03_57H 賢者はしばしば孤独だが、賢明であることは何よりも価値がある
旅の最中は常に眠りが浅かったので、帰宅したマギーちゃんは、涎を垂らして爆睡していた。おうちで昼寝は、まったく最高である。空き地は柵と縄に囲まれているし、さらには地区バリケードの内側なので怪物や野生動物、屍者も滅多に入り込んでは来ない。それでも時折は、昼寝中に屍者に噛まれて人生終わってしまう者もいる。「あ゛ああう゛うう゛~」ゾンビ風に濁声のうめきをリリーが発すると、安らかだった寝顔のマギーなのに魘されたように呻いてビクン、ビクンと痙攣する。
「あっ、リリー。こいつめ。なんて意地悪い真似するのさ。都市でやったら撃ち殺される悪戯だよ」ニナに咎められたので一旦、止めるも、リリーは楽しげにニヤニヤしていた。
マギーちゃんと隣人リリーの天幕がある敷地内は、三方をコンクリート製の廃ビルに囲まれている。一方だけが街路に面し、残りは細い路地と崩れた廃ビルが音もなく佇んでいる。地代がほぼ無料なのもむべなるかな。突然、変異獣がのそっと顔を出しても不思議ない糞……げふん、危険な立地であった。
段ボール製天幕の傍らで、リリーは石と泥の竈の上で鉄のフライパンを熱している。空き地の隅では、ココとトリスが羊たちを相手にぴゃあぴゃあと叫びながら遊んでいて、ニナは一人で絵日記を描いていた。自警団員の方のジーナ・エクルストンは、マギーの傍らに寝転んで本を読んでいた。兎も角、いつもの光景であった。
熱したフライパンがじゅうじゅうと音を立て始める。「卵貰ってきたで、チーズもあるし、オムレツにするけどええかー?」のんびりとした口調で言ったリリーに、賛同が返されたので、手元の卵を巧みに割った。「子羊の尻尾は切った方がええよ。うんちで汚れるし、うんちには寄生虫がおってな」飯の準備をしながら、うんち、うんちと口にする女、リリー。料理しながらも気がそぞろなのか、チラチラと空き地の片隅を眺めるのは、羊が気になっているのだろう。視線の先では、連れ帰った羊たちがメェメェと鳴いている。可愛いと言えば可愛いが臭かった。何故か纏わりつかれ易いニナは、染み込んだ羊の匂いに涙目で嫌そうな顔をしていた。ずば抜けた嗅覚の持ち主だけに、獣脂の入り混じった匂いが耐えがたいのだがどうしたものか、羊たちはニナが気に入ったらしく、突撃して体当たりしたり、髪を噛んで纏わりついてくるのだ。
ポレシャは町外れ地区の空き地。マギーを背中から揺すって声を懸ける。寝ぼけたマギーに殴られたら、自警団のジーナ・E以外は命が危ないので、慎重に起こす。怪物に襲われた夢でも見るのか、マギーは時々、叫びながら飛び起きる。自警団のジーナ・Eも悪夢に叫んで飛び起きるし、近所でも珍しくはない。廃墟育ちのニナやトリス、元農民のリリーが叫ぶのは、年に一度、在るか、無いか。誰も、それには文句を言わない。ただし、夜中だと怪物に襲われた犠牲者と区別が付かないので、起きた後に『悪夢は去った』などと叫ぶことが多かった。崩壊世界ならではの、奇妙な文化のひとつだ。
段ボール製の天幕の前で毛布と絨毯を広げながら、いつもの面々で食事を取っている。野良娘のココも慣れぬ猫みたいに天幕の近くでパンを齧っていた。腹を空かせた羊ちゃんたちが不満の鳴き声を上げているが、農家に預けるまでは我慢してもらう。行商人のマギーと妹分のニナは、かねての契約通りの仕事内容を首尾よく果たした。自由都市へ向かう旅の道中、宿を求めた農園で折よくサドランの遊牧民に遭遇し、その場で良質な羊を選んで五匹買い付けた。さらには、もう五匹と予約すると、一週間のうちに自由都市での再会を約して其の儘、丘陵を越えてポレシャへの帰路についたのだ。
スマートに仕事が片付いて、マギーちゃんは上機嫌であった。今は食事もとらずに、仕事内容と得られた情報などについて、日誌に書き込んでいた。かねての契約通りの仕事ぶりである。羊飼いのジーナ・クレイが、ひどく不満げであったのを除けば、目的も半ば達したと言える。依頼者のジーナ・Cは、しかし、ろくなねぎらいの言葉も掛けずに早々と帰宅してしまった。首尾よくサドラン氏族に遭遇したジーナ・Cは、出会いを奇貨と見做しなしたのか、牛を買おうと訴えてきたが、出資者でもあるマギーは想定外の出会いにも計画を崩さずに羊を購入しただけでその場を後にした。ジーナ・Cには、多分に好機を逸したように思えたのだろうか。
貧困の―――貧困だけでなく、不幸の――――もっとも恐ろしい点は、人の心を挫き、捻じ曲げる由縁にあった。怪物や戦場の与える衝撃とはまた違う、水の流れが岩をすり減らすように、やすりが金属を削るように、貧困は人間を少しずつ摩耗させる。ジーナ・Cは、あまり恵まれた人生ではなかった。貧しさに苦しんでいる人間の視野が狭くなるのは自然の摂理で、今日の食事にも事欠くのに、どうして明日を信じられるだろうか。
だけど、マギーたちの視点からすれば、北回り街道を経由しての牛の輸送は、かなりの危険を伴った。そして、自由都市とポレシャ間で安定した取引を行うマギーと、人生が切羽詰まっているジーナ・Cでは、好機に対する貪欲さはおのずと異なってくる。千載一遇の機会に挑んだとしても元々、失うものがない羊飼いの娘と違って、地区でも指折りの行商人として数百の都市通貨を容易く稼げる行商人マギーには、リスクを取る意味合いが薄かった。
或いは、喧嘩別れかな、と残念に想定しつつも、マギーはそれほど気にしなかった。誰も彼もと仲良くやっていける筈もない。だけど、貧しい間は、視野が狭くなるのは当然だし、ジーナ・Cも立場が安定すれば不機嫌も長続きしないと踏んでいる。最近のマギーは、若者や下の人間が一時的に癇癪を起しても、簡単には見限らない人格を持っていた。崩壊世界には稀有な美点だろうが、しかし、時として命取りともなる資質でもある。それを大人になったと捉えるか、弱くなったと捉えるかは、人それぞれだろう。
とは言え、なんといっても、牧者をするに最低限必要な羊の数を揃える手筈は整ったのだ。マギーは商人の責任として、ジーナ・Cの面倒をきっちりと見るつもりはあったし、他の羊飼いにも羊を運んできてもいいと考えていた。この事業は、牧者衆にゆとりを与えるだろうし、自身が暮らすポレシャにとっても安定を得る一助となる筈だ。
書くこと書いたマギーちゃんは、ペンを止めた。ニナがノートを受け取って、一瞥した。知恵や教訓を共有する為、他人に読ませることも込みで書いてあるのは、中世日本や欧州の貴族が子孫に残した日誌と同じである。
「マギーは賢いね。でも、利口さには欠けるきらいがある」日誌に何かを書き加えながら、ニナが少しだけ皮肉っぽく呟いた。
普段から痛めつけられ、蔑まれてきた人間の溜まった怒りや鬱憤は、時として思わぬ場で爆発する。賞金稼ぎと言う社会の下層を彷徨い、最近まで渡り人だったマギーだが、人生の辛酸を舐めてきたかと言われると疑問符がついた。一時期の貧しさも楽しむように乗り越えた強靭な性質は、本当に怒りを抱えた人間の気持ちは理解できない部分があった。生活は質素で飢える時もあったニナも、蔑みによる惨めさとは無縁に生きてきた。マギーは、賢明であったが故、他者の愚かさを理解できない部分があるとニナやジーナ・Eに度々、忠告されていた。長い付き合いの二人が揃って危惧を抱くのであれば、肝に銘じるべきではあった。
しかし、事業であれ、闘争であれ、何かしらの事を為すならば、いずれは人を信用しなければならない。黄昏の世に生きるならば、何処かでリスクを引き受ける必要があり、そして今、ジーナ・Cは比較的に制御しやすい相手だとマギーは見做していた。
数秒を考え込んでから「確かにジーナ・Cは、視野が狭いし、勝手な理由で腹を立てている。だけど、裏切ったりするほど、短慮でもなければ、性悪でもないと思うよ」危惧はある程度、織り込み済みだとニナに回答する。
「警戒はもう少ししておくべきだと思うけど……」ニナは呟きつつ「では、付き合い続けるつもりなの?」心配そうに尋ねてくる。
「向こうが此方と手を切らない限り」マギーは頷いた。それは選択肢を相手側に委ねると言う意味合いも含んでいて、ニナの眉根のしわが深くなった。マギーは己の考えを訴えたし、将来の展望と利益についても長期的に付き合いたいと牧者の娘に説明したが、交渉には常に恐さがある。見つめ合ってから、ニナは小さく溜息を洩らした。
「マギーは、以前より善い人間になってる。多分、オーの薫陶なのだろうけど……」
「……分かってる。他人を信用し過ぎてオーは死んだ。同じ轍は踏みたくはないものだね」精々、用心深そうに告げたマギーだが、ニナが信頼してくれたかは分からなかった。
※※※※
羊飼いに復帰する目途も付いたジーナ・クレイは、役所に牧草地の使用届けを提出してから、次いで牧者衆の長老へと挨拶に出向いた。牧人の集団に属していようと個人の雇われ羊飼いであろうと、稼業をするに当たっては市から牧草地を使わせてもらう立場に変わりはない。牧草地で出くわした際、よそ者に間違われないよう予め顔を合わせておく必要もあった。
貴重な牧草を食べ尽くさないよう、羊たちを放牧する土地が重らないよう、調整しておかなければならない。また他所の市や町に属する雇われ牧者やらに流れの家畜商、好戦的な遊牧民などの侵入に対しても備えを怠る訳にはいかない。中には、ポレシャと友好関係を保っていて、牧草地の一部を共有する農民などもいるので、注意も必要だ。一方、油断すれば他人の牧草地にしれっと紛れ込んだり、居座る野良の羊飼いや農民なども頭痛の種だった。なんならジーナ・Cもポレシャにやってくる前の一時期、人目を盗んで農場の牧草地で手持ちの羊の飢えを満たした時もあった。寒冷な曠野の地には牧草地も貴重であるから、縄張りの境界を巡って言い争いや揉め事は頻繁に起きるし、時に素手や棒切れを持っての殴り合いだけでは済まず、銃撃戦にまで発展する事も珍しくない。誰も彼もが生きるのに必死な黄昏の世に、牧草地や水源を巡る小競り合いは、日常茶飯事とまでは言わないが、けして後を絶たないのだ。
さらに言えば、曠野を旅する者にとっての脅威は同業者だけではない。彷徨う屍者や変異獣の群れ、狡猾な家畜泥棒やら貪欲な無法者。ありふれた巨大蟻や巨大鼠にだって油断はできない。そしてなにより古くからの敵である狼や野犬、コヨーテなども再び勢力を拡大させつつあった。こうした俊敏な脅威に対抗するには、忠実な牧羊犬たちの力が必要だったし、後装式ライフルに接近戦に備えた杖も欠かせない。単独行動は無謀で、どの班に加わるか。どの小頭を信頼し、誰と同行するかは、フリーの雇われ牧者にとって常に生存の鍵を握る大きな課題だった。
農場や農村に雇われた時には、弾の補給などにも頭を悩ませる事になるが、しかし、幸いにしてポレシャ市はかなりの大型居留地であって、居留地近くの牧草地などともなれば、頑丈な柵や見張り塔が備えられ、武装した守衛たちが常に巡回している。制約は多い代わりに、弾薬や食料、毛布、衣服に半長靴、青白い炎のカンテラに塩の塊など物資の配給もかなり太っ腹に与えられる。
役所や牧者たちの拠点で色々と打ち合わせてから、マギーたちに預けた羊たちを引き取って市の畜舎でタグと焼き印を押し、引き渡しの確認を済ませた後、ようやくジーナ・Cは一息つくことができた。とはいえ、放牧の段取りや巡回の計画、配給物資の受け取り手続きなど、やるべきことも山積みだった。羊飼いとしての再出発は順調に思えるが、気を抜けばすぐに荒野の現実が牙を剥いてくる。兎も角も、羊五匹を牧者集団に預けた。さらに五匹を買い付けて、最低十匹。それだけ入れば、ひとまず牧者集団に受け入れて貰えるし、羊飼いとして食べていける。
明後日には、再び、旅に出なければならない。西の丘陵地帯を越えて、自由都市へと向かうのだ。そこでもう一度、羊たちを買い付け……買い付けて、人生が開かれるのだろう。多分。複雑に入り組んだ丘陵地帯を越えるには、案内人が不可欠だ。少数の羊を伴うだけあれば、丘陵地帯を越えるのは不可能ではない。マギーの懸念はあっている。高い段差になった急所を乗り越えるにも、羊は抱えられても、牛では無理だ。羊だけ買って、さっさとポレシャに帰ってくるのが正しい。牛を買おうとの提案を突っぱねられた時は腹を立てたが、今はこれでよかったと思っている。
ともかく、明日一日は身体を休めることが出来るだろう。一日中、市内を駆けまわっては、面談したり、書類を書いたり、役所の牧草地管理担当者と打ち合わせしたり、畜舎で羊の焼き印と尻尾切りの手伝いをしたり、忙しく働きまわった。疲れ果てた足取りで、住人たちにはアパートと称されている廃屋の片隅へと戻ってきたジーナ・Cは、いつもの段ボールと藁を敷いた布の寝床へと転がった。頭の芯が痺れたように鈍っている。暫く天井を眺めていると、眠気が少しずつ這いよってきたが、その前に、と。ジーナ・Cは、隣の寝床に寝転がっている友人に声を懸けた。
「キャロちゃん、起きている?」
声に反応して、隣で毛布の塊がもぞもぞと動いた。
「うん、生きている」低く唸った毛布の塊から声が返ってくる。
「生きてるかぁ……」呟いたジーナ・Cは、暫くしてからにじり寄って、耳があると思しき場所にそっと囁きかけた。
「今やってる仕事、少しだけ上手くいきそう」
毛布が震えた。奥の方が開いて、臆病そうな目が現れる。
ジーナ・Cは、「二年か、三年したら」とそっと声を続ける。
「うん」と毛布の塊が囁いた。毛布の暗闇に包まってると隠れているように感じるのだ。ダチョウが穴に顔を突っ込むのと同じ心理だろう。
「羊が増やせると思う。そしたら、仕事を手伝って……」囁くような声で語るのは、周囲の貧しい廃墟の生活者やら浮浪者やらを警戒してのこと。特に誰か要注意人物がいたり、絡まれてる訳でもないが、廃墟で油断は命取りだった。小金でも持ってると思われるだけで厄介事に巻き込まれかねない。だから普段から誰もが警戒しているし、隣人にも簡単に心許さない。
「それで、キャロもなし崩しに羊飼いに戻っちゃおうよ」ジーナ・Cは、囁いた。友人のキャロは、とっくに牧者株を市に売り払ってしまっている。
毛布の中のキャロが、不安げに低く唸った。
「有難い言葉を。だけど、二年か、三年だと羊足りない」二人分の羊は、揃えられないと懸念を口にする。
「逆だよ。二年か、三年のうちだ」ジーナ・Cは、小さい声で断言した。キャロの毛布の端を掴んで後退を許さずに、そっと目を近づけた。
「今なら、まだ、キャロを覚えてる人も多い。元気だったか?羊飼いに戻るんか?良かったなァ。って歓迎される」
キャロが嫌そうに毛布を揺らした。可哀そうに。すっかり臆病な人間嫌いになってしまった。しかし、逃げてはならんのだとジーナ・Cは心を鬼にする。
「それ以上、時間が経ったら。今なら、しれっと顔を出しても」毛布に手を突っ込むと、キャロの髪の毛をジーナ・Cは指で梳いて囁きかけた。
「だから、復帰出来たら。時々、顔を出して手伝って」
暫くして毛布の塊が震えた。
「……分かった、手伝うよ」少しだけ嫌そうなキャロの声が、さっきよりも少しだけはっきりと聞こえた。ジーナ・Cは小さく笑った。ほんの一瞬、毛布の中の目が細められた気がした。嬉しさの滲む、微かな変化。
「羊が増えたら……ミルクも、毛糸も。ちゃんと売れたら、食べ物の心配は減るし、お金が入ったら、昔、借りてた部屋にも戻れる」
「……窓、塞げる?」毛布の中からキャロが尋ねてきた。
「うん。冬になる前にね」ジーナ・Cは囁いた。
沈黙が落ちた。少しだけ期待と不安の入り混じった沈黙。毛布の中でキャロが体を少し丸め直す音がして、ジーナは毛布の上にそっと手を置いた。
「ねえキャロ」
「……んん?」
「もう少しだけ、信じてみて。私たちの明日を」返事はなかった。もぞもぞと動いている。多分、拒否ではなかった。毛布の奥、ジーナ・Cの手の下で、キャロの小さな手が、そっと指に触れてきた。それだけで十分だった。
「上手くいくといいね」毛布の内部からキャロが小さく囁いた。
「上手くいくよ。マギーと言う案内人。評判通りに、確かに抜け目ないや。今日は、長にも久しぶりに会ったよ」ジーナ・Cは、安心させるように現状を話してみる。
「変わりなかった?」
「禿げてた」
うふっ。っと毛布の塊が楽しそうに揺れた。
アパートの外から、屍者たちのうめき声が遠く響いてきた。部屋の内部で誰かが恐怖に喘いでいる。アパート入り口には、粗末な木製の格子扉が設置され、古びたクロスボウと木の盾にこん棒を持った貧弱な武装の年老いた夫婦が、怪物に脅えながら今日も見張りについていた。もう一度、自由都市に赴いて残りの羊を受け取ったら、羊飼いに復帰できる。キャロを連れて、忌々しい廃墟から出て行こう。現役の牧者になれば、バリケードに守られた地区内にアパートも借りれるし、食べ物や薪だって安く買えるようになる。半月後、惨めな廃墟生活とはおさらばするのだ。




