03_60S 後日談Ⅳ ジーナ・クレイ、マギー
黄昏の時代。大なり小なり、人の集う居留地には、屍者や怪物の侵入を防ぐための壁が設けられていた。
ポレシャ市も大防壁の内側の各地区は、さらに木柵や堀、木壁などの障害物で二重に守られており、通りには木柵や土嚢が設けられて、出入りするものを入念にチェックしている。では、壁外に散らばっている、廃屋を再利用した小さな街区は、どうかと言うと、まともな防壁などおよそ存在していない。それでも人が多く暮らす建物であれば、入り口は土嚢や厚い扉で守られ、窓は木板などで塞がれている。
大抵は、クロスボウや弓矢、槍にこん棒を持った複数名が常時、見張っていて、二、三体の歩屍者や弱い怪物なら、油断したり、不意を付けなければ、対処できるのだ。
放浪民やら浮浪者、廃墟生活者と言った、強力な権力の庇護を受けない人々の暮らしなど、危険と隣合わせが当たり前の生活で、さらに言えば、幾らかの武装を持って徒党を組んだ浮浪者や廃墟生活者、浮浪児たちにさえ脅かされる事さえ、珍しくない。勿論、壁に近い小地区にはもっと安全な場所もあって、自由労働者や渡り人が安価な寝床を目当てに暮らしている場合もあるし、目の前の街路を巨大蟻や屍者が彷徨っているような廃墟で汚い水を啜って生き延びている人々も少なくない。
かつての町並みの骨格だけを残した廃市街は、朽ちかけた建物と瓦礫が無秩序に積み重なった迷路と化している。舗装はところどころ剥がれている。汚泥が積み重なり、或るは人がすっぽりと収まりそうな大穴が口を開けていて、滅多にないけれど、時に屍者や変異獣が潜んでいて、運の悪い者が襲われる。瓦礫に視界が遮られる位置では、短剣を手に緊張しながら、そっとのぞき込む。今回もいないとホッとするが、過去には襲われた者もいる。それでも比較的に、この一帯は安全なのだ。
倒壊しかけた石造りの家屋は、梁をむき出しにしたまま傾き、風が吹くたびに乾いた軋みを上げている。人が暮らしている建物か、かつて暮らしていた場合、窓という窓は板で打ち付けられるか、あるいは布切れや獣皮で塞がれ、内部の灯りは外へ漏れない。煤と錆の匂い、腐った木材と古い血の臭気が混じり合い、昼なお薄暗い路地では、屍者が徘徊しているという噂が絶えず囁かれている。
それでもよく人の姿を見かける通り沿いに、放置された小路や横道は土嚢やバリケードで塞がれて、比較的に安全は確保されていた。
廃市街には、一時期は人が住んでいたものの、再び放棄された場所も少なくない。
放置された荷車や崩れた屋台の残骸が転がり、かつての人の営みの痕跡を色褪せた看板や壊れた秤、床に転がる血を被った人形だけが物語っていた。
時折、人の気配は感じるが、姿は見せない。瓦礫の物陰や半壊した上階の暗がりから、視線だけが値踏みするように通行人の背を追ってくる。
夜になれば、区画は完全に別の世界へと塗り替わる。焚き火の赤い点も家屋に隠されて、獣とも人ともつかぬ呻きが幾つも反響する。近いのか、遠いのか、壁内の秩序は、ここでは届かない。飢えと寒さに加えて単に生き延びる為、這いずり回ってでも逃げるか、戦うかを選ばなければならない。それでも、へばりつく他の行き場のない人間たちの存在が、かろうじて廃市街を街たらしめている。
疲れた足取りを引きずりながら比較的、防壁寄りの安宿を目指しているジーナ・Cは、失業した牧者娘だった。牧者に返り咲く為、自由都市ズールで開かれる大家畜市で安い羊を手に入れる為の旅を行い、先日、帰還した。
入手した羊たちは、焼き印を押してあるし、市の家畜小屋に預けてある。九頭は、牧者として生活を立てるにギリギリの数ではあるが、他の野良仕事なり日雇いなり、多少兼業すれば、食べていける数でもある。
旅で知り合った行商人マギーが、後、五、六頭は都合してくれると約束してくれた。それも後払いでいいと言う。勿論、かなりの見返りをしなければならないけど、なんとかなった。それだけいれば、二人で羊飼いも出来る。だけど、ジーナ・Cは、心弾まなかった。今回の旅は、足手纏いばかりしたような気がする。普段からもう少し強い気持ちを持っていれば、仲間の誰かは救えたんではないかとも思う。勿論、そんなものは錯覚で、ジーナ程度の人間が何かしようが、物事はそんなに変わるものでもないのだ。
そうこう思い煩ってるうちに、定宿にしている廃屋の前にたどり着いてしまった。なにも変わった様子は見えない。妄想の中で、いない間に怪物に襲われたのではないかと心配していたが、三年も無事だったものが、この短い旅で異変があるものでもない。何時もののように転がる瓦礫や擦り付いた汚泥の中、壁の割れ目に煉瓦と土を焼き固めて修繕してある醜い建物に、社会の下層の老いて誰も雇わない職工やら怠け者の浮浪者、片腕の傭兵崩れなど、どう生計を立ててるのかも分からぬような常連たちが出入りしている。
旅の最中は、帰宅をずっと夢見ていたのも関わらず、いざ、夢がかなう直前になって、辿り着くのを恐れていたかのようにジーナ・Cは足踏みした。
二度、三度、廃屋の前を右往左往にみっともなく往復してから、建物を見上げて喉を鳴らし、それから意を決したように踏み込んだ。
汚い部屋だ。薄暗く、陽光だけが僅かに差し込み、空気も濁っているように思う。
床に毛布が転がり、客たちが好きな場所に寝転んでいた。小さな明り取りを兼ねた空気穴は天井近くの壁に開いているが、近くに寝転んでる者はいない。ゾンビが腕を突き入れてくるのを恐れている。
隅の方では、数人の浮浪者や放浪者、傭兵崩れや金のない自由労働者が賽子を振って賭博に興じていた。傍らには若い娘が一人寝転んでいた。少しだけ金と力を持った連中に擦り寄って、引き換えに庇護されている。短慮で粗暴なところも目立つろくでなし共だが、それでも連中は、掃きだめでは随分と上澄みの類だ。
「お、無事に帰ってきたな」歯の抜けた笑顔をジーナ・Cへと向けてくる男たちは、若い娘と見れば揶揄ってくるが、力づくでことに及んだりしない。怪物が襲ってきたら、他の女子供を避難させて戦う。破落戸や女衒のようには女を扱わない。元から娼婦を恋人にした時は、さすがに好きにさせるが。ポレシャ市の保安官や民兵共は、長く慎重に観察して、行儀のいい連中には、多少の見返りをくれる。だから、目の前の連中は悪徳の儘に振舞うよりは、抑制した方がましと理解できる程度には、頭の働く連中なのだろう。一度、変異獣の騒がしい日に共闘と言う訳でもないが、碌に役に立たない番人夫婦に変わって、ジーナ・Cが貴重なライフル弾を何発か撃ちこんでなんとか一匹倒す間に、彼らも総がかりで二匹倒した。それで追い払えた夜もある。
それでもジーナ・Cは、油断しなかった。僅かな金で人は狂うと知っているからだ。今回の旅で稼いできたのは大金でもない――羊たちなのだが、二、三枚の銅貨――いや、小銭を奪う為に殺される人間も、曠野には珍しくない。連中は今のところ、それほど危険には見えなかったが、断言できるほど付き合いが深い訳ではない。ろくに話した事もないのだ。なによりジーナ・Cは、自分に人を見る目があるとも思えなかった。かと言って、壁内の人間が必ずしも、幾分か上等とも限らないが。いや、似たような環境で腐ってる土地や、悪党どもは幾らでもいるから、やはりポレシャ界隈は他所よりはマシな土地だろうか。
室内に視線を走らせ、ジーナ・Cは友人の姿を探した。
すぐに見つかる。何時もの定位置。焦げ茶色の毛布に包まって、咳き込んでいるキャロへと歩み寄った。「ただいま」声を掛けるとキャロは手を伸ばしてきた。手を繋いだ。そっと握り返してくる。痩せている。手を握って、其の儘、五分ほど、じっと寄り添い続ける。成功したとか、そう話しかけるのが、何故か躊躇われた。
黙り込んでいるとキャロが毛布の中から「旅は、どうだった?」と尋ねて来た。
「大変だったよ」
「……楽しかった?」その質問には、途方に暮れた。ただ、確かに苦しいだけではなかった。
「色々なことが。沢山、話したいことがある。凄く沢山」ジーナ・Cが囁くと、痩せた手が掌を握り返してきた。
「羊たちを買ってきた……羊飼いに戻れるよ……それに、ミドルトン通りのアパートに寝床を貰ってね、二人分。薬も買える。一緒に行こうね」ジーナ・Cが言うや否や「やった!」と唐突に対面で大音声の叫びが上がった。
浮浪者が立ち上がり、帽子を振り回している。博打にでも勝ったのか?と思いきや、傭兵崩れや自由労働者、それに放浪者も叫んだり、吠えたりしていた。胸を叩いてる奴までいる。
呆気に取られてるジーナ・Cにキャロが囁きかけた。
「みんな、喜んでいるんだよ。ジーナのことを」
「だって……ろくに話したこともない」
「でも、守ってくれたからね。人はしたことを意外と見てるよ」キャロが告げる。
言葉に詰まったようにジーナは口ごもった。
「旅の話を聞かせて」キャロが囁いて、例の四人組だけでなく、周囲の老職工や年増女。寝転んでいた娘。宿の主人と扉の番人夫婦までが興味深そうに見つめていた。
逡巡していたジーナ・Cだが、照れくさそうに鼻を親指で撫でてから、「聞いてくれる?」と、頷きと賛同の呟きが返ってくると、頷いたジーナ・Cはゆっくりと語り始めた。
「事の始まりは、市内の日雇い仕事をしてた時、旅人からズールで大家畜市が開かれるって耳にして……
※※※※
元が劇場であったポレシャ市下層地区の大浴場は見た目、完全に修復されているように見えた。残念ながら、破損部分に鉄筋を通し、コンクリートを流し込んだりなどは、下層地区の渡り人たちに出来る筈もない。頑丈な木材を骨組みに煉瓦と漆喰で亀裂や壁や屋根の亀裂や穴を埋めただけだが、それでも荷重の少ない部分については、幾らか耐久性を取り戻しているだろう。
ポレシャ市は貧富の差が比較的に小さい。庶民や正規居住者は勿論、大抵の市民でも風呂はかなりの贅沢となる。家にあっても、毎日入れるものでもない。
行商人のマギーは時々、贅沢をして長時間の入浴を味わう。勿論、小金を持った商人基準での贅沢である。都市の富裕層のような贅を尽くした祝宴に人を招いたり、催し物を開くような代物ではない。とは言え、大半の渡り人や自由労働者からすれば、日銭で20通貨を稼ぐのがやっとであるから、やはり百通貨も掛けて、浴場の部屋と複数の湯舟を貸し切りするのは、稼ぎのいい行商としても贅沢な金の使い方だろう。
湯気の立ち込める室内で「……内心、もう駄目か。と思った時もあったよぅ」ニナはそんな風に言いながら、大型の湯舟に沈むマギーの腕にじゃれついてきた。
心地よい湯に身を浸しながら、呆けたように森と山の壁画を眺めるマギーは戦いを回想していた。一瞬たりとも諦めはしなかった。機械のように思考を無くし、闇の中で敵を殺した。
逃避行の最中、渓谷での闇夜の迎撃。幾人かは殺さずに済む、かも、とか甘い事を考えていた癖、いざ相手が動けなくなったら、片端から止めを刺した。怯懦だけが理由ではない。此方は一人で捕虜を収容も出来ないし、頭目の若き戦士に恐ろしい目で睨まれながら、神々と父祖の名に懸けて復讐を誓われたからだ。麻痺毒の効力が何時まで持つかも分からず、顔も名前も知られていた。負傷で留めて縛った者なら、すぐに動けるだろう。マギーは、相手を殺すと口にした時は、絶対に一人残らず殺してきた。地獄に落ちたい気分になる。
互いに雇われ兵だ、と、見逃すと祖霊と神々に誓ってくれたら、この場では私も見逃す、と取引を持ち掛けたが、無駄だった。アンセルム族の高貴な血筋の少年戦士は誇りの儘に、卑怯者のマギーを罵って誓った。この恥辱は必ず晴らす。マギーを見つけ出し、追い詰めて必ず殺す、と。家族も、友人も、一人残らず、生きたまま皮を剥いでやると誓約されて、それほどの殺意を向けられたら、生かしておけない。溜息を洩らして、全員の心臓を突いた。なぜか少年は、信じられないと言った表情を浮かべながら、死んでいった。
この口で相手を殺すと誓った少年だけ、生き残って、譲歩していた相手を追い詰めて仲間が皆殺しになったのを目覚めたら、どう思うだろう?生かしておこうか?そんな邪悪な思惑も一瞬だけ、チラリと頭の片隅を掠めた。力に淫しそうになってる己を自覚して、だが、マギーは自制し、きっちり止めを刺した。
ポレシャ市に帰還し、お風呂に入りながら、スイカや桃を齧り、冷たい水を飲んでいると、守るべきものを創っておいてよかったと思う。獣にも、魔物にも堕ちずに済んだ己を「マギーちゃんは偉い。帰ってきた」と自画自賛する。裸のジーナ・Eとニナが両側で偉い、偉いと褒めてくれる。うれちい!
壊れる寸前ではない、と己を洞察し、自己解析する。多分、誰にとっても――マギーも含めた大半の人にとって戦場とは耐えがたい苦痛なのだ。日常には、帰れるだろう。多分。邪悪な怪物になりかけた。他人の魂と人生を苦痛による支配と嗜虐、力への陶酔で踏み躙りかけた。風呂桶の中で震えた。暖かいお湯を浴びても、震えは収まらなかった。悪に快楽を見出す自分を拒絶した。踏み止まった。だが、ブレーキではなく、アクセルを踏んだものも戦場にはいる。何時か、曠野の何処かで、己以上の戦闘の才能を持つ、合わせ鏡と邂逅するかも知れない。それも恐かった。勝てるだろうか。
マギーは湯に肩までずるずると沈み込みながら、溜息を吐いた。
(……分からぬ。明日の事は明日の事だ。どうにもならん)思考を放棄して、浴場をうろうろして、ガチョウの玩具を握っているイザベル・ミラーを抱き寄せた。
「おわ?」と叫ぶイザベル。構わずに肩までゆっくりと浸からせる。
「傷が染みるんだよ」と、とゾンビのようにうーうー呻きを上げて抗議していたイザベルだが、温まってくると大人しくなった。
マギーは百合だが、同性愛の発露ではない。軍隊と同性愛は古代より付き物だ。だから、敢えてイザベルを誘わない。心に傷を負った脳の報酬系に、性の快楽を刻むのは禁忌だった。親しみを示すにとどまった。
そもそも、殺し合いの後に、性的な快楽を与え合うのを本来、健全ともマギーは思ってない。死と性が混ざり合うのは、危険なのだ。特に若者は。
他人の死を快楽のトリガーとして認識すると、共感能力が損なわれる。若者の脳の可塑性云々―――小難しい思考を打ち切って、単純に力強く結論する。
普通がいいのだ。映画を見て、本を読んで、寝転び、散歩し、家族や友人と過ごし、美味しいものを食べ、戦場で魂が晒された怒りや恐怖の衝動を徐々に抑え、付き合い方を学んでいく。脳の片隅に死と暴力が選択肢として刻まれてしまっても、人は生きていけるし、人生は続く。
勿論、死と性が混合しても、良識を保ち、自己を律せる人の方が多い。それに、イザベルは、大丈夫な側の人間に思える。だけど、必要もないのに危険な領域で人格を試すべきではないのだ。事故は起きる。誰もが極限状況で倫理を保てるわけではない。死と性が混ざると、心理的・生理的に条件付けされやすく、倫理観や共感能力に影響する。特に若者や未熟な戦士は、極端な快楽と暴力を学習してしまう危険がある。
殺人や暴力に溺れず、不感症にもならず、日常に復帰させる。それがきちんとした軍人で戦士の資格だし、年長者は未熟な相手にそう導くべきだとマギーは考えている。それがかつての部下ジーナ・Eが傍にいるのを許容する理由だし、ニナも、戦った後に温もりを求めるが好戦的ではない。時と共に傷は癒える。イザベル・ミラーもきっと立ち直れると踏んでいた。
鍛錬を積み、歴戦の筈の戦士たちの命を容易く刈り取る時、マギーでも力に淫しそうになる瞬間がある。多分、マギーには図抜けた戦闘の才能がある。稀な才能が。
(……くだらない)とも思う。才能がではなく、それに溺れて道を踏み外す生き方が。
上には上がいる。絶対に。時々、殺戮の場や戦場跡から臭いがする。同等以上の才能を持って高密度の経験と訓練を日常化している怪物の痕跡がかぎ取れる。
大体、才能が少し下でも、きちんと訓練した領域国家の一個小隊より強くなれる訳もないし。よしんば、己の方が上でもイキるのは恥ずかしいし。こんな力は、護ったり、逃げるのに使う程度で丁度いいのだ。力は自分の一部であって、力に奉仕する為に己がいるのではない。のんびり湯に浸かりながら結論してると、ニナが密着してきた。部屋の外からは、ラジオか、レコードかは分からないが、パイプオルガンの荘厳な音楽が響いてくる。胸の奥に喜びを感じつつ、マギーは目を閉じた。
「それにしても、イザベルが生き残ってよかったよ」ニナはイザベルに語り掛けてる。
「一人だけだと無理だと思った。二人でも失敗したが。帰り道は見抜けなかった」イザベル・ミラーは死に掛けたにもかかわらず、淡々と分析でもするような口調で告げ「……それに」と口にしてから考え込んだ。
「それに?」とニナが尋ねると
「恐らくだが、己が勇敢なのか、知りたかった」イザベルの物言いは、まるで俯瞰的だが、ニナがマギーに寄りかかりながら尋ねる。
「答えは出た?」
「んにゃ」イザベルは満足そうに唸ると、湯に沈み込んだ。
風呂を馳走するのは、役目を果たしたイザベルへのねぎらいでもあった。ルークたちにも、浴場の券を送ったし、ガイ少年は、変に贅沢教えても拙いから、新しいシャツとズボン。ジーナ・Cには、新居に小さな櫃を送った。
其の儘、いい気分で四人で湯に浸かっていると、布製の窓の向こう側から喧騒と騒音が響いてきた。
「……来たな」半眼で呟きながら、起き上がったマギーは、窓辺に向かって外を眺める。細かい砂を孕んでいるのか、少し埃っぽい夏の風が火照った肌に吹きつけてくる。
下町の大浴場の眼前には、ポレシャ外門から市民居住区まで続く街路が通っていた。そして今現在、ポレシャ市には自由都市ズールとの使者が盛んに往来している。
『タリウス王とポレシャ市、双方の友人として、自由都市ズールは、仲介の労を取らせていただく』それが自由都市が口出ししてくる大義名分であり、しかし、忌々しく思いつつもポレシャ市は干渉を突っぱねることが出来ずにいた。
ふん、とジーナ・Eが鼻を鳴らした。
「なにが双方の友人だ。タリウスを使嗾したのは、てめえの癖に」乱暴な口調で吐き捨てる。
「やっぱりそうなのかね?」とニナ。
「多分ね」とジーナ・Eに「資金源だよ、資金源」とイザベル・ミラーが湯舟で沈みながら、相槌を打った。
「幾ら金持ちとは言え、200の軍隊を動かすなんて」と言いつつも、イザベルは首を捻って「とは言え、ズールの金持ちは、ポレシャとはケタが違う。何人かの支援者を集めていたら」
「結局どっちなんだろうねぇ」ニナが言い、「どっちにしろ、タリウスはいずれ殺す」仰向けで浮かんでるイザベル・ミラーがふひっと笑い、宣告した。エマ・デイヴィスやその他、幾人もの必要なかったポレシャ人たちの死に責任がある。イザベル・ミラーにとっても、ニナたちにとっても、失った顔見知りは少なくなかった。
死んだ者の魂は何処に行くのだろうな。想いを馳せつつ、マギーは沈黙を守っている。【王】タリウスの勢力は、外郭地区とは言え、ズールの一部を拠点としている。現状、マギーも幾人かの商人もズールで商売できず、かと言ってポレシャ市民軍をもってしても、バシカ地区には攻めあぐねていた。密偵の報告を統合すれば、殆んど、複数のトーチカで守られた要塞で、攻めるなら最低三百人。それも相当な犠牲を払う必要があると言うのがマギーとキャシディの一致した分析で、誰が指揮を取ろうとも、市街戦の犠牲は避けられない。加えて、ポレシャ市は、加工品の大半を自由都市からの輸入に頼っていた。交易を再開してもらわねば商人たちは食い詰めてしまう。とうの商人たち含め、誰だって面白くはないが、意地でオマンマは喰えない。現実問題として『いずれにせよ、和解するならさっさと成立して欲しい』と言うのが、大半のポレシャ商人層の本音だろう。
だが、マギーにとってはどうでもいい事だ。交易が再開するならそれに乗るし、よしんば断交するとしても、それに合わせて北のツァリオ市なりへと商売の比重を移す為の準備もしている。最悪、ポレシャ市を離れても最低限、身内が食べていくだけの目途は立つと目算は立てていた。
仲間たちの意見に耳を傾けながらも、おのれの意見は表明せずに外を眺めていたマギーだが、街路からやや離れた位置に見覚えのあるテンガロン・ハットの娘さんたち。保安官キャシディとコーデリア保安官補がいるのに気づいた。いや、街路脇に佇んでいるキャシディこそがマギーを見つめていたのだ。じっと見つめている。鋭い視線だった。
「キャシディめ。私を警戒しているな」
低く囁きながら、マギーは微笑んで手を振り返した。
心当たりが無い訳ではない。マギーとても、然るべき野心は抱いているからだ。
マギーは市民でも、正規居住者でもなく、登録労働者に過ぎない。
ポレシャに忠誠を誓う由縁もなく、そしてこれからも自身の主は己一人と決めている。
いずれは私兵を抱え、そして独立を保つつもりでもあった。
勿論、ポレシャ市を脅かしたり、征服したり、そんな野心は抱いていない。
兵団とて、精々、ささやかな商売を守るための代物に過ぎない。
だが、その人格ではなく、能力において部外者を警戒するのは正しい。
現状、マギーはポレシャに対する害意は抱いていないし、キャシディを好いてもいる。だが、万が一の場合を考え、マギーは慎重にキャシディ・エヴァンスの能力を計っていた。キャシディとて、マギーの力を計っている筈だ。
永遠の友情も親愛もない。誰もが裏切る。マギーはそれを知ってる。
(ん……いや、短絡的に過ぎるな。裏切られた過去が、トラウマになってる)と認識し、自制しつつ、脳の思考を意識してより最適な論理形態へと書き換えた。
裏切らない人間もいる。マギーは、それを知ってる。だが、裏切りそうにない人間も、裏切る事も知っていた。利益や生存ではなく、己の正義や信念、愛情に拠って。
いずれにせよ、キャシディの警戒は裏切りではない。マギーへの警戒は正しい。
どちらかが裏切りを考えていると言う意味ではない。
共同体に責任を持つ人間として、力持つ者への警戒は当たり前であり、同盟を長く続けたいなればこそ、互いに信頼し過ぎ、油断して利用価値を落としてはならない。互いに利用価値があり、油断できない状態であってこそ、同盟は長く続くのだから。
(キャシディ……君のことを好きだよ。だから友人として、これから先もがっかりさせないでくれ)
世界に正解がある訳ではないが、きっとそれが今の段階での最適解だろうと、腕組みして壁に寄りかかりつつ、マギーは考えていた。




