03_60Q 後日談Ⅱ ミリー
軽い狂気に陥っていたイザベル・ミラーだが、それでも別れる前に地図に示したエマ・デイヴィスの位置は、丘陵地帯の幾らかは深い場所にあった。とは言っても、敵の待ち伏せを受けて以降の、イザベル・ミラーは逃げ惑っていた為、必ずしも正確とは言い切れず、また無事かどうかも分からないとの事だった。
それでも兎に角、ニナは、ルーク・アンダーソンとジーナ・Eを伴って、丘陵地帯の奥地へと踏み込んだ。地図を見ながら、警戒しつつ、順調に歩を進めるも、丘陵地帯はひどく枝分かれてしている。或いは、周囲の屍者や巨大蟻、最悪、巨大蠍などを呼び寄せる恐れがあったが、大声で呼びかけてみたりもしたが、幸か不幸か、反応はなかった。
残る手段は、正攻法だけ。丘陵地帯を慎重に進みながら、広めの盆地の壁の窪みで夜を耐え忍び、翌日【王】の兵団を足止めした地点までなんとか戻ると、そこからエマ・デイヴィスたちが辿ったであろう経路を辿って北上。時刻は正午前。そこでやっと見つけた。
まず目に入ったのは、地に倒れ伏した武装した遊牧民と傭兵、それに無宿人たち。エマは、奮戦したに違いない。敵の死体が幾つも転がっていた。一つ、二つ、三つ……五つ。いずれも一発か、二発、多くて三発目で胸や額を撃ち抜かれていた。
敵の死体の間を縫うように歩きながら、声を出してエマを探した。敵兵の一人が睨むように倒れていた岩と岩の狭間、凭れかかるようにエマ・デイヴィスがいた。目を閉じて、まるで眠っているような穏やかな顔だった。傷は少ない。太ももと肩。そして胸には、ナイフが突き刺さっていた。手にはライフルではなく、何故かペンを握っている。
敵の装備も、エマのライフルや持ち物も、その場に残されていた。相打ちか、それとも持ち去る余裕さえ無かったのか。三人では、丘陵地帯で遺体を運び出すのは難しかったが、取りあえず、担架で広い盆地までは運ぶことにした。
こんな何もない場所に野晒にするよりは、葬るにしても人通りの幾らかある場所の方がいいだろう。エマ・デイヴィスに転化の兆候は見えないが、「ごめんね」告げながら、念の為に口に鉄のマスクを嵌める。懐を探ってみれば、血に塗れた手紙が入っていた。これもニナは鞄に入れると、イザベルが辿ったであろう道すじに沿って、エマとライフル、私物を運んだ。
※※※※
双子の丘の戦いの直後、放浪者の娘ミリーは、馬車に揺られてポレシャ市に運ばれた。戦闘が終わり、小さな砦から出ると、割とすぐに馬車に放り込まれたのは、多分に民兵隊の親切心ではあったのだろうが。親切なキャメロン保安官補は付き添ってくれず、一緒に旅をした人たちもあっという間にばらばらになった。
長大な防壁に守られたポレシャ市は、戦時の訪れにざわつき、浮ついた空気が漂っていたが、やはり良くも悪くも大きな町で、出入り口は自警団や民兵らが厳しく警備し、治安も安全性もやはり近隣では一等だと思えた。もっとも、出入り口で降ろされたミリーには、市内の情勢はあまり関係が無かったが。ミリーが暮らしているのは、市の下層地区ですらなく、壁外の小さな区画。放浪者たちが勝手に棲み付いただけの名もない廃地区の一角へと、ミリーは戻っていった。
距離自体は、さほどポレシャから離れている訳ではない。壁の外に、街と呼ぶにはあまりに頼りない集落がへばりついている。地面は、割れたコンクリートと踏み固められた赤褐色の泥の混合で、雨が降れば靴底にまとわりつき、夏に乾けば白い粉を吹いている。見かける小屋は低く、背を丸めなければ入れないものが多い。骨組みは曲がった枝か錆びた鉄材、朽ちかけた木材と頼りなく、壁は泥と藁、粘土などを押し固めただけで、ところどころに古い板切れや布切れが継ぎ当てられている。屋根は獣皮や襤褸布、褪せた毛布で灰色、黄ばんだ白、汚れた藍が無秩序に重なっていた。
泥の小屋に住めない貧しい者は、布や板切れで作った天幕に暮らし、さらに貧しい者は、紙切れの覆いに暮らしている。天幕と呼ぶにも心許ない紙切れの覆いが、杭に縛られて風にばたついている。紙は油染みと煤で茶色く変色し、端は裂け、夜露を吸って重く垂れ下がる。朝になれば、そこかしこで焚き火の跡が黒く残り、獣脂と湿った土の匂いが混じって漂うのだ。
比較的に恵まれた形状を保っている廃屋の片隅へと戻ってきたミリーを見ても、徒党の他の放浪者たちは不機嫌そうに鼻を鳴らし、すぐに洗濯や水汲みなどの普段の仕事を押し付けて来るだけだった。
それで食事を分けて貰ってるのだから、文句はなかったけど、囚人であったヘレンの事情や追跡の報告を尋ねられる事すらなく、ただ他の娘たちも、馬鹿にしたように此方を見ては、くすくすと笑っていたし、戻ってすぐにエマに買って貰った綺麗なシャツは当然のように何処かに消えた。庇護者を失った子の扱いなどこんなものだ。いや、失う前から、引っ込み思案のミリーはあまりいい扱いを受けていなかった。
粗暴なリドリーの居る場所ではそうあからさまではないだけで、いない場所では露骨に軽んじられていた。それで、旅でなにも役立たなかったし、なにも人生が変わらなかったと、ミリーは思っただけだ。切実でもないが、エマに会いたいと思った。最後にもう少しだけでも話しておきたかった。無事ならいい。
――――
廃区画の放浪民たちは、常に外を気にしていた。粗末な槍、刃こぼれした鉈、錆びたナイフ。弦の緩んだ貧弱な弓。それでも乏しい武装を手放さず、視線だけが忙しく動く。屍者たちの襲撃の噂や、地面の下を這う巨大蟻の話は、火種のように小声で回り、夜になる度に見えない恐怖へと変わる。不信の目は隣人たちや余所者にも向けられており、他所の地区の放浪民や浮浪者との揉め事も少なくない。
それでも、門の方角から市民が来れば、声や態度も自然と柔らかくなる。仕事を貰うため、追い払われないための、身に染み付いた媚びの笑顔を向ける。だが、町外れで荷を担ぎながら暮らしている自由労働者や、渡り人共に対しては、同じ視線が一層と鋭くなる。羨望と嫉妬の入り混じった濁った瞳を向けながら、ポレシャ人どもに媚びる召使いと密かに嘲笑して憂さ晴らしをしている日々だ。
ニナが尋ねてきたのは、帰宅してから四日後だ。女のひとりが呼びに来て、元は百貨店だろうか。徒党が縄張りとしてる大型廃建築の一室へと行ってみれば、簡素な椅子に座り込んで待っていた。
ミリーと歳も変わらないのに、堂々として徒党の顔役ホーソンと渡り合っている。むしろ、ホーソンの方がへりくだっていた。立ち会ってくれるのが、まとめ役のホーソンなので、ミリーは少しほっとした。この人は身内以外に冷たいが、しかし、馬鹿にすることもない。嫌われ者やハブられ者も淡々と他人と同じように扱う。それで影口を叩かれる事も多く、父のリドリーなどは露骨に嫌っていたが、ホーソンの身内たちは似たような雰囲気で団結していて、閉鎖的ではあるが余り他人を悪く言わない。
「色々と忙しくてね」言いながら、疲れた表情でニナは頷いていた。
後ろには手練の牧者ルーク・アンダーソンもいて、窓辺で外を眺めていたが、ミリーを一瞥すると、一瞬だけ気の毒そうに目尻を痙攣させた。
それでミリーは嫌な予感がした。挨拶の後、ニナも気まずそうに沈黙している。
「わたしは席を外しますか?」ホーソンが気を利かせるが、ルーク・アンダーソンが口を挟んだ。「いや、あんたが立ち会ってくれた方がいいな。ホーソンさん。むしろ、あんたが立ち会ってくれないと困る」
「……困る?」とホーソンが呟いた。
「ミリーだけだと変なのが寄ってくるし、言いたくないが、この辺りじゃあんたが一番マシなんだね」とルークの物言いに、ホーソンは苦笑する。
「褒められたのかね。しかし、すると、ミリーに何かしらの報償でも?」
「ううん、少し難しい話になる」とニナ。
「なるほど……ミリー。君も据わった方がいい。少し長い話になりそうだ」ホーソンがミリーに着席を進めた。
「エマは……」尋ねるミリーの声は震えた。
「……見つけただけで、敵が五人も周囲に倒れていた。最後まで諦めなかったと思う」ニナの淡々とした示唆に、膝から力が抜けて崩れ落ちそうになった。
ニナが鞄から封筒に入った手紙を取り出して、差し出してきた。
「コピーですが、ここにエマからの手紙が幾つかあります。
中身は読ませてもらいました。本物は……事情あって、今は預けてある。
色々、終わったら君に手渡されるが、今、受け取りますか?」
ミリーは震える手で、それでもしっかりと封筒を受け取ると手紙を開いて目を通した。
『敵に挟まれて小康状態、幾度かに分けて書いた。
どうにも、生きて帰れなそうなので、此処に遺書を記しておく。
私の家と畑、家畜は、ミリーに。
家は、廃墟を廃材で一から直したものだから、何処にも属してない。
生活が立つようになったら、村か、ポレシャに編入してもらうといい。
税金の代わりに、守ってもらえる。
作男ヨハンは親切な男だから、色々と聞くといい。
ベッカー農機具店には、掛け売りが。12ポンド払っておいてくれ。
マギー。借りてた銀時計は多分、灰のミレイユか、逸れ牧者のラミレスが持っていくだろう。貴方なら、連中の名前くらいは知ってると思う。ラミレスも子持ちだし悪い奴ではないが……まあ、好きにするといい。追記――ラミレス仕留めた。
ええと、他には。
参ったな、他にも言いたいことが沢山あるんだけど』
ニナが鞄を探って、封筒の中からミリーと書いてあるものを取り出した。
「此方が二枚目……少し中略してあります。他の人への言伝もありますから」
『ミリー。忘れて欲しくないのは。君を大事に思ってる人間が少なくともここに一人いる事。他にもきっと出来ること。
ああ、畜生。生きたい。
この手紙も笑い話になればいいのに。でも、駄目だったら。
君の為に命を賭けた友人がいた事を忘れないで。生きて帰るつもりだよ。
自分の価値を低く見積もったら駄目だ。
勿論、過度に天狗になるのも良くないけどね』
最後の方は文字が乱れ、血が付いている。
ミリーは取り乱したりはせず、ただ静かに涙を零した。
※※※※
【王】の兵団に追われた際、エマ・デイヴィスは、皆の為に足止めすると告げ、ミリーにはおのれを卑下するなと言ってた。ミリーの為に、命を懸ける大人がいると証明しようとした。勿論、本気で生きて帰るつもりだったのも間違いない。
善意ではあるが、同時に危険だともニナは懸念した。
ミリーの自己嫌悪や自責の念に関して、ニナはルークとも話し合った。エマが生き残るか、マギーが傍らにいてくれれば相談できたのに、と愚痴りつつ、ニナもポレシャ市民や近隣農民、自由都市の商人たちとの取引で揉まれて一応、半人前くらいには成長している。エマの選択が、ミリーの人生を壊さないかについて警戒し、距離を保って行動とその後を観察するつもりだ。
「……そう言う訳で、エマ・デイヴィスは遺産後継人に『リドリーの娘』ミリーを指名しました。家と畑、家畜、武装、衣服、商人との取引契約。自由農民としてはやや貧しいですが、かなりの財産です。なので、用心すべきかと」事務的に説明していたニナが突然、言葉を打ち切って、扉をじっと見た。窓辺にいたルーク・アンダーソンが険しい表情を浮かべて、扉に歩み寄ると乱暴に開く。と、そこに少女が一人。盗み聞きしていたのか。
「ここで何をしている?」ルークが冷たく睨みつけると「の、飲み物なんか必要ないかなって」少女がえへへと笑った。
「ほう、飲み物?どこに持ってる?」ルークに辛辣な視線を向けられ「あ、忘れちゃったみたいで」卑屈な笑みを浮かべて、誤魔化しながら後退りする。
「とっとと、失せろ!」ホーソンが怒鳴りつけると、雷に打たれたように飛び上がって、廊下を逃げていった。
「口止めは無駄だろうな。クソ、警戒して然るべきだった。
ミルトン!廊下を見張っていてくれ。これ以上、誰も近づけるな!」廊下の隣の部屋に向かって、ホーソンが怒鳴っている。
ニナはルークと目配せし、折りたたんだ書類を取り出して、ミリーに手渡した。
「三日後……いえ、二日後に弁護士のベルガーさんが来ます。エマ・デイヴィスの管財人も兼ねてます。正確には、エマの暮らしていた農村の顧問弁護士なんだけど」
「他には、ええと……」ルークと視線を合わせると、牧者の青年が頷いた。
「ニナも、俺も、困ったことがあったら相談に乗る。一連の出来事が片付くまでは、最優先で駆けつける。それと保安官事務所のキャメロン保安官補にジーナ・Cも、君を気に掛けていた。なにかあったら、すぐに相談してくれ」
「それと、ホーソンさん。出来れば、ミリーを期限まで保護して貰いたいのですが……」とニナが持ち掛け、ホーソンが頷いた。
――――
話し合いが全て終わると、ニナとルークは帰っていった。ミリーも昂った気持ちがようやく落ち着いてから、部屋を出た。建物内の広い空間に出れば、既に噂が出回っているようだ。薄い毛布や襤褸着を着込んだ人々がミリーに視線を集中する。チラチラと嫉妬の視線を向けながら、こそこそと、しかし、分かるように影口を叩いている者もいた。狭くて閉じた小集団の界隈だ。惨めな、ゾッとするような人間関係が延々と弱者を叩き続けている。
どうでもいい気がして其の儘、ホーソン一党の縄張り近くのベンチに座り込んでいると、腹の出た男が親しげに話し掛けてきた。
「よう、ミリー。今回は大変だったなぁ。親父さんも亡くしてすぐに犯罪者追跡だ。大変だっただろう」亡き父リドリーの持ち物だった上等な上着を纏いながら、気の毒そうに首を振ってる。
「何か困ったことは無いか?万事ベックおじさんが取り仕切ってやるからな。安心しろよ」『親切』ベックと呼ばれている。リドリーもなにかと評価し、頼りになる男だと評価していた徒党の顔役の一人だった。
「シャツ……」ミリーはぽつりと呟いた。
「シャツが盗まれた。大事なシャツなの」心ここにあらずと言った風情で、前を眺めながら、それだけ繰り返した。
「そうか。ちょっと待ってろ」ベックが言って、何処かへと消え、三十分ほどで血の跡が付いたシャツが戻ってきた。
人の群れの背景の中で、顔を腫らした女が憎々しげにミリーを睨みつけて来る中、「さ、お前のシャツだ」『親切』ベックはにこやかにシャツを差し出してきた。
大事そうに受け取り、大事なもののおおよそ入ってる鞄を抱えると「ホーソンさん!」シャツを手にしたミリーは立ち上がって、「迎えが来るまで泊めてくれますか?」問いかけると、ホーソンが廊下からすぐに出てきた。
「ニナ・モイラとルーク・アンダーソンから、お前の面倒を見るよう頼まれた。
二日間、部屋にいた方が安全だろう」ホーソンの物言いに顔色を変えたのは『親切』なベックおじさんだ。
「おいおい。そりゃねえぜ。ホーソン」当然に口を挟んでくるが「文句なら、保安官事務所のキャメロン保安官補に言え」名前を出して釘を刺すと、ぐっと押し黙った。
ホーソンが廊下の奥から女たちを呼んだ。
「ミリーの面倒を見てくれ。女の子同士の方がいいだろう」
ホーソンの集団の娘たちに守るように囲まれて、ミリーは其の儘、部屋の奥へと連れていかれる。
「保安官補の名も出した。馬鹿をするとは思わんが、最悪、居留地の方へ逃がした方がいいかもな」すれ違いざまのホーソンは、目つきの鋭い仲間と会話している。
恩を無視された形の――そして、軽んじていた小娘に出し抜かれたのを悟ったのだろう。ベックが怒気を滲ませていた。額に浮き出た青筋と血走った眼差しは、数週間前のミリーなら震え上がっていたかも知れない。
底が浅い。所詮、ベックはちっぽけな放浪民集団の顔役の一人で、局地的な捕食者に過ぎない。今のミリーなら、本物はもっとヤバいって分かる。なんたって【王】タリウスの兵団に追われたのだ。
親衛隊や遊牧騎兵の一人だって恐ろしい精悍さと殺気を漂わせていた。今は、ベックが全然恐くない。少しは変われたのかも、ミリーは思った。
監視か、隔離かは分からないが、ホーソンの縄張りの奥の一室で過ごし、女たちが話し相手になり、また食事時には、一党の大人や少年少女らも、追跡の話を聞きたがり、エマやイザベル、マギーにルークの活躍や判断を聞いて、大いに感心したり、自由都市での大交易市や街道筋の盛況な様子を興味津々で聞き入ったりした。
それから二日後には、弁護士と公証人が蓋つきの箱馬車で到着し、ニナとルーク。キャメロン保安官補。それに何故か、武装農民が数人も付き添ってくれて、ミリーは廃墟地区を後にした。
幾人かは陰気な視線で見送っていたが、笑顔を浮かべたり、肯いて一瞥に留め、すぐに仕事に戻っていくものも意外と多く、そう言えば、父とその取り巻き以外とはあまり話したことが無かったなと気づかされた。兎も角、ホーソンの保護は、最後まで付け入る隙を与えなかった。ホーソン一党の少年少女や女たちは別れを惜しんでくれ、「もう二度と、会うことが無いといいな」ホーソンは箱型馬車に乗る際にそんなことを皮肉っぽく口にしていた。
―――――
郊外の自治村。ポレシャ市がすぐ傍に見える程度の距離の小高い丘にエマの家はある。高台のエマの家からは、農村の風景が一望できる。
村境には土塁や木柵、土嚢が積まれ、堀も逆茂木も設けられているし、家々は屋上から弓矢やクロスボウ、アーキバス銃を配した射手が互いに補える位置に配されている。ある種の物々しさは、黄昏の時代の共同体には避けられないものだが、それでも煉瓦を積まれた農家は、淡い桃色や白亜、褐色に染まり、点在する藁葺きの納屋や牛舎や豚小屋からは長閑な鳴き声が響いてくる。家々の庭には、干された麻の洗濯物が陽光を反射し、村道に談笑する農婦たちの笑い声が響いていた。
エマと短い共同生活を送った家に、今、ミリーは一人で暮らしている。家具や持ち物は変えてないが、流石に動線はエマと違うので、暮らしやすいように多少、配置は変えた。黄昏の時代に、家は貴重な財産で、数百年も昔の家を引き継ぐのも珍しくない。誰が建てたのか、名前くらいは残して起きたいと、石壁にエマ・デイヴィスが建てたと刻み、Z275年にミリーが引き継いだと記した。
生活は結構大変だ。畑仕事は慣れない事ばかりだし、共同作業があっても、野良仕事は疲れる事も多い。エマの残した水利を巡って、他人とも交渉しなければならない。山羊は思っていたよりも臭いし、羊は甘えてくる。一頭一頭に付けられた名前があった。犬のアキレスが濡れた鼻を押し付けてくる。鶏たちは、目を離すと何処にでも走っていく。黒猫のソクラテスは何時も気まぐれだが、時々、誰かを出迎えるかのように、外の木柵の上で、じっと村道の彼方を見つめる時がある。まるで、亡き主人が帰ってくるのを待っているかのように、夕暮れまでずっとそうしている。
ルーク・アンダーソンは時々、訪れてきて銃を教えてくれる。使い方を覚えないと駄目だと、安いアーキバスに少なめの火薬と軽い鉛玉を買い揃え、幾らかの射撃訓練を行っていた。エマの銃とは色々と性能が違うみたいだけど、基礎として構え方や呼吸も大事らしい。ゴーグルと耳当てを掛けて、何発も的を狙って撃つ。
ニナは一切来ない。果たすべき義務は終わったと判断したのだろう。時々、農村の皆と市内に買い出しに行く時、大抵、誰かしらと一緒にいるニナと顔を合わせる事はあるが、挨拶をするだけで別れてる。向こうには、向こうの人付き合いがある。助けられたことだけ、覚えておけばいいと今のミリーは割り切っていた。イザベル・ミラーやジーナ・C、ガイ少年についても元気でやってるのを遠目に見かけることはあるが、長話する事はなかった。
友人、らしい友人は、まだいないけれど、エマと交流があった村の人々は、徐々にミリーを受け入れてくれて、交際を深めているところだ。
家の屋根や壁には破れてる箇所もあった。エマは何故か、放置していたが、ミリーは時々、煉瓦や漆喰を買ってきては、少しずつ補修を行っている。エマの家を出来るだけ綺麗に保って置きたかった。エマは結構、物臭だったので、元の家の方がいいと思うかも知れない。「破れ目、修理しなきゃ」と立ち上がる。
ある日、気づいた。破れた屋根の下。日の光が当たる場所。暗所に閉じ込められていた芽が、陽の光を浴びて急速に伸びるように、分厚い泥の層を立ち割って成長し、泥が剥がれ落ちたのを目にする。小さな花が咲いた時、ミリーは鉢植えを持ってきて、丁寧に植え替え、庭へと運んだ。或いは、家の中に花が咲いてる風景も、すてきだと考えていたのだろうか。今はもう、誰にも思惑は分からない。
穏やかな風が吹いている。家々の間を小道が縫い、畑の向こうには小さな貯水池が光を反射していた。淡い屋根や、まだ青々とした麦畑、濃い樹木がパッチワークのように広がる中、鶏や犬が忙しなく走り回り、子供たちは棒を振りながら追いかけっこに興じていた。市の鐘楼からは微かに鐘の音が届き、出入りする馬や牛の荷車が遠い風景に混じって溶け込んでいた。市街の輪郭や煙突も見え、雑踏や商人の呼び声、風車の軋みがかすかに届いた。夏が通り過ぎようとしている。
―――――
後書き
ベッカー農機具店
ベルガー弁護士
『親切』ベック
ベベべの章。描いたタイミングがそれぞれ違うエピソードを切り貼りしたら、こんなことに。馬鹿な。




