第28扉 風車
今日は穏やかな始まりだった。
目覚めた朝は出社するまでには余裕があり、いつもの慌ただしさはない。
猫と鳥にエサを用意した後、ゆっくりとコーヒーを嗜む。
朝食も男にしては珍しく作ることにして、パンを焼いた。
通勤電車はいつもより空いている。
学生が休みの期間に入っていて、その分乗客が少ないからだろう。
会社に到着して席に着くと、遠くの方で人だかりが出来ていた。
それを横目に、仕事前のスケジュールを確認する。
確認し終えた頃には、その人だかりはどこかに行ったのか、それとも散ったのか、姿を消していた。
男は静かな事務所で淡々と画面を睨みながらキーボードを打ち続け、思うようなペースで仕事が進んだ。
問題なく仕事を終えてひと息つき、今日は家でのんびりするかと考える。
そして、そろそろ帰ろうかと思った矢先、疲れた顔をした女性の同僚がこちらに寄ってきた。
お疲れ様…と声を掛けて話を聞くと、どうやら朝方の人だかりは同僚が輪の中心だったらしい。
その聞いた話を整理すると、こういうことだった。
男の上司は愛嬌のある可愛らしい女性だ。
その上司が転びそうになり、凛とした雰囲気の女性である同僚が抱きかかえるようにして助けた。
それを見た他の女性社員達は、琴線に触れたらしい。
それでキャーキャーと黄色い声が飛び、大騒ぎになったそうだ。
しょうもな…と、内心思いつつも、同僚を気遣う男。
愚痴を聞き流しながら、うんうんと適当に相槌を打っていると、気晴らしに飲みに行こうという誘いの話まで頷いてしまった。
あっ…と気づいたが、もう遅い。
家でのんびりするために帰り支度が終わっていたこともあって、男は連行されるように会社を出た。
会社近くの居酒屋に連れ込まれた男は、同僚の愚痴を聞き続けることになった。
多少面倒には感じたが、同僚のことが嫌いな訳ではない。
男は最後まで付き添って、酔い潰れそうになりながらも『もう一軒行こう』と言う同僚をタクシーに押し込み、居酒屋を出て帰途についた。
翌日。
朝起きると、思ったよりも疲れがなく、爽快な目覚めだった。
身体を起こすと伸びをし、立ち上がってダイニングへと向かう。
猫と鳥にエサを用意すると、自分も昨日買った朝食をテーブルに置き、食べ始めた。
しばらくすると、猫と鳥もダイニングに来て、エサを食べ始めた。
男が無言で食べていると、鳥は食べ終えたのか男の肩に乗り、すり寄ってくる。
軽く撫でてあげると、鳥は嬉しそうに目を細めた。
そして、朝食を食べ終えた男は、立ち上がり扉に向かう準備を始める。
何故か鳥は男の肩から動かなかった。
リュックサックを持ってきて、中身を確認する。
いつもの道具一式が入っていることを確認して、リュックサックにタオルや飲み物や食べ物を詰め込む。
リュックサックの準備が出来たところで、着替えのために自室へと向かおうと立ち上がると、鳥は飛び去って行った。
そして、着替えを終えて扉の前に立つ。
今日の扉は木の板を10枚くらい横に合わせた、牧歌的な造りの扉だった。
色は塗られておらず、木目がそのまま扉の模様となっている。
取っ手の部分も木の棒をコの字状に組み合わせたシンプルな物だ。
扉の外枠は石造りとなっており、重厚さを感じられる。
男は躊躇わずに取っ手を引き、扉を開いた。
長い時間、閉じられて放置されているような埃臭い空気が漂ってきた。
窓から日が差し込んでいるが、部屋全体が薄暗い。
男が一歩踏み出して扉をくぐると、白い靄のようなものがふわっと舞った。
辺りを見渡すと、その部屋は石造りの壁に覆われ、中には机と椅子だけが置いてあり、ガランとしている。
広くはないその部屋は、上へと続く階段があった。
この部屋は特に何もないな…と感じた男は、階段を登ってみることにする。
登った先の部屋は下と違って木造りで、目の前には麻を編んだような袋が山積みになっていた。
袋の周りには白い粉が散らかっており、袋の中身が何か分かった。
辺りを見回すと、壁には窓はなく、更に上へと登るための梯子と出入口の扉があった。
男は少し迷ったが、上に向かうことにし、梯子に手を掛ける。
登った先の部屋は下の階よりも更に狭かった。
その狭い部屋には石臼とそれを動かす歯車が固定されており、今にも動き出しそうだ。
しかし、人の使いそうな物を作る部屋だが、人の気配は一切感じられない。
そして、その部屋にも窓はなく、壁の木の隙間から微かな光が漏れ出すのみ。
その薄暗さと異様な雰囲気に辟易してきた男は、降りることにして、下の階の扉へと向かった。
降りてきた男はそのまま出入口の扉へと向かい、手を掛けて扉を開いた。
そして、外から吹き込んできた強烈な風と舞い込んだ花弁が、男の頬を叩く。
遅れて感じた緑と花の香りに、少し心が軽くなった。
扉をくぐって外に出ると、太陽の輝きが男を照らす。
先程よりは穏やかになった風が、今までの不穏な空気を吹き飛ばしていった。
男は辺りを見回す。
近くには花畑が、遠くには丘陵と水辺が見えた。
水辺は潮の香りがしないことから、湖だろうか。
見上げると三つの大きな羽根が建物についていて、ゆっくりと回っていた。
男は傍らに見つけた椅子に腰を掛け、リュックサックを降ろす。
雄大な景色で身体の緊張が解けたのか、お腹が抗議するように鳴った。
リュックサックから、今朝詰め込んだ食べ物、サンドイッチを取り出し、かぶりつく。
飲み物のペットボトルも取り出し、サンドイッチを胃に流し込んだ。
ふぅ…とため息をつき、空を見上げる。
叢雲から顔を出した太陽は、やわらかな光を照らしていた。
サンドイッチを食べつつ視線を前に移すと、目の前には紫色の絨毯のような花畑が広がっている。
花畑から風に乗ってきた独特な甘い花の香りが、男の鼻孔をくすぐった。
食事を終え、ボーっと景色を眺めていると、二羽のツバメが戯れるかのように空で旋回して、その後に飛び去って行った。
そろそろ帰るか…日は高かったが、男はもう十分だなと感じ、腰を上げる。
ペットボトルを呷り、飲み切るとリュックサックに仕舞う。
そしてもう一度軽く空を見上げた後、建物の扉へと足を向けた。
扉をくぐり中に入ると、薄暗い部屋は先程と違って、陰鬱な雰囲気を感じなかった。
そのまま、どこにも寄らず、階段を降りる。
そして、まっすぐに家への扉に向かい、扉の前に到着した。
男はちらりと横目で階段を見てから、向き直って扉をくぐる。
そして…意識を失った。
男は目を覚ますと、自室のベッドの上に座っていた。
男に寄り添うように、猫がベッドで寝ていた。
鳥は男の太もも上でじっとしている。
座ったまま伸びをしてから窓の方を見ると、茜色の光が差し込んでいる。
時計を確認すると、もう夕方だった。
夕飯はどうしようか…と考えながら、ダイニングへと向かい、エサの準備を始めた。




