第24扉 砦
今日は不思議な日だった。
熱があるわけでもないのに、ふわふわした感覚が一日中抜けない。
それにも関わらず思考はしっかりしていて、仕事上でのやり取りも問題がなかった。
早くも遅くもない時間に目覚め、猫と鳥にエサを与える。
電車にも仕事に間に合う時間に乗ることが出来て、朝のルーティーンはいつも通り。
仕事においても、会議の内容を把握して、取り回しできた。
多少の残業はいつも通りの範囲。
そんな状況で今日は上がろうと帰り支度をしていると、急に呼び止められる。
呼び止めた相手は、男性の先輩だった。
確かに先輩ではあるが会社では仕事上の接点もなく、何で呼び止められたか男は理解が出来ない。
飲みに行こうと誘っているが、感じでは相談がある気がする。
強気に出られない性格の男は断れず、その飲みの誘いに乗ることにした。
いつもの居酒屋に入ると席に着き、トリアエズナマをふたつ注文する。
乾杯と共にジョッキに口をつけ、それを置くと真剣な表情で先輩は相談を切り出す。
なんだ、気を張って損した。
男の上司に気があるから、仲を取り持って欲しい、という内容だった。
丁重にお断りし、飲みを早めに切り上げる男。
先輩と駅前で別れて改札に入ろうとしたところで、今度は話題の上司にバッタリと会った。
会社周辺の店なので、こういうこともあろうが、行き過ぎた偶然だ。
話を聞くと、会社の女性メンバーで女子会なるものを開いていたらしい。
会話の主体は恋愛話らしく、あまり居心地が良くなかった様で、男は一軒付き合えと言われた。
しょうがないですね…と言いつつ、誘いに応じる。
先程の先輩とは違い、そんなに嫌いな訳ではない。
電車に乗って向かった駅は家の最寄り。
こういう何気ない気遣いも、この上司の良いところだ。
行きついた店はなんとJAZZ Bar。
普段の雰囲気から、こういう店には来ないと考えた男は同時にそれは失礼過ぎるな、とも考え直した。
店内には旧式のレコードが奏でる曲が流れている。
カウンターの席に着き、それぞれ上司はエンジェルキッスを、男はウォッカマティーニを注文する。
音楽は好きだけど歌うのは下手だから、こういうところがいいの…と、はにかみながら語る上司。
あの先輩はこういうところに惚れたのかもしれないな…と考えつつ、味や香り、そして雰囲気を楽しんだ。
そして、帰宅した男。
猫や鳥にエサを与えつつ、今日のことを考える。
まだふわふわした感覚は消えていない。
このふわふわは、酔いとは違うと明らかに感じている。
が、それ以上考えても答えが出ないと切り替えて、風呂場へと向かった。
そして、翌日。
今日は土曜日だ。
飲んだにしては心身ともに重くなく、猫と鳥にエサを与えてからコンビニへと向かった。
朝食と扉に向かうための飲食物を買い込み、家に戻る。
いつものリュックサックに買ってきた飲食物を詰め込み、ダイニングテーブルに朝食を置くと、椅子に腰を掛けた。
買ってきた朝食を食べていると、肩に鳥が止まる。
指で軽く撫でると、鳥は嬉しそうに目を細めた。
朝食を終えて扉の前に立つ。
今日の扉は黒い鉄枠に鉄の格子、扉板は木で造られており、所々に鉄鋲も埋め込まれている。
観音開きの扉の中央部には大きな閂があり、外すにも力が必要そうだ。
男は閂を外して、扉の横の壁に立てかけた。
ゴトンと鈍い音が鳴る。
幸いにして床に傷は入らなかったようだ。
改めて扉へと向き直った男は、取っ手を引いて扉を開いた。
冷たくピリッとした重苦しい空気と共に、鉄と硝煙の混ざった様なむせる臭いが、男の周りへと流れ込んできた。
一歩踏み出して扉をくぐると、目の前には石造りの重厚な建物がそびえ立つ。
城というには武骨な建物の周りには堀があり、その堀を視線で辿ると、左側に橋が架かっていた。
所々に草が生えているだけの地面を進み、橋の前に立つ。
橋は跳ね橋だったが、建物側から降りてきていた状態で固定されていた。
問題ないかと確認しながら慎重に橋を渡り、建物の大きな扉に辿り着く。
建物の表門だろうか、入口の扉よりも大きく重厚だ。
ひとりでは重くて開きそうもない扉だったが、幸いにして横幅で二人分程度に開いており、建物の中に進むことが出来そうだった。
ひと呼吸置いてから扉をくぐり抜け、建物の中に入る男。
通路に絨毯などはなく、踏み入れた足からカツーン、カツーンと石畳を叩いた音が奏でられた。
正面は廊下になっていて、先を見通せる。
その先は大広間の様だ。
その廊下の中間地点の両脇には扉がある、控室だろうか。
壁は装飾や美術品などが一切なく、建物の外見と同じ武骨さだった。
男は廊下を進み、右手の扉を開けてみた。
その部屋は木造りの簡素な長テーブルと長椅子がいくつも整然と並んでおり、その先にカウンターを挟んで先にも部屋があった。
カウンターには配膳用と思われるお盆が重ねられていて、奥の部屋にも調理器らしき大きな寸胴も見えることから、食堂ではないかと推測できた。
その長椅子のひとつに腰を下ろした男は、ほっと溜息をつく。
テーブルにリュックサックを置いて飲み物のボトルを取り出すと、キャップを開けて呷る。
そこでようやく肩の力が抜けた気がした。
ボトルをリュックサックにしまうと、男は立ち上がり、食堂を出る。
右手の大広間の方へと歩を進める。
広場に到着すると、目の前の大きな旗に視線を奪われた。
上から下げられた旗は深紅の布地に金色の飾り房、中央に二振りの剣と盾と竜の紋章が飾り房と同じ色で刺繡されている。
ここの持ち主の紋章だろうか。
旗の両脇に甲冑が飾ってある以外は、この広場でも装飾は見られない。
この大広間にも鉄の臭いが微かに流れ込み、威厳を感じる重い空気を背負っている様に思われた。
甲冑の脇には階段があり、手摺がある壇上まで続いている。
ここの持主は登壇して、演説を振るったのだろうか…と思わせる何かを感じていた。
時間的にまだ先に行けそうではあるが、何故だか帰ろうという気分になった男は、旗に背を向け、廊下へと戻る。
そのまま歩みを進め、建物から出る大きな扉の前のところで、背筋がぞわっと凍る感じがして立ち止まる。
それはまるで武器を突き付けられているかの様な悪寒。
しかし、横目で背後を確認すると何もない。
男はゆっくり、慎重に扉をくぐり、外に出た。
空からの日差しが男を刺す様に照らすと、一気に緊迫の事態から解放された気がした。
橋を渡り、近くに腰掛けるのに手頃な石を見つけると、マリオネットの糸が切れたかの様に腰を下ろす。
空を仰ぎ見ると太陽は雲が半分ほど覆いかぶさり、男を覗き見る様に照らしている。
緊張が解けたところで男の腹がくるるると鳴った。
そこで男はリュックサックから食べ物を取り出し、かぶりつく。
更に飲み物のボトルを取り出して、食べ物を胃へと流し込んだ。
改めて辺りを見回すと、所々にテントが張られており、簡易的に作られた竈や焚火の後もある事に気づいた。
それでも兵士達のいない様子に違和感があるが、今まで通り考えても無駄だと悟り、思考を放棄した。
食べ終わったところで、ゴミをリュックサックに詰め込むと立ち上がる。
日が差してきて程よい気候になったものの、依然として張り詰めた空気が流れるこの場所。
さっさと帰ろうと扉の方へと歩みを進める。
扉の前まで辿り着いた男は妙に気になって扉の横に視線を移す。
キラリと光った何か。
目を凝らしてよく見ると、手のひら大の鱗だった。
えっ?と不思議に思ったが、それ以上に恐怖感が込み上がってきて、急いで扉をくぐった。
そして、男は気を失った。
気付くと男はダイニングの椅子に頬杖をついて座っていた。
時計を見ると、17時頃。
あっ…と思い、急いで猫と鳥にエサを用意する。
それ以外にやる気が起きなくなった男は、食事もせずに寝ようと、自室に戻っていった。




