第26扉 砂漠
今日は調子が良い日だった。
前日が定時上がりだったために疲れもなく、しっかり眠ってゆっくりと休むことが出来た。
それで寝起きがよく、朝食も満足に摂れ、猫や鳥と遊ぶ余裕もあって、束の間の時間を楽しんだ。
その時間に名残惜しさも感じたが、仕事のためにしょうがないと家を出る。
通勤電車は珍しく座ることが出来て、普段通りの混雑も気にならない。
電車から降りて駅を出てもまだ始業までに時間があったので、途中でコーヒーショップに寄ってテイクアウトのコーヒーを買う余裕もあった。
心にも余裕があったのか、仕事もスムーズに進む。
自分の仕事は早めに今日の分まで済ませ、同じプロジェクトに携わっている上司や同僚の仕事を手伝うことも出来た。
手伝ったことによって、自分の仕事も更に精度が上がって好循環になった。
途中、後輩がミスをして手伝う羽目になったが、お礼の言葉と感謝の念がきちんと感じられて嫌な気分にはならなかった。
帰り際、同僚から声を掛けられる。
手伝ってもらったお礼に飯でもどうか?とのこと。
場所は前に行ったことのあるイタリア料理の店らしい。
それならば…と了承する男。
同僚に気のあるらしい他部署の上司が乗っかろうと話に混ざってきたが、同僚は冷たくあしらって会社を出た。
それに遅れて、男も慌てて会社から飛び出る様に続く。
店に到着し、扉にかかっている看板の「APERTO」の文字を確認すると、扉を開けて中に入った。
店主と女将さんに歓迎を受けた男と同僚は、カウンター席に近い窓際のテーブルに案内された。
やはりこの店は心地が良いな…と感じていると同僚も同じことを考えていたのか、示し合わせたかの様に同じ感想を漏らし、そしてお互い顔を見合わせて笑った。
まずはと男はビールを、同僚はアペロールを注文する。
乾杯してグラスに口をつけてから食事を注文すると、同僚は手伝いへの感謝の気持ちはどこへやら、帰り際に居合わせた上司の愚痴を話し出した。
杯を重ねていく内に、珍しい程の饒舌で次々と悪態をつく同僚に嫌悪感はなく、いつもとは違う態度に思わず吹き出してしまった。
笑ったことに表面上は怒りつつも、言い過ぎたと恥じて耳を赤くする。
追加の飲み物の注文を取りに来た女将さんに慰められつつも、白ワインをボトルで注文しようとする同僚。
同僚が潰れるのを阻止したい男は、遮って注文をグラスに変更した。
そこで入口のベルが鳴り、ひとりの女性が入ってくる。
既に酔っぱらっているらしい女性は、入ってくるなり女将さんとハグをしている。
気になった男は入口の方へ視線を移すと、あっ!と言葉を出してしまった。
その女性は男の直属の上司だった。
その上司は男と同僚を見つけると、そのテーブルに近づき、当然の様に同席して腰を下ろした。
そして、注文もそこそこにして話し出す。
帰り際に同僚が袖にした上司と他数人で飲み会になったこと。
その例の上司に不倫を持ち掛けられるセクハラを受けたこと。
他にも飲み会の他のメンバーにも、男女問わず言い寄られたことなど…
飲み会の混沌とした状況を、愚痴を交えて怒涛の如く口から紡ぎ出した。
苦笑交じりに話を聞くしか出来ない同僚と男。
そんな状況を察してか、店主と女将さんからボトルを一本サービスされた。
だから大好き、と再び女将さんにハグする上司。
そして、不倫未遂上司の悪口を肴に、飲み始める上司と同僚。
それを眉をひそめながらも優しい視線で見守っていた困り顔の男は、店主に声を掛けられる。
上司と同僚の二人から勘定は自分達が持つと言伝されているから、俺らに任せて帰っていいと店主は言った。
それじゃあ…と言って、席を立つ男。
上司と同僚の二人はまだ早い時間帯にも関わらず、酒が進んでぐでんぐでんの様だ。
店主と女将さん、そして入れ違いで入ってきた店主の娘さんに礼を言い、店を出た。
出た途端に風が吹きつける。
外の風は徐々に暖かさを感じさせる春の風だった。
そして、翌日。
今日は土曜日だ。
昨日は思いがけない飲み会があったが、男は早めに切り上げられたこともあり、体調に問題はなかった。
途中でスーパーマーケットに寄ったこともあって、扉へ向かうための準備の品と朝食は揃っている。
朝、目を覚まして起き上がると、まずは…と猫と鳥にエサを用意する。
そして、冷蔵庫から朝食を取り出し、レンジで温めた。
温めている最中に部屋からリュックサックを持ってきて、飲み物と食べ物を詰め込む。
リュックサックの中身の確認をしていると、レンジから温め終わったことを知らせる音が鳴り、男は慌ててレンジに向かった。
朝食を食べながら、昨日のことと今日のことを考える。
同時に考えようとした所為か、思考回路が混線したので、考えることを放棄した。
そして、朝食を食べ終えた男は、着替えてリュックサックを担ぎ、扉へと向かった。
今日の扉は至ってシンプルな作りだった。
プラスチック製の様な造りで、扉板と扉枠の色は桃色、取っ手は金属を磨いて綺麗な銀色に仕上げた丸いドアノブだった。
どこでも行けるかの様な扉に心を弾ませた男は、その扉の取っ手を掴んで勢いよく開けた。
砂埃の舞った乾いた風が扉から吹き込まれ、思わず目を閉じる。
風が止み、目を開くと、辺り一面黄色い光景が広がった。
扉をくぐって一歩踏み出すと、ぐぐぐっという音と共に少し地面が沈む。
足に力を入れ、それ以上に沈まないことを確かめると、男はその場に立った。
鋭く刺す様な強い日差しが男を照らす。
湿気の無い乾いた空気に包まれているが、それ以上に日差しの照らす熱が強く、感覚的に暑さが勝った。
見渡す限り一面、砂で覆われているが、目の前にある丘の上に立てば何か見えるかと考え、男は歩き出す。
砂に足を取られ、日差しも強く、進むにも一苦労しているが、なんとか丘の上まで辿り着いた。
丘の上から遠くまで辺りを見回す。
所々に小さくサボテンやアロエなどの砂漠の植物が見えるが、他には何もなく、黄色い大地が広がっていることしか確認できなかった。
男は脱力して、腰が抜けたかの様にその場へ腰を下ろす。
斜め後ろに両手をつき、空を仰ぎ見た。
少しの白が混ざった何処までも続いて行きそうな青が広がっており、中央に位置する太陽が痛いぐらいの熱線を男に浴びせていた。
額に汗が滲む。
男はリュックサックからタオルを取り出して顔を拭いた後、頭にかけた。
何もない大地を眺めながら、飲み物のボトルを取り出し、呷る。
静寂で雄大な砂の地。
時折吹く、砂埃を含んだ風に目を細めながら、その場で呆然と景色を見ていた。
暫くして、これ以上何も出来ないな…と考えた男は、立ち上がると家の扉へと身体を向け、歩き出す。
歩きにくい砂の下り坂に何度も足を取られ、悪戦苦闘しつつも、なんとか家の扉の前まで辿り着く。
男が足元を見ると、サソリと蛇がこちらを睨んでいた。
それらが動き出すと、男はうわっと驚き、慌てて扉へと飛び込んだ。
そして、男は気を失った。
気づくと男はダイニングの床でうつ伏せに寝転がっていた。
床の冷たさが心地よかったのか、猫が寄り添って寝ていた。
鳥は気づいた男の目の前に止まり、こてんと首を傾ける。
徐々に意識が戻ってきた男は、急に思考がクリアとなって、がばっと起き上がる。
それに驚いた猫もびくっとして起き上がり、走ってダイニングから出て行った。
時計を確認すると17時を過ぎている。
汗と砂にまみれていた男は、風呂場へと向かっていった。




