第31扉 草原
今日は蒸し暑い日だった。
猫もこの暑さが厳しいのか、ぐったりと床で寝ている。
エサを用意したが、起きてくる様子もない。
鳥は少しエサをつついた後、水浴びをしていた。
その様子を少し眺めてから、男は家を出た。
駅に着き、いつもの電車に乗り込む。
満員電車は汗や香水、そして制汗剤が混ざったいつにも増して嫌な空気だった。
会社に辿り着いて自席に座る。
しばらくすると、冷房の風が強く当たった。
少し寒すぎるくらいだ。
そう感じていると、よく通る凛とした声と少ししゃがれた声の言い合いが聞こえてきた。
声の方に視線を向ける。
同僚とその後ろに若い女性が数名、そして反対側には隣課の上司と年配の男性がいた。
冷房の設定について、もめているらしい。
これは騒ぎが大きくなりそうかな…と感じたところで、役員の男性が割って入り、場をとりなしている。
あの役員ならしっかりしているし大丈夫だなと、男は感じて視線をディスプレイに戻し、仕事を再開した。
隣課の上司はブツブツと小声で文句を言いながら男の後ろを通っていったが、触らぬ神に祟りなしとばかりに仕事に集中した。
帰り際、隣のデスクの後輩が、終わった!終わった!と騒いでいる。
後輩が来週、有給休暇を取って海外旅行に行くことを知っている男は、鬱陶しいながらもたしなめずに会社を出ることにした。
帰り道、途中で寄ったスーパーのレジ袋を抱え、汗だくになりながらも、なんとか帰宅した男はダイニングに直行。
勢いよく冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出し、その勢いのままに口をつけて呷った。
一本を一気に空けると、風呂場へと向かった。
そして、翌日。
目が覚めた男は窓を見る。
空に広がった暗い雲と、しとしとと梅雨の時期のように降っている雨が目に映った。
昨日、買い物を済ませておいてよかったな…と考えながら、上半身を起こして伸びをする。
部屋の床を見ると、昨日のように猫が寝転がっていた。
男はベッドから起き上がると、着替えてからリュックサックを掴み、ダイニングへと向かう。
ダイニングに着くと、一旦はリュックサックを置き、猫と鳥のエサを用意した。
それが終わると、リュックサックにいつもの道具が入っていることを確認してから、冷蔵庫から取り出した飲食物を詰め込んだ。
そして、扉へと向かう。
今日の扉は木造り。
樹皮を剥いでいない丸太を組み合わせた、ログハウスの外壁のような扉だ。
取っ手は鉄製で、コの字型になっており、それがねじで固定されているだけの簡素な造りだった。
男は取っ手を持ち、力強く引いて、扉を開いた。
扉から、新緑の香りが風と共に舞い込んできた。
目の前には緑一色の大地と青い空。
陰鬱な湿気を吹き飛ばすような、そんな光景が広がっている。
男が一歩踏み出して扉をくぐると、カサりと草をかき分けた音が微かに聞こえた。
日差しは眩しいほどに強いが、その場所は湿気が少なく心地よい。
深呼吸すると、肺が洗われるような爽快な気分になった。
そこで辺りを見回したが、近くには建物のような物はなく、遠くの方に山が見えるだけだった。
ふと気になって家の扉の方へ振り返ると、鳥が扉をくぐり、こちらに飛んできて、男の肩に止まった。
男はそれをちらりと横目で見て、鳥の様子を確認すると、視線を前に戻し、扉から続いているけもの道のような草の少ない場所を進んでいく。
時折吹く風が、流れた汗をさらっていき、歩く疲れを感じさせない。
しばらくすると、テーブル状に平らになっている岩を見つけ、そこでいったん休憩することにした。
男がその岩に腰を下ろすと、鳥も肩から降り、岩の上で飛び跳ねまわっている。
男はリュックサックを降ろして横に置き、中から飲み物のペットボトルを取り出して口をつける。
鳥はその様子を見て、男の太ももの上へ飛び乗り、じーっと顔を見る。
これだろうか?と、ペットボトルの麦茶を掌に数滴こぼして差し出すと、鳥は麦茶を嘴でつついて飲んだ。
空を見上げると一陣の風が吹く。
その風に誘われるかのように、やってきたのはスズメ…いや、三羽のホオジロのようだ。
岩の上で羽を休めている。
鳥は気になるのか、男の陰からちらちらと見ているようだった。
男はペットボトルを置き、伸びをする。
その手を岩につこうとしたとき、ペットボトルにぶつかり、倒してしまった。
残り少なかった麦茶が、岩の凹みにこぼれる。
幸いにして男は濡れなかったが、ペットボトルの中身はほぼ無くなってしまった。
あーあ…と思いつつも、まあいいかと男が気持ちを切り替えたところで、ホオジロたちは凹みの水たまりに集まってきて、麦茶をつつき始めた。
男は時折吹く風に身を任せながら、それらをボーっと見つめる。
自分の膝に視線を移すと、鳥が心地良さそうに寝ていた。
ハタと気づいて、辺りを見回す男。
いつの間にか陽が落ちかけ、遠くの山の方の空が茜色に移り変わっていた。
気付くと先程のホオジロたちもいない。
男が動いたことで鳥も目覚め、羽ばたいて岩の上に降りる。
ペットボトルをリュックサックにしまって立ち上がると、鳥は再び羽ばたき、男の肩に乗った。
辿って来たけもの道を使って帰るため、振り返る。
その道は何故か、来た時より広がっている気がして少し引っ掛かったが、気にしないことにして歩みを進めた。
扉の前まで到着すると、男は一度振り返る。
冷たい風を感じた気がしたが、そこには揺れ動く草もなく、ただ、茜色から闇の色へと広がっていく空が見えただけだった。
男は何の気なしに陽の方へ一礼すると、振り返り家の扉をくぐる。
…そして、男は意識を失った。
気付くとベランダの椅子に座っていた。
横を見ると、猫が丸くなって隣で寝ていた。
雨模様だった空からは雲が去り、陽が高いところで輝いている。
目を凝らすと、遠くの方でうっすらと虹がかかっているのが見えた。
鳥はどうなった?と思い、立ち上がって部屋を探す。
見つけたのは寝床のつぼ巣。
目をつぶっていて、男が近づいてもそのままスースーと寝息を立てて寝ていた。
一安心した男は、安心感からか小腹の空きを感じ、ダイニングへと向かった。




