03_59X 積み重ねと選択
太陽が沈んでからも、暫くは西の地平と空に熾火のような淡い残光が揺らめいていた。丘陵地帯では、日没は少しだけ早く訪れる。内陸性の冷涼な気候に加えて、やや標高も高い丘陵一帯は、真夏であろうとも日没直後から寒さが忍び寄ってくる。
乾いた風が吹き抜けた。肌に触れるとひんやりと冷たく、エマは手袋をすることにした。三十分は、本隊が姿を晦ますのに必要、かつ、殿を務めたエマが離脱して生き残れる可能性があると弾き出した数字だが、綱渡りでもあるとマギーは告げていた。殿が時間を稼ぎきれない状況でも、本隊は撤退しながら戦えると予測しつつも、出来れば三十分とのマギーの要望に、エマは頷いてみせた。
ルーク・アンダーソンは、代わりを買って出たが、エマは首を横に振った。
ミリーのことを頼んでおく。牧者娘のジーナ・Cは、泣きそうな表情で手持ちの紙薬莢を半分も手渡してきた。幸いにも口径は一致して、雷管もポレシャのライフル仕様に設置部分が改造されている。同じ地域や居留地の同業者たちが、ある程度の共通規格を用いるのは、さほどに珍しい話でもない。やや古くて安い弾薬だが、有難く受け取った。
行商人『蛇』のマギーと『狐』グラハム、用心棒ハロルド・コッゾォは、ミリーについて出来るだけの面倒は見ると請け負ってくれた。少年少女たち――とは言え、大人の一歩手前の若者らは、祈るようにエマを見送ったり、抱き着いてきた。
抱き着いて震えるミリーに「ポレシャ市で会おう」と告げて髪を撫でる。
皆、いい奴らだと思った。死にたくない、とはエマだって思う。同時にこいつらの為に頑張ってやろうとも決めた。
結局のところ、人生は積み重ねと選択の帰結だ。
乱世において、弱いものは踏み躙られる。貧しいものは奪われる。
女は凌辱を受ける。愚かなものは他者に運命そのものを左右される。日が東から昇って、西に沈むのと同じだ。遅かれ早かれ、只人は荒れ狂う暴威に晒され、嵐の海に浮かぶ木の葉のように運命を翻弄されるしかない。
エマ・デイヴィスは、暴虐を是としている価値観の持ち主ではない。ただ、善良な若い人が良くそうであるように世の無情さに憤慨し、抗うのだと発奮した時期は人生になかった。むしろ、少女の時分から、志持つ若人らに軽蔑されがちな宿命論者だったと言っていい。でも、世界が残酷で邪悪だったからと言って、己がそう染まらぬ道理もないとも決めていた。エマの一徹な頑固さは、洪水が地表を押し流そうとも大樹が残るように、残酷な夜を越えて心の片隅に確固たる礎として根付き、人格の中核を形成しつつあった。
ポレシャ市の片隅の農村で過ごしながら、日々を思索し、成熟したエマは、当然のように殿を買って出た。危険な任務を引き受けたのも、長く生き、考え抜いて静かに固まった人格が危機の瞬間、感情ではなく習慣のように選んだ行動であって、例え十度も同じ場面が訪れようとも、エマは十度とも殿を引き受けただろう。
自己犠牲のつもりはない。最善を尽くして戦えるだけ戦ったら、離脱する。最後まで諦めない。エマ・デイヴィスは、いつの間にか、そうした人間になっていた。
マギーは、自分自身の人生を支配している。親切に振舞うが、常に思考し、他者を観察している節があった。牧者仲間から耳にする【王】タリウスも、多分に同類だ。
それが出来る人間は多くない。己を賢いと思っている人種。でも、若い頃はそうではなかった。向こうが認識しているかは分からないが、若き日のエマ・デイヴィスは昔の二人を知っている。
マルグリット・モイラは、もっと性情の儘に行動し、タリウス・ヴォルトゥリウスは自我を抑えきれない愚かな若者で、今にして思えばだが、ともに才能の煌めきを覗かせつつも危うさも見せていた。成熟した彼らが今、恐るべき敵と頼りがいのある味方に分かれて、再び銃火を交えようとしているのも、思えば奇妙な成り行きだ。あの頃のエマは、タリウスの父に雇われて、マルグリット・モイラとは敵だったのだ。若い頃の二人よりも、今の二人の方が好ましいとは感じる。
ともかく存外、人は成長するもので、だから今、小兎のように怯えている放浪者の娘ミリーについても、エマは心配していない。生き残りさえすれば、きっと、己の人生を切り開けると信じていた。
護送犯のヘレン……ヘレンは、悪くなった。昔より寡黙で陰に籠り、他人を試したり、用心深く距離を取って振舞うようになっていた。他人に心を許さなければ、他者も心を許さない。今も陰気で無感情な瞳で皆を眺めている。
残酷な経験が人懐こく明るかった娘を変えた。寒い夜に湯で身体を洗う時、首や手首、足首には枷の傷跡が残り、背中には鞭打たれた引き攣れが残っている。
恐らく、誰かの所有物となった時期があったのだろう。奴隷狩りは、大きな戦争では珍しくもない話だ。負けた側は勿論、勝った側にも戦争は影を落とす。
デン戦争は、色んな人間の運命を幾重にも曲げた。それでもヘレンは悪い人間ではない、とエマは思っていた。今も、そうかもしれないと思っている。任された仕事は淡々と行う性格のヘレンだから、碌に伝達を行わずに旅だったのかも知れない。或いは誤解かも知れないが、もう色々と拗れてしまった。
なにか声を掛けるべきだろうか。迷った挙句にエマはヘレンに歩み寄り、肩をポンポンと叩いた。戸惑ったように見上げてくる護送犯に頷き返すと、エマは軽やかな足取りで歩き出した。
ポレシャ人たちの旅隊は、岸壁の影となった死角から出ると、突破口と見据えた回廊に向かって移動し始める。程なく歩哨に見つかるだろう。やや離れた丘の稜線は黒く縁取りされていたが案の定、五分もしないうちに一角で慌ただしく人影が動き回り、角笛が高らかに吹き鳴らされる。二、三発の発砲音。遠い。サドラン牛の詰んだ荷物に当たると、ニナが顰めっつらで唸り、イザベル・ミラーが鼻で笑った。
エマは一行から離れて、尾根へと向かった。これから丘に陣取って、追撃を食い留めなければならない。砂礫の土地はあまり得意な地形ではない。これが灌木の林や茂みに近い土地であれば、エマのボロボロのマントは、素晴らしい迷彩効果を発揮してくれたのだが。まだ微かに陽の名残が西の空にわだかまり、長く伸びた影が砂礫の丘を横切る。完全な夜になるまで待ってから行動しても良かったかもしれない、とチラリと思ったが、崖の道を行くのは危険すぎる。どのみちカンテラを出さなければならなくなるし、牛がパニックを起こせば積み荷ごと奈落へ一直線だ。
空気は乾いており、遠くの谷底から微かに土の匂いが立ち上る。背後に足音、振り返るとイザベル・ミラーが付いてきていた。「ガイを無事にポレシャまで行かせると約束した」と言いながら肩を竦める。「一人よりは二人の方がいい」と告げる牧者の少女を見て、エマ・デイヴィスは当惑の表情を浮かべた。若く美しい娘が無頼の傭兵や無宿人らに捕縛されれば、碌でもない末路になるのは間違いない。ミラーの血筋に価値を認めて、身代金で釈放されるかも知れないが、逆に奴隷にされたり、妾にされるかも知れない。イザベルは、逸った様子も興奮した様子もなく、エマの横を通り過ぎていった。エマは肩を竦めると、予定通りの稜線へと陣取った。
岩陰に身を隠し、愛用のカンマーラーダー・ライフルを撫でてから、懐のアンクに触れる。ラーとアヌビスの名だけを呟き、隘路を迫ってくる人影に狙いをそっと定めた。
※※※※
回廊の背後から発砲音が響いてきた。長く響くライフルの銃声に長さも強さもバラバラな数多の発砲音が応射している。
誰もが沈黙して、足を動かしていたが、ルーク・アンダーソンがハッと周囲を見回し、マギーに駆け寄った。
「……イザベルがいない」耳打ちされて見回すと確かに見当たらない。
背後では、かなり派手に撃ち合っている。エマと思しきライフルに重なって、酷似した銃声が耳に届いてきて、マギーは天を仰いだ。
「……お転婆だこと」低く呻きながら、しかし、足は止めない。牛と羊たちを急がせながら時折、背後をちらと振り返っている。
日没の余韻が急速に薄れゆく中、空の色と地の色が黒く溶け合っていた。カンテラを手にした先頭のハロルド・コッゾォが、分かれ道に振り返った。「右でいいんだな?!」
額に汗を拭きだしてる用心棒に「構わない、其の儘進んで」マギーが小さく叫んだ。黄昏の静寂を切り裂くように銃声が幾重にも響き渡り、時折、遠くから屍者や獣の鳴き声が響いてくる。
敵の哨戒や本隊の位置から脱出路までの時間的距離など、マギーは敵のおおよその動きを予想して動いている。発見されて恐らく七分から十分で先鋒が差し掛かる。それをある程度、阻止できるかで旅隊が追撃を振り切れるか否かが決定する。
とは言え、予想はあくまで予想に過ぎず、想定を越えて統制が取れているか、優れた装備を【王】タリウスの兵団が所持していた場合、計画は脆くも崩れ去るだろう。
勿論、タリウスは遊牧民の廃太子に過ぎず、その兵装も麾下の戦力もたかが知れている筈だが、或いは自由都市の有力者のいずれかが肩入れして、都市軍の貴重な迫撃砲を一門なりとも密かに融通していたら、それだけで哀れな旅隊の一行は、切羽詰まってしまう。手も足も出ずに殲滅されることもあり得た。それでも、あくまで対処できる範疇と想定して動くしかない。
マギーは獰猛な笑みを浮かべた。なにが不死身のウロボロスだろうか。願望に基づいた不誠実で愚劣極まる作戦計画を立てざるを得ない。勝ち続ける事なんかできない。堅気になったのに、タリウスごときに追い掛け回されている。戦争は最悪だ。
砂礫や岩の転がる谷間へと差し掛かった。予定地点だが、足を止めない。
背後を見れば、敵の姿はまだない。が、迫って来ていることは確実だった。右手の岸壁へとニナが駆け寄った。陰影に紛れて遠目に少し分りづらいが亀裂が入っている。ポレシャ方面の平野へと続く抜け道だった。
ここからは殆んど一本道だが、幾つかの分かれ道に見える行き止まりなどは存在している。仲間たちが、牛や羊を次々と亀裂へと入れていった。牛も、羊も、渇きと夜の移動の為か。少しだけ怒りっぽくなっていたが、ジーナ・Cやルーク、ガイ少年らが上手く宥めて誘導している。
「マギー」ニナがマギーに駆け寄ってきた。マギーは戦利品のライフルと弾、そして地図を押し付け、クロスボウのボルトを受け取った。「私も残る。二人の方が勝ち目は高い」ニナが馬鹿な事を言い出したので「駄目だよ。分かってる筈。案内できるのは君だけだ。どちらかは同行しなければならない」とマギーは窘めた
「そして、何時の時代、何処の場所でも、こういう時は年長者から出るものだと相場が決まっている」告げてマギーは、ニナを引き寄せた。
「私の大事なニナ」額を当てながら、言い聞かせた。「皆を導いて行きなさい。出来るね?」
瞳が潤んでいたが、ニナは少し鼻を啜ってから頷いた。
「勿論、死ぬ気はない。後から追い付くとも。全力を尽くすと誓約する」マギーの言に「分かった。分かりました。あとで。ポレシャで会いましょう」とニナが気を取り直したように言った。
「うん、ポレシャで会おう」マギーは軽く手を振ってから離れた。黒いドーランの缶を取り出し、顔や露出した肌に塗りながら、歩きだした。
「みんな、こっち」背後では、ニナの声が聞こえたが、マギーはもう振り返らなかった。
仲間たちの気配が遠ざかっていく。岩陰に身を潜めたマギーは、カンテラの火を消した。一帯が闇に包まれる。星の光だけが降り注ぐ渓谷の底は、深海のように静謐でありながら奇妙にも圧倒されるような自然の気配が感じられた。
いつの間にやら、銃声も途絶えていた。体感で三十分は持たなかった。エマたちが逃げてくれればいいと思いつつ、必要以上に思い煩う事もない。
武器は二つの手斧と木製のクロスボウのみ。黒い液体の瓶を取り出すと、クロスボウのボルトの先端を浸す。クラーレは、植物性由来の神経毒の一種だ。元は南米のツヅラフジ科植物から抽出したアルカロイド系植物毒の呼び名だが、俗称では麻痺性の効能を発揮する植物毒一般がクラーレと呼ばれている。人を即死させるほどの矢毒ではない。筋肉を収縮させる信号を出すアセチルコリン受容体に結合し、アセチルコリンの作用を阻害して筋肉を弛緩させる。呼吸困難になるが、十中八九は死なない。生成は比較的に容易で、ある種のマメ科植物から拮抗剤も作れるので、大きめの居留地であれば治療は難しくない。
だから、いい。勝利条件は一日稼ぐこと。
勝手知ったる地元の丘。遮蔽となりそうな岩の位置もおおよそ把握している。マギーの記憶力も完璧ではないが、何度か歩き回って模擬戦闘も行なっており、最適な動線と遮蔽を取った際に把握しにくい位置関係くらいは掴んでいた。夜の闇中、地元民であるマギーは、数の差を埋め易く、かつ、地の利の優位を相応に活かせる戦場のひとつへと敵を誘導した。日没後の丘陵地には、昼間との寒暖差から山風が吹いている。例え、連発式の銃であろうとも弾は風に流れる。重たいクロスボウボルトの方が有利となる戦場だ。
それでもマギーは、かつての研ぎ澄まされた戦士の頃より鈍っていた。一山いくらとは言いつつも、闘争を糧とする傭兵や無宿人、部族どもはやはり破落戸や放浪者などとは訳が違う。戦闘技能も、意思の強さも衰えた今の己がどれだけ通用するかは、マギー自身にも分からなかった。
或いは、敵に暗視能力を持つ者がいるかも知れない。スターライトスコープや赤外線装置、高性能な義眼はまずないにしろ、混血か、突然変異か、はたまた遺伝子調整の強化軍人の末裔かは分からないが、やたらと夜目の聞く者とは過去に幾度か交戦していたし、マギーも似たような薬物を用いるが、屍者だか、変異獣の脳漿から造り出した粉末状の生成物によって、一時的に人間を越える視力や怪力、速度を得られる部族戦士の秘薬もあると昔の同僚から耳にしていた。
タリウスの雇い入れた者たちが二流、三流の連中なのは間違いないが、時には無名のうちにも、不遇にも浮き上がれなかっただけの腕利きが潜んでいる事例もある。時間稼ぎとは言え、たった一人で多勢を迎え撃つのに、必ず生還できると慢心する程、マギーは自信家ではなかった。
岩陰に待機し続け、恐らくは五分から七分ほど。南口の彼方の闇から気配が近づいてくる。瞑目していたマギーは、目を開いて岩陰からそっと半身だけ覗き込んだ。
月光の下、毛皮を被った集団が踏み込んできている。狼の頭部を残した被り物からするに、剽悍で知られたアルマンニ戦士衆の分派だと思えた。槍や剣の他、火縄銃や燧発式などを所持している者もいた。無宿人やら傭兵も混ざっているようで散開しつつ、慎重に足を踏み入れてくる。総数は二十人ほどか。まだ、背後に続いていても不思議ない筈だが、後続は見えない。迂闊にもカンテラを掲げ、足元を照らしながら、なにやらを言い合っていた。此処は岩場で痕跡は残りにくい。足跡を見失ったのだろうか。クロスボウを背負い、両手に斧を携えたマギーは岩塊の影から影へ。蛇のように音も無く進みながら、追手への間合いを詰めていった。




