第32扉 客船
今日は波風が立ち、何かとハレーションが起きる日だった。
朝、寝ぼけまなこで猫と鳥のエサを用意しにダイニングへと向かう途中、猫に足を引っ掛けてしまう。
それで猫に噛まれ、鳥のエサをぶちまけてしまった。
男はお詫びとばかりに猫と鳥へご褒美用のエサを与え、ご機嫌を取った。
通勤途中の駅の階段では、歩きスマホをしていた女性がつまずいてスマホを落とし、下段を歩いていた作業着の男性に直撃した。
その男性はよろめき、更に下の段を歩いていた女性を突き飛ばしてしまう。
その女性の下の段を歩いていた男は、その女性を抱きしめるようにキャッチしてしまった。
抱きしめた拍子に顔を確認すると、その女性は会社の同僚だった。
顔が赤くなる女性。
男は慌てて身体を離す。
お互いに顔を見合わせ、数回深呼吸すると、一見、何事もなかったかのように表情を作り、同僚とは少し離れて会社へと向かった。
なんとか会社に着いて自席に座り、仕事を始める。
ひと段落ついたところで男は背もたれに寄りかかり、伸びをする。
そこに飛び出してきたのは、急いで席に戻ろうとしていた男の後輩。
椅子の後ろに伸ばしていた手にぶつかり、後輩が持っていたコーラが、カップから離れて宙を舞い、今から男が使う会議資料へと吸い込まれていった。
一度、呆然としたが、気を取り直して作業にかかる男。
すみません、すみません…と平謝りしている後輩に、不注意はお互い様だと目を見ずに言って、作業に取り掛かる。
そこで通りかかった同僚が、それならば…と手伝ってくれた。
黙々と三人で作業を進める。
結果として、遅れたものの、少し待たせた程度で会議に間に合わせることができた。
会議が終わった後、男は上司に呼び出され、今回の事を聞かれた。
事の顛末を話すと、大変だったねと労ってくれた。
相変わらず、人の良い上司だ。
愛嬌もあり、みんなに人気があるのもよくわかる。
仕事を終えて帰る準備をしていると、後ろから声を掛けられた。
振り向くと、そこにいたのは上司、同僚、後輩の面々。
何か用かと聞くと、労いとして飲みに行こうとのこと。
そして、会社近くの居酒屋で飲むこととなった。
今回は軽い飲みで、上司も同僚もぐでんぐでんにならなかったのは、後輩がいたからだろうか。
帰りがけに家の床がエサまみれになっていることを思い出し、少し憂鬱な気分で家路に就いた。
そして、翌日。
目が覚めると、隣で猫が寝ていた。
隣は隣でも布団の上にいて、少し重い。
跳ね除けるように起き上がると、猫は場所を変えて再び寝てしまった。
ダイニングへと向かうと、鳥は昨日の残りのエサをつついていた。
男は猫のエサ入れに追加のエサを入れてから、今日の準備のために着替えてコンビニへと向かった。
コンビニで食べ物と飲み物を買い込み、家に戻ると早速、リュックサックにそれらを詰め込んだ。
そして、扉へと向かう。
今日の扉は、白い鉄製の外壁にはめ込まれ、気密性の高そうな扉だった。
中央部には、太いボルトで固定された丸い窓枠があり、厚いガラスがはめ込まれている。
その窓からは中を窺い知ることは出来なかった。
頑丈そうな蝶番の反対側には、シンプルなコの字の取っ手があり、更にその横には南京錠がぶら下がっている。
その南京錠は開いていて、鍵が掛かっていなかった。
男はその取っ手を握りしめ、力を入れて、扉を開けた。
開いた扉の先から、僅かな潮の香りが漂い、ゴウンゴウンという何か機械が動いているような音が聞こえてくる。
空調設備が動いているのだろうか、少し冷たい空気もふんわりと流れてきた。
男が扉をくぐり、足を踏み入れると、学校の廊下を思わせる固い床に靴底が擦れ、キュッという音が響いた。
そしてその場に立って辺りを見回すと、ゆっくりとぐらりぐらり揺れている感覚が伝わってきた。
この場所は真っ白で武骨な鉄製の壁が続き、その壁には手すりが通路沿いにずっと続いている。
廊下の所々でオレンジ色の配管がむき出しになっていた。
時々揺れに足を取られ、手すりに掴まりながら歩いて行くと、家からくぐってきた扉と同じ造りの扉が見えてきた。
男は戸惑うことなく、その扉を開けた。
扉から吹き込む強い潮風に、男はたたらを踏んで少しよろける。
よろけた先の壁に寄りかかり、頭を上げると、目の前に映ったのは真っ青な水平線と茜色に染まりつつある空だった。
下に視線を移すと、この船が白い飛沫を上げながら、ゆっくりと進んでいることが見えた。
茜色に染まっていく空を横目に見ながら、通路を前の方へと歩いて行く。
潮風は時間が進むにつれて弱くなり、多少のべたつきはあるが、心地よい風に変わっていった。
少し歩くと、広い場所に出る。
そこは目の前に大きなプールと横にバーが併設されたラウンジがあり、これがただの船ではなく豪華客船だと思わせた。
ただ、男はここが異質な雰囲気だと感じていた。
それは、プールにもラウンジにも客はいなく、バーにも店員など乗務員さえも見当たらず、人の気配を感じさせないからだった。
あちらこちらと歩いた男は少し疲れ、プール横のサンラウンジャーのひとつに腰を掛ける。
横のテーブルの上にリュックサックを置き、サンラウンジャーの背もたれに寄りかかって、横になった。
聞こえてくるのは船が水面を切る音だけ。
人々の喧騒も、船を動かす機械音もここでは聞こえない。
見上げた空は夜空の闇が茜色を塗りつぶしつつあった。
その闇を追いかけるように星々がちらほらと浮かんでくる。
男は空の様子を少し眺めた後、ゆっくりと起き上がった。
サンラウンジャーから離れ、デッキの手すりを掴むと、どこからかプシューというタイヤから空気が抜けたような音が聞こえた。
海の方へ視線を移すと、船の近くにイルカが数頭、戯れていた。
男がデッキから乗り出すように手すりに寄りかかると、イルカたちは一度ジャンプをしてからキューとひと声鳴き、船を離れていった。
それを見届けた男は、もう帰ろうと家の扉の方へと歩き出した。
帰りの通路も人の気配がなく、閑散としている。
扉の前に辿り着いたが、そこにあるのは船の動力の機械音だけだった。
男は振り返ることもなく、扉をくぐる。
…そして、意識を失った。
気付くと男は自室のベッドで寝ていた。
時計を確認すると、まだ正午過ぎ。
日付も確認したが、土曜日のままだった。
男が上半身を起こすと、鳥が肩に乗ってきた。
辺りを見回すと、猫がベッドの端っこの方で寝ている。
男は立ち上がると、途端にお腹から音がきゅるきゅると鳴った。
頭をポリポリと掻いてから、ダイニングへと向かった。




