具も準備はしているが、使う気がない男は、家への扉の方に足を向けた。
慎重に、けれど急いで家路を進む。
空もみるみるうちに暗くなり、曇天が広がっていく。
なんとか雨が降る前に、家への扉の前に辿り着いた。
ちらりと横を見ると、木の陰からカモシカが見送るようにこちらを窺っていた。
それよりも雨に濡れることから避けたい男は、それを気に留めずに扉をくぐった。
…そして、男は意識を失った。
気付くと男は、自室のベッドで寝ていた。
まるで祈るかのように手を組み、仰向けになっていた。
ぼやけていた意識がすっきりして、思考を取り戻すと、がばっと上半身を起こし、窓を見る。
街灯だけが光る真っ暗な外から視線を移し、時計を見ると夜のはじめ頃だった。
男は頭を掻いてから起き上がると、エサやりのためにダイニングへと向かった。




