小さな宝石店で──『今日も妻の瞳に恋をする』
──過ぎたるは、及ばざるより胃に堪える。
これが伯爵家の“朝の軽食”だというのなら、私は朝という概念を見直さねばなるまい。
そんな格言を胸の奥で反芻しながら、私は伯爵家の朝食を前に苦笑していた。昨夜の豪勢な晩餐に続き、今朝も重厚な銀の蓋が次々と開かれる。バター香る焼きたてのパン、厚切りのベーコン、ベシャメルで覆われた野菜のグラタン……胃袋という器官の限界に挑戦するような献立だ。
「クロード……これは、私の胃には重すぎるよ……」
悲痛な表情を浮かべながら、男爵様は小さく囁いた。私もまた微笑みを浮かべつつも、内心でそっと同情する。男爵様の胃腸の限界を、私は誰よりもよく知っている。
食事が終わるや否や、男爵様はそそくさと退席しようとしたが、運の悪いことにそこを伯爵に捕まってしまった。
「ルードヴィッヒ男爵! 今日はゆっくり私の戦場譚を語らせていただこうじゃないか!」
「い、いや、その……少々胃が……」
「ハハハ! 胃も心も鍛えられてこそ男だ!」
まるで反論の余地などない。男爵様は悲壮感を滲ませた視線で助けを求めてきたが、私は申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「男爵様、申し訳ありません。私、少々用事がございまして──ご健闘をお祈りしております」
「クロードぉぉ……!」
背後で悲鳴じみた声が聞こえたが、気づかないふりをして街へと出た。
◆◆◆
午前の陽射しがまだ柔らかい時間。石畳の道に賑やかな市場の声が混じり、遠くからパンを焼く香ばしい匂いが漂ってくる。
街中は活気に満ちていた。露店には色とりどりの品物が並び、道行く人々の表情も明るい。
私はある宝石店の前で足を止めた。こぢんまりとしたその店は、豪奢ではないが誠実さが滲む造りで、窓越しに見える細工の美しいアクセサリーが印象的だった。
店内に足を踏み入れ、静かにショーケースを覗く。ふと、ひとつのブローチに目が留まった。
リボンのように銀の帯が交差してできた結び目のデザイン。中央に丸いサファイアがはめ込まれており、シンプルながら存在感がある。深く、落ち着きのある青。まるで、彼女の瞳のようだ。
「……これにしましょう。妻への贈り物です」
そう店主に伝えると、彼はにこやかに頷き、丁寧に包み始めた。その間、私は窓の外に目をやった──
そして、思わず眉を顰める。
「まあ、この店もたいしたことないわね!もっとましな物はないのかしら?」
通りの向こうから派手な笑い声と共に、目が痛くなるほど真紅のドレスをまとった令嬢が現れた。赤毛をなびかせ、香水の匂いすら届いてきそうな勢いで店を練り歩いている。取り巻きの男性たちは、まるで供物を携えた家臣のように彼女の後をついて回っていた。
「あの……お騒がせを……」
店主が小声で謝る。私は軽く首を振る。
「構いません。街とは、元より騒がしいものですから」
そして──私は思った。
次は、妻とふたりで訪れよう。彼女となら、ああいう喧噪も笑って眺められるに違いない。
◆◆◆
通りを歩いていると、不意に背後から聞き覚えのある声が飛んできた。
「ク、クロード……!?」
振り向けば、そこには騎士団長ウィルが、目を見開いて立ち尽くしていた。
「これはこれは、騎士団長殿。偶然ですね」
「まさか君がここにいるとは……男爵家を抜け出してきたのか?」
「いえ、少し私用で。男爵様は今、アルフォンス伯爵様と親交を深めておられます」
ウィルの表情に同情の色が浮かぶ。
「それは……お気の毒だな。伯爵殿の話はかなり長いことで有名だ」
「ええ。ですが男爵様はきっと立派に耐えてくださるでしょう」
そう答えると、ウィルはふっと肩を落としながらも微笑んだ。
「君がこうして楽しそうに買い物してる姿、初めて見たよ。ちょっと驚いた」
「妻へのプレゼントを選んでおりました。私は、彼女の笑顔を守るために生きておりますから」
私が微笑みながらそう答えると、ウィルは妙に納得したように頷いた。
「……君らしいな。だが、早く戻らないと、男爵殿が耳もたれを起こすぞ」
「それは困りますね」
私は再び笑みを浮かべて軽く会釈をした。
「またお会いしましょう、騎士団長殿」
ウィルは軽く手を挙げて去っていき、私はブローチの包みを胸元に収めて歩き出す。
街はいつも、他人の物語で満ちている。
だが今日ばかりは、私のささやかな幸せのために歩いても罰は当たるまい。
──伯爵家で繰り広げられる静かな戦いはまだ終わっていないが、少なくとも今の私は、この穏やかな時間を心ゆくまで楽しんだのだった。




